大浜(標的艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した大浜型標的艦1番艦である。1945年1月10日竣工。本土周辺にて爆撃訓練の標的艦を務めた。8月9日、避難先の女川湾にて空襲を受けて擱座し、そのままの状態で終戦を迎えた。
大日本帝國海軍では前級の波勝(はかち)を標的艦に使用していたが、その波勝の最大速力は19.3ノットとやや低速であったため、用兵側から高速爆撃用の標的艦を求める声が上がった。この要望を受けて1942年9月に策定された改マル五計画で5隻(大浜、大指、矢越、安乗、大畠)の建造が決定。しかし最終的に起工に至ったのは2番艦まで、竣工まで漕ぎ着けたのは1番艦の大浜だけだった。艦名は広島県因島北東端の大浜埼から取られている。
計画番号はJ-36。波勝型同様、船体後部上甲板の一層上に支柱を介して高度4000mから10kgの演習弾に耐えられる防御甲板を積載しているが、波勝で問題視された復元性を改善するため船型を平甲板型に変更、また波勝の舷側には10度の傾斜があったが大浜は5度に改め、防御甲板もなるべく低い位置へと変えている。アメリカ軍艦艇の30ノット急速回頭を再現するべく秋月型駆逐艦と同じ機関を搭載し、機関配置は陽炎型と同じものにして機関室の長さが最小になるよう努めた。当初は対空機銃4基しか装備しない方針だったが、1942年から1944年にかけて駆逐艦を大量に喪失し、代役の海防艦の補充すらままならない状態に陥ったため、建造途中に護衛艦にも使えるよう兵装が強化され、爆雷投射台と爆雷投下軌条を追加。これにより排水量が予定より増大して3000トンを超過したものの、復元性強化のおかげで多くの兵装を増備出来る余地があった。波勝同様、爆撃訓練の際は一旦武装を取り除いてから運用する。
ちなみに大浜を写した写真は1枚たりとも存在しない(2番艦の大指が未完成ながら写っており、他にも設計図自体は残されているためこれを参考にして大浜のモデルが再現された)。
要目は排水量3068トン、全長119.75m、全幅12.05m、最大速力32.5ノット、出力5万2000馬力、重油搭載量507トン、乗組員291名。兵装は12cm単装高角砲2門、25mm三連装機銃4基、同単装機銃20丁、三式二型爆雷投射機4基、爆雷投下軌条1条、二式爆雷36個。艦載艇として7.5m内火艇2隻と7mカッター2隻を持つ。電探装備は九三式水中聴音機、九三式探信儀、13号対空電探。
改マル五計画にて標的艦第5411号艦の仮称で建造が決定、臨時軍事費により三菱重工横浜造船所に発注される。1943年10月2日に起工、1944年1月25日に大浜と命名、3月29日に進水するが、同年秋頃に護衛艦としても運用出来るよう設計変更したため予定に遅延が発生。10月15日に山川良彦中佐が艤装員長に補されるが、当時まだ瑞鳳の航海長だったため実際に着任したのは瑞鳳沈没後の11月15日である。そして1945年1月10日に竣工を果たした。初代艦長に艤装員長の山川中佐が任命されるとともに横須賀鎮守府へ編入、連合艦隊に部署。大浜が就役した時点で既に連合艦隊は壊滅状態となっていたため、艦艇との訓練には使用されなかった。
3月から東京湾で航空機の爆撃標的艦として運用を開始。東日本を担当する第3航空艦隊隷下の部隊を相手にした。しかし昨年11月から燃料事情の悪化で新米搭乗員の空中教育の大部分が中止していた上、ヒ86船団の壊滅と南号作戦の失敗で実質南方航路が閉鎖されて大浜を動かす燃料が枯渇しかけていた背景もあって、僅か2週間で燃料が尽きて回避運動が出来なくなり、以降は木更津沖に停泊して制止目標となる。6月からは横須賀沖のブイに係留。7月15日に横須賀が爆撃を受けた際、後部マスト直上で炸裂した爆弾の破片で28名が戦死する被害を出した。7月20日に横須賀鎮守府部隊へ転属となる。
8月3日午前11時、横須賀鎮守府は行動可能な在泊艦艇に退避を命令。これに伴って大浜は特務艦宗谷とともに横須賀を脱出(深刻な燃料不足から大豆油を使用)、8月4日18時に宮城県女川港へ投錨して女川防備隊の指揮下に入る。伴走者の宗谷とはここで別れた。ちょうど北海道と横須賀の中間に位置している事から要港として最低限の設備が整っており、また東京・北海道間の輸送ルートを確保するため大浜を含む7隻の艦艇が所属していた。
1945年8月9日午前4時30分、女川方面に空襲警報が発令。攻撃が始まる前に山川艦長は乗組員を山へと走らせ、切ってきた木の枝を大浜にかぶせる偽装工作を実施した。同日早朝、女川湾にて停泊中だった大浜、海防艦天草、第42号駆潜艇、第33号掃海艇など20隻以上がイギリス海軍第37任務部隊所属の敵機の空襲を受ける。間に合わせの偽装工作では敵機の目を欺けなかったようで、500ポンド爆弾2発を懸架したコルセア8機が女川湾内へ低空で侵入、まばらな対空砲火では敵機を止めるには至らず大浜は直撃弾を受けて炎上した。それを見ていた女川防備隊の隊長は地元消防団に消火の協力を仰ぐべく通信兵を自転車で町役場へ向かわせている。8月10日16時に女川空襲が終了。大浜は被弾で生じた破孔から海水が流入して大破着底。他にも天草と第42号駆潜艇が撃沈され、死者158名を出した。このままの状態で終戦を迎える。9月15日除籍。戦後は解体されたようだが、泥砂をかぶっていた影響で1957年頃まで掛かったらしい。
山川艦長は戦争を生き残り、潮書房光人社出版『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』にて、「悲運の高速爆撃標的艦「大浜」の怒りと涙」の題名で寄稿している。余談だが標的艦ながら護衛目的にも使用出来るためか、海外の資料では海防艦扱いされたり、女川湾戦没者慰霊塔の碑文では巡洋艦扱いされたりと艦種が定まらない。
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