ミノル(アイルランド産の競走馬) 単語

ミノル

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ミノル(Minoru)とは、1906年生まれのアイルランド生産・イギリス調教競走馬である。

概要

CylleneMother Siegel、Friar's Balsamという血統。

Cyllene(シリーン)は遅生まれだったためクラシック登録がなかったが世代最強と言われたで、種牡馬として最初は結果を出せずアルゼンチンに売却された。詳細は当該記事参照。
Friar's Balsam(フライアーズバルサム)は2歳時は7戦全勝という成績を残したが、3歳時は病気クラシックでは成績を挙げられなかった
やや悲劇性が漂う血統である。

ミノルウィリアムホールウォーカー大佐(のちのウェヴァーツリー卿)によって生産され、時の国王エドワード7世にリースされた。ミノルという名前の由来については諸説あるが、日本人庭師飯田実からつけられたのが有である。

ミノルエドワード王の皇太子時代からPersimmonやDiamond Jubileeなどを預かった「王室御用達」の調教師リチャードマーシュ師に預けられた。

2歳時(1908年)

Signorinettaがオークス勝利した6月5日のエプソムで、ミノルは5ハロングレートサリーフォールSでデビュー勝利した。しかしそのあとはコヴェントリーSで2着、ジュライSで2着、ホープフルSで3着、ニューサリーHで3着と善戦するものの勝利は挙げられなかった。この年の2歳フリーハンデは7戦7勝のBayardoがトップだったが、ミノルは評価外となった。しかしマーシュ師はエドワード王から預けられた6頭のを評価するとき「自分はミノルが一番好きだよ」と答えていた。

3歳時(1909年)

を越したミノルは急成長し、エドワード王の秘書を疑ったという。このは寒く、Bayardoを含む多くのの調整が遅れたが、ミノルは軽く仕上げたため有利だった。ミノルはプライベートの試走で驚異的な仕上がりを見せた後、3月31日グリーナムSで勝利した。
10頭立てで行われた4月28日ニューマーケットでの2000ギニーステークスではBayardoの最大の対抗と見なされた。レースでは終盤でミノル強く抜け出し優勝し、Bayardoは4着に終わった。タイムは1:37.8と当時のレコードで、ミノルは熱意をもって迎えられた。その後ダービーまでの間も軽い調整にとどまった。

5月26日エプソムダービーは15頭立てとなり、ミノルの対抗はBayardoとアメリカ生産のSir Martinと見なされていた。この日は大雨のため観客が例年より少なかったが王と女王が見守る中で行われた。ミノルスタート直後内側にヨレたがすぐ回復し4番手につけた。途中でSir Martinが転倒しBayardoなどが被害を受ける中、最後はミノルとLouviersの競り合いとなりミノルはLouviersをアタマ差交わしてゴールした。ミノルは熱狂の中で迎えられ、観客の中にはたてがみや尻尾を引っり持ち帰ろうとした者もいたという。エドワード7世はイギリスとして初のダービーオーナーとなり、多くの電報を受け取った。中でもお気に入りはアルゼンチンからのもので、「イギリスミノルへ、お父さんからおめでとうございますCylleneより」というものだった。
カナダでは新しい競馬場が開設されたときにダービーに敬意を表して「ミノルパーク」と名付けられ、ミノルパーク2009年像が建てられた際には名前の由来となった飯田実の子息が招待された。ここは1941年には閉鎖されたが、今でも敷地内の競技場やアイスリンクに「ミノルパーク」の名前は残っている。また、この年には「ミノル」という競馬ボードゲームも発売されることとなった。

ミノルは続いてロイヤルアスコットの1マイル戦セントジェームズパレスステークス勝利し、また1マイル戦のサセックスステークス勝利した。

9月8日ドンカスターセントレジャーステークスライバルのBayardoもをつけ4連勝していた。三冠を狙うミノルは2番人気レースに挑んだが、ここではBayardoから6身離された4着に終わった。上のジョーンズはBayardoが強かったことを認め、2000ギニーダービーを勝てたことは幸運だったとした。

10月にはニューマーケットでのフリーハンデキャップ(レース名)で1000ギニー優勝Electraにクビ差で勝利した。

4歳時(1910年)

この年はアスコットゴールドカップ標として4月26日のシティアンドサバーバンHで始動したが7着に敗れた。これに失望したのか直後にエドワード王が崩御し、ミノルウォーカー大佐に返却された。そして以後の予定はキャンセルされ、引退種牡馬入りとなった。

引退後

ミノルアイルランド種牡馬入りしたが、1913年にはロシアの繁殖事業の為に1913年のダービーAboyeurやダービーなどで対戦したLouviersと共に贈られることとなった。しかし1917年のロシア革命に巻き込まれ、AboyeurやLouvierと共に姿を消すこととなった。

ミノルが故郷に残した子供に優秀な繁殖牝馬となったSerenissimaがいる。彼女はまた優秀な繁殖牝馬となったSelene1000ギニーセントレジャー優勝のTranquil、アスコットゴールドカップ優勝Bosworthなどを残し、SeleneHyperionSickle、Pharamondなどを残した。

血統表

Cyllene
1895 栗毛
Bona Vista
1889 栗毛
Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Vista Macaroni
Verdure
Arcadia
1887 栗毛
Isonomy Sterling
Isola Bella
Distant Shore Hermit
Land's End
Mother Siegel
1897 鹿毛
FNo.5-c
Friar's Balsam
1885 栗毛
Hermit Newminster
Seclusion
The Flower of Dorset Breadalbane
Imperatrice
Galopin Mare
1887 黒鹿毛
Galopin Vedette
Flying Duchess
Mother Superior Sterling
Chanoinesse

クロス:Hermit=Chanoinesse 3×4×4(25%)、Sterling 4×4(12.5%)、Stockwell 5×5×5(9.38%)

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Amazonで「Minoru」のボードゲームを探してみたけどなかった……まぁ100年以上前のゲームですし

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