マジカル頭脳パワー!! 単語

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マジカルズノウパワー

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マジカル頭脳パワー!!とは、1990年10月27日1999年9月16日に放送されていた日本テレビ系列クイズ番組である。
通称「マジカル」。

1990年代日本テレビ黄金期を支えた番組の一つ。

概要

これまでのクイズとは違い、解答者の頭の柔らかさを競い合っていく、いわゆる脳トレ系のクイズ番組である。

会は板東英二日本テレビ女性アナウンサーが「マジカルオペレーター(アシスタント)」として東と共に進行する。初代は木村優子で、2代目永井美奈子はこの番組で一躍人気となった。また、この番組の問題読み(兼ナレーション)は森功至ナレーションとして来宮良子などが起用されていた。開始当初は回答者含め全員が座って番組を進行していたが、中期からは会は常に立って進行するようになった。

初期は「あるなしクイズ」や「マジカルミステリー劇場」など、数々の人気コーナーがあった。また、中期には「マジカルバナナ」や「マジカルチェンジ」などのコーナーも誕生し、視聴率が常に均20%ほどある人気クイズバラエティ番組であった。

1980年代末に日本テレビ内部で裏番組打倒を標に企画された「クイズプロジェクト」で作られた番組の一つで、番組開始当時強力な裏番組として君臨していた「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBSテレビ)を倒すという使命を与えられ、土曜20:00~20:54で放送を開始を開始した。開始後半年で視聴率争いのしい土曜8時で15あまりの視聴率を獲得するようになり、「ごきげんテレビ」や「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」(フジテレビ)などと熾な視聴率闘いを繰り広げることとなる(土8戦争)。
しかし、のナイターシーズンとなるとドル箱番組として日テレを支えていた巨人戦ナイター中継の放送が優先となったため、人気があるのになかなか放送できないジレンマに苦しめられることとなる。を受けない東京ドーム巨人戦に加え、甲子園広島のビジターゲームの一部も中継したため、土曜日は他の曜日以上にナイター中継で通常番組がつぶれやすい曜日であった。
このため、1994年4月からは放送時間をナイター中継が較的少なかった木曜19:54~20:54に変更している(後年開始時間は変動あり)。この改編を機に1970年代1990年代日本テレビの特別番組として定着していた「木曜スペシャル」を終了させ、「マジカル」移動後の土曜に新たな特別番組スーパースペシャル」を設置し、ナイターシーズンでも通常編成時のが少ない編成に切り替えることとなった。

木曜移転を機におこなった、いわゆる開始時刻の「フライングスタート」の採用はゴールデンタイムの番組では最初とされている。

得点を「頭数」と呼び、この頭数が1000点をえると、「マジカルミステリーツアー」と題し、獲得した解答者が世界旅行一週間楽しめる賞品が存在した。また、1000点に行かなくてもトップだった場合、当初は「世界の一流ステーショナリグッズ」と称したブランドものの文房具、後期は商品券10万円分がトップ解答者に「トップ賞」として送られていた。
このミステリーツアーを獲得するのに所ジョージはかなり苦労していた。最後の「エラーを探せ!」までで700点台と、あと一歩でミステリーツアーの所を、正解した際に出た頭数が240だったり250だったりで、「990点」となる時もあった。久々1000点をえた際にはとてつもなく喜んでいた。あまりに獲得回数が多かったため、エラーを探せ!」の得点次第でミステリーツアー視聴者プレゼントすると宣言したこともある。

レギュラー解答者のうち、特に番組開始当初から長らく1に座った所ジョージの解答の仕方は有名で、問題開始後素正解に導いていった。中には問題を見ずに正解をするという、チートと思わせるような場面も見られた。あまりの所ジョージの凄さに、番組は「VS所」「出題スタッフVS所」の様相を見せ、どんなに難易度を高めたり、プレッシャーをかけても飄々と好成績を上げる所ジョージ視聴者は驚き、板東英二は苦笑いし、スタッフは素でうめいた。そのため特番のチーム対抗戦ではハンデとして所単独チームを作られた(後期では松村邦洋チーム入りしている)。一方、「あるなしクイズ」などでは視聴者からの投稿問題も採用され、その問題で所ジョージ正解が遅かった場合は出題した視聴者サインプレゼントされることもあった。得点をきっちり獲得するが発力がめられるマジカルシャウトではボケに走ることも多く、坂東に突っ込まれることも多々あった。逆に、最終レギュラーで当時上京したてだった間寛平珍解答を連発していったが、たまにトップ賞を取るような回もある。最終回の1回前に間寛平が悲願のミステリーツアー獲得を達成している。

番組の顔として存在した所ジョージの降1997年の大幅改編をに視聴率は低迷して行き、ゲームコーナーの大幅増加や裏番組に「奇跡体験!アンビリバボー」(フジテレビ)や「うたばん」(TBSテレビ)など人気番組が移動してきたことや、総合演出の五味一男の意向もあり、1999年に番組は終了。時期を同じくして日本テレビ番組改編期名物のスーパークイズスペシャルも終了している。
この番組終了の際に関東地区の視聴率を基準に打ち切りを断行したため、まだ較的好調な視聴率だったネット局側と日テレの間に轢が発生したとされる。

番組終了後もファンからは根強い人気があり復活希望するも多いが、番組終了2年後の2001年復活スペシャルが1回あったきりである。2012年からは「マジカルコンセプトを受け継ぐ」として「快マジかるハテナ」が放送されたが、番組内容がマジカルとは似ても似つかないものだったため不評であり、1年ほどで打ち切りになった。

番組史

放送された9年間を区切るとこうなる。

大まかに1990年1993年を初期、1993年1997年を中期、1997年1999年を後期とすることもある。

出演者

司会

主な解答者(番組ではパネラーと呼ばれた)

所ジョージ(1990年-1996年10月) 東と並ぶ「マジカルの顔」。1レギュラー東との丁々発止のやりとりはマジカルの名物であり大きな魅力となった。上述のとおり抜群の頭の切れの良さを見せる一方、わざとボケ解答をして笑わせることもしばしばあった。スーパークイズスペシャルでは坂東と立場が入れ替わるコーナーがあり、そのときは普段の仕返しとばかりに雑な扱いをしている。番組スタッフとの轢が原因で降したが97年に一度だけ復帰。2001年復活スペシャルで正式に復帰し相変わらずの切れの良さを見せた。

千堂あきほ(1991年-1995年10月) 当初は準レギュラーだったが後に2代目の2レギュラーとなる(初代2レギュラー田中律子)。出演を重ねるうちに所をも脅かす好成績を残すようになり、所の対抗となる。「エラーを探せ」にて高得点エラーを発見し、所のミステリーツアー獲得(1000点突破)を阻止することもしばしば。好成績を残しつつも自身はなかなか1000点に届かなかったが第111回にて念願の1000点突破を果たし、感動を流した。

俵孝太郎(初回-1995年3月) 3レギュラー。今にいうとインテリ。「あるなしクイズ」「回転ワードクイズ」では所をもぐ好成績を残すこともあったが、当時の若者文化には弱く-50で居残りになってしまうことも多かった。初期の頃はしぶしぶ出演していたと後に本人は振り返る。レギュラー後は一切出演していない。

間寛平(1991年-最終回) 最後レギュラー。今にいうとおバカ。他レギュラーが高得点を残す一方で寛だけはゲスト回答者とマイナス得点ということも多かった。一方で千堂と同じく「エラーを探せ」では所のミステリーツアー阻止する活躍を見せるなど、まさに大穴の存在であった。寛にとっては全ネットでの初レギュラーであり、この番組が東京でもブレイクするきっかけとなった。

主なコーナー

初期

中期

後期

ゲーム化

トミー(現:タカラトミー)がボードゲームとして過去に7種類発売している。年に1度のペースで発売しており、全部持っていると番組の変遷や各コーナールールが分かる。

また、セガによってアーケードゲームとしてゲームセンターに置かれていたことがあった。

その後、プレイステーション家庭用ゲーム機で発売され、2008年末にニンテンドーDS版として復活した。

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