南号作戦 単語


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ナンゴウサクセン

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南号作戦とは、大東亜戦争末期1945年1月から3月にかけて行われた大日本帝國海軍特攻輸送である。

概要

大東亜戦争開戦劈頭、資に乏しい日本は独力で戦争を遂行出来るだけの力を持っていなかったため、当時アメリカイギリスオランダ植民地だった東南アジア一帯を奪取(南方作戦作戦)。そこから輸送を使って南方産資(天然ゴム鉱石石油等)を内地へと運び入れる事で、長期の戦争に耐えうるだけの体制を築き上げた。特に本土・シンガポール間を結ぶ、片5000kmの石油輸送路は日本にとって生命線であり、同航路を往来する団を「ヒ船団」と呼称。参加する船舶も高性なもので多く占められている。

対する連合軍はシーレーンを破壊すべく東南アジア域に潜水艦派遣。当初は微々たる船舶被害しかかったが、1943年に入ると徐々に侵入する潜水艦の数と撃沈被害が増加し始め、1944年からは無視できないほどの被害が続出。更に同年後半に差し掛かると、中国大陸や占領したフィリピンから米軍機が飛来するようになり南シナの航路も危険に曝された。


1945年1月の時点で内の石油備蓄量は100万キロリットルを割り込み、このままでは戦闘艦艇が全く身動きが取れなくなってしまう恐れがあった。そして1月12日、南シナにまで侵入してきた第38任務部隊の大規模航空攻撃により、インドシナ方面にいた船舶33隻、戦闘艦13隻がまとめて撃沈される大損が発生。強力な護衛が付いていたはずのヒ86団、ヒ87団が壊滅した事で、大本営は、南方航路の閉鎖が迫っている事実をハッキリと認識するのだった。

1月20日大本営より「燃料並びに重要物資緊急還送作戦の実施に関する陸海軍中央協定」が示される。これが南号作戦の始まりだった。南方航路が全封鎖される前に、最重要資特攻輸送する事とし、修理中の船舶を急いで復帰させたり、生き残っていた船舶をかき集めて何とか作戦用タンカーを確保。少しでも成功率を高めるべくの機を増備した。大団を組めば先の襲のようにまとめて壊滅させられる危険性があるため、小規模団を小出しで出発させる方針としている。

ちなみに南号作戦は、シンガポールにて孤立していた戦艦伊勢及び日向軽巡洋艦大淀などの脱出兼資輸送を企図した北号作戦に対応した名称である。参加するタンカーは「神機突破輸送隊」と命名。員には「輸送特攻乗組員」と書かれたマークを胸に縫い付けて任務にあたった。

3月16日アメリカ軍による沖縄上陸が近いと判断され、南号作戦は中止された。それまでに11回の作戦が行われ、30隻がシンガポールを出発し、6隻が内地まで帰還、7万トン石油輸送に成功した。戦史書では新たに4回を加えて計15回行われたとする。

南号作戦における特攻輸送

ヒ88A船団

加入船舶は2TLせりあ丸(陸軍配当)のみ。

せりあ丸はヒ85団に加わり、1945年1月7日の時点で既にシンガポールへの進出を果たしていた。しかし帰路の安全が保障されない故に現地での待機を余儀なくされる。1月15日、長浦部船長南方軍総部に呼び出され、参謀からせりあ丸を特攻「神機突破輸送隊」と命名して、航空機ガソリンを内地に輸送するよう命を受ける。

これを受けて長船長は幹部員との協議の末、出港前の会議にて、「改2A型貨物船を同行させない事」「護衛艦は2隻付ける事」「揮権と航路決定権はせりあ丸側に任せる事」「軍機図を貸与する事」を海軍に提案。当時、団の揮は商船長ではなく海軍が握り、海軍が設定した航路を進んでいたのだが、暗号解析によって潜水艦に待ちせされて大損をこうむるケースが多く、この提案は、今まで通り海軍に一任していては絶対に帰出来ないと考えた長船長の判断によるものだった。

当然会議は紛糾。海軍側の反発は大きかったものの、長船長の説得に折れ、最終的に揮権以外の提案は受け入れられ、揮権に関しても「護衛艦の先任艦長に揮権はあるが、せりあ丸船長にも行動自由を認める」と半ば容認された。


南号作戦が始まった1月20日、せりあ丸(航空ガソリン1万6000キロリットル搭載)がシンガポールのブクムを出港。午前10時シンガポール東端駆潜艇2隻が合流してヒ88A団を構成。南号作戦最初の団となった。せりあ丸は音響測深儀、20mm連装高射機関4基、13mm単装高射機関8門、短25cm1門、爆雷10個を装備しており、陸海軍双方の兵装を持った重武装と化していた。乗組員74名、陸軍船舶砲兵隊員44名、海軍警備隊員51名、便乗者8名の計177名が乗

潜水艦の襲撃を極力回避するべく、せりあ丸の音響測深儀を使い、マレー半島深15mのところをギリギリ通りながら北上1月21日午後、マレー半島で浮上中の潜水艦を発見するも、発見がかったため浅瀬へ寄る事で雷撃を未然に阻止、同日夕方にタイ王国シンゴで仮泊した。シンゴラからはタイ湾を一気に横断し、1月23日23時インドシナサンジャックへと到着。ここで駆潜艇2隻に代わって第41号と第205海防艦が護衛に加入する。

1月25日正午頃、パダランで大量の浮遊物と遺体が浮いているのを発見。去る1月12日第38任務部隊の攻撃で撃沈された味方商の成れの果てだった。翌26日、遠方から急接近してきた敵双発機が突然失速して面に墜落、第205海防艦墜落現場に急行すると、機体の尾部が面から突き出ているのが確認されたが、敵パイロット遺体は見つけられなかった。

1月27日午前7時頃、インドシナハル潜水艦がせりあ丸に向けて魚雷3本を発射。幸い全て命中しなかった。外れた魚雷のうち1本が300m航走した後に沈没していった。ポウロ諸とタンガンの間に敷設した連合軍の機雷原を突破し、夕方チョンメイ湾にて仮泊。雷跡を見つけにくい危険な間の航行を避け、1月28日明に抜錨、チョンメイ湾を発つ。

本来、ここから先はトンキン湾を横断して海南島南方を通るのが通例だが、長船長は敢えて海南島北方側(海南峡)を通る航路を選び、中国大陸沿に沿って北上していく。北側ルート潜水艦に襲われる危険が少ない一方、5000~6000トン級の船舶しか通れないほど浅瀬が多く、航空ガソリンを満載している上に、排水量が1万トンもあるせりあ丸が通るのはまさに自殺行為とも言えた。だが長船長の卓越した手腕が突破を可なものにした。通常の団では考えられないほど沿の浅瀬を通ったため図に刻々と位を記入し、手探りのように進まなければならなかった。その代わりさしも潜水艦も浅瀬では手を出せずにいた。1月29日海南峡を突破。東側へと抜け出る。もちろん海南峡を通った船舶の中ではせりあ丸が最大級であった。

1月30日香港南方を航行中、飛行をするB-24からせりあ丸掛けて2発の爆弾が投下され、左舷首50m先で炸裂したものの被害し。2月3日上海合いへと到着。ここで再び護衛が交代し、今度は駆逐艦と樫が団に伴走する。2月4日、山東半島で針路を東に向けてを横断、2月6日に到着した朝鮮半島の鎮海防艦2隻を新たに護衛へと加え、2月7日16時30分、ヒ88A団は六連泊地に辿り着く。その後せりあ丸は和歌山県港の石油基地に航空ガソリンを揚陸して見事任務を遂した。この戦果により陸軍からは武功章旗が贈られている。加えて陸軍参謀本部船舶課は協力してくれた海軍の護衛隊総部にサントリーウィスキー(当時は「の中の宝」と言われるほど希少)を贈った。

しかし2月10日ガソリンの積み下ろし中に乗組員1名が有ガスを吸引し、死亡してしまっている。

ヒ88B船団

加入船舶は2AT戦時応急タンカー大越丸、延喜丸、アメリカからの拿捕珠丸。

1月22日午前7時、ヒ88B団は第20号、第35号駆潜艇、第104哨戒艇に護衛されてシンガポールを出発。大越丸は重8000トン570トンゴム1200トン、便乗者12名を、延喜丸は重7096トン500トン、生ゴム1600トン、雑貨2200トン郵便206個、便乗者21名を積載していた。

1月27日22時30分にサンジャックへ到着。ここで珠丸と第35号駆潜艇が離脱、海防艦能美と第60号海防艦が加入したのち、翌28日21時10分、サンジャックを出発する。続いて1月29日22時30分から翌午前7時までバンフォン湾ダヨ港で仮泊。

1月31日午前5時51分、インドシナ半島バタンガン北方にて潜水艦アフィッシュから雷撃を受け、大越丸と延喜丸に魚雷が命中、午前8時5分頃に延喜丸は体を折って沈没。延喜丸の生存者は能美によって救助されている。大越丸は沈没を避ける的で座礁するも、損傷しく放棄され、第14空軍機の爆撃を受けて破壊。ヒ88B団は内地へ到着する事なく壊滅した。

ヒ88C船団

加入船舶は延長丸、大江山丸。途中で聖川丸が参加した。

1月31日午前8時、延長丸と大江山丸からなるヒ88C団がシンガポールを出港。護衛兵力は海防艦干珠、三宅、第20号掃海艇である。

2月4日インドシナのポロ・ダマで、2月8日夕刻にキノン湾で仮泊。2月11日海南島へ寄港した際、ヒ93団から分離して待機中の特設運送聖川丸が新たに加入した。翌12日に航空攻撃を受けて三宅が損傷(資料によっては聖川丸とも)。2月14日上海の舟山列聖川丸が離脱し、団は2月16日に金門、17日に南日へそれぞれ仮泊。

2月21日、延長丸、三宅、第20号掃海艇が揚子江で分離して上海方面に向かい、残った大江山丸は干珠に護衛されて2月26日14時30分に六連泊地へ到着した。上海方面に向かった延長丸も3月2日事門まで辿り着いている。

ヒ88D船団

加入船舶は2AT戦時応急タンカー延元丸、大丸、オランダからの拿捕治靖丸。

2月4日、ヒ88D団は第13号、第31号海防艦に護衛されてシンガポールを出港。同日中にサンパット湾から来た海防艦屋久が護衛に加わった。翌5日午前8時30分、浮上中の敵潜水艦を発見して団は針路を変更、続いて2月6日午前2時30分、ホーチミン南方470kmで屋久の見り員が浮上中の敵潜パンニトを発見し、この時は回避に成功したが、以降ハンニトの追跡を受けるようになる。

パンニトウルフパックを組んでいたガヴィナは照明弾4発を発射して屋久ら護衛艦艇の注意を引き、その隙を突いて21時57分、ハンニトはヒ88D団へ向けて魚雷6本を発射、このうち1本が延元丸の右舷機関室に命中。積み荷の重7110トンに引火してたちまち巨大な火の塊と化してしまう。大丸が数発の爆雷を投下して応戦、屋久がパンニトの位置を突き止めようとするも失敗。第31号海防艦が延元丸の生存者を救助してシンガポールに引き返した。

悪夢はこれだけに留まらなかった。2月7日午前3時団の左舷側に潜むハンニトを屋久がいちく発見、速力を上げてパンニトの追跡を振り切った。ところが逃げた先にはガヴィナが待ちせており、午前4時54分に6本の魚雷を発射して、3本が大丸に命中、5分以内に沈没させる。ガヴィナは沈没した大丸の尾近くの海底に横たわって爆雷攻撃を回避した。午前8時頃、屋久は漂流中の大生存者を発見し、救助活動を行った。

団は2月8日サイゴンへと到着。加入船舶が靖治丸だけになってしまったためヒ88D団は途中解散となった。屋久と第13号はヒ88H団の護衛任務に就くべくシンガポールへと移動する。

ヒ88E船団

加入船舶は2AT戦時応急タンカー延慶丸、神丸。

2月9日午前8時、第132海防艦、第104哨戒艇、第63号駆潜艇に護衛されてヒ88E団はシンガポールを出港。眼での対潜警が難しい間の航行を避けながら北上していく。2月14日サンジャックで仮泊した際に第63号駆潜艇が護衛より離脱。15日にカムラン湾、16日にクサンデー湾、17日にバダンガン湾、18日にトゥーランで仮泊。2月19日午前8時にトゥーランを出港した後、B-24による襲撃を受けたが、第132海防艦の応戦で被害なく撃退に成功した。

2月21日海南峡へ差し掛かるも濃霧による視界不良で数時間停泊。22日に牛角山南西、24日に古雷頭山西方、28日に散群3月2日大洋、6日に里湾、7日に対馬三浦湾にそれぞれ仮泊し、3月8日16時17分に的地の門まで到着。突破成功となった。

ヒ88F船団

加入船舶は栄丸、福栄丸。

2月11日午前5時10分、ヒ88F団と海防艦能美、第34号掃海艇シンガポールを出港。その直後の午前6時15分、シンガポール道東ホルスバー灯台北北東18kmの地点で能美が触雷損傷するも、幸い航行にかったため護衛任務を続行。

2月18日インドシナキンヨン、19日にトゥーランで仮泊。2月24日香港南方航空攻撃を受けて能美が更なる損傷を負ってしまい、修理を受けさせるべく団は急遽香港に寄港、現地で能美を分離して代わりに第60号海防艦が護衛に加わった。2月26日午前2時香港を出港。

3月7日深夜対馬へと到着し、海防艦を護衛に加えて翌8日午前6時に出発、そして同日15時にヒ88F団は六連泊地に辿り着いて任務を了した。

ヒ88G船団

加入船舶は第一弥栄丸、第二高丸、第三十南進丸。いずれも排水量1000トン以下の小タンカーであった。

2月14日午前8時、ヒ88G団は第31号海防艦も第20号、第34号、第35号駆潜艇を伴ってシンガポールを出港。2月21日午前9時サンジャックへ寄港、この時に第三十南進丸と第34号駆潜艇が分離し、翌22日、団はサンジャックを出発。2月23日、パダランにて第5空軍345爆撃群第500爆撃飛行隊所属のB-25に襲撃されるも、すぐさま水上機を含む味方戦闘機応援に駆け付けて戦を開始。機掃射と爆撃により第35号駆潜艇が撃沈され、第20号駆潜艇も損傷を受けた一方、駆潜艇の対射撃で1機のB-25を撃墜している。

2月25日にトゥーランで仮泊。ここで後続のヒ88H団と合流した。

ヒ88H船団

加入船舶は永昭丸、日丸、南丸。

2月16日21時にヒ88H団、海防艦屋久、第13号海防艦、第57号駆潜艇シンガポールを出発。中でサンジャック行きの南丸が分離した。

2月22日午前10時45分、インドシナ半島ファンラン湾を航行中、潜水艦クーナに雷撃され、うち1本が日丸に命中して沈没護衛艦艇が65発の爆雷を投下したがベクーナには逃げられた。更なる被害を避けるべく団は19時にニャチャン湾へと退避する。2月23日午前にニャチャン湾を出発する団だったが、敵潜の脅威はまだ終わっておらず、午後12時10分、バレラ南方20km地点で潜水艦ハンマーヘッドの雷撃により屋久が沈没。艦長を含む132名が戦死した。

2月25日にトゥーランへと辿り着き、先発のヒ88G団と合流。同日遅く、対潜掃討任務に従事するべく第31号海防艦がトゥーランを出発し、団の出発直前まで前路掃討を実施。

2月27日午前8時、ヒ88H団はトゥーランを出発。翌28日18時から3月1日午前11時まで海南島で仮泊した。23時頃、団は敵大爆撃機1機の攻撃を受け、23時14分に便乗者99名と航空ガソリンを積んだ永昭丸が沈没員7名と便乗者29名が戦死した。思わぬ被害を受けた団は海南島へと引き返し、ホウシュイ湾に避難。だが3月3日午前1時15分、出港準備中団を3機の敵機が爆撃して、第一弥栄丸が沈没させられる。

敵の襲に悩まされながらも3月4日香港へ、3月14日朝鮮半島へ仮泊し、3月17日に六連泊地に到着した。

ヒ96船団

加入船舶丸、富士丸、あまと丸。いずれも2TL戦時標準タンカーと大で占められている。

2月22日18時、ヒ96団は海防艦稲木、第8号、第66号、第81号とともにシンガポールを出港。2月27日午前0時35分、インドシナ半島ムラン湾にて潜水艦レニーが雷撃を行い、あまと丸に魚雷が命中して沈没員73名と便乗者76名が戦死した。翌28日20時25分、海南島付近で飛行中のB-29を発見して対戦闘準備を整えるが幸い攻撃は受けなかった。

3月1日14時30分、海南峡を通過中にB-24による襲が始まり、第三波15時40分、被弾が原因で丸の首に大穴が開いてしまい、やむなく2500トン原油を投棄。修理のため第8号、第66号海防艦に付き添われて香港に向かった。富士丸は至近弾を受けるも軽微な損傷で済む。

襲を逃れた富士丸は第81号、稲木に護衛されながら、3月1日に後湾、3日に雷湾、5日に万山西方、7日に厦門、8日に北開港、10日に礁山、11日に、12日に加徳に仮泊し、3月13日18時10分に門へと到着した。

ヒ88I船団

加入船舶は山丸、宝丸、第六高丸、第二十一南進丸、第二伏見丸、開南丸(サンジャックから)。

これまでの南号作戦輸送により、在シンガポールの大が尽きてしまったため、パレンバンからシンガポール石油を運んでいた小をかき集め、なけなしの護衛を付けてヒ88I団を編成。小槽5隻には合計7700キロリットルガソリンが積載された。

3月5日、ヒ88I団は敷設艇立石、第9号、第33号駆潜艇に護衛されてシンガポールを出港。潜水艦行動が難しい接航路を通って慎重に進んでいく。3月15日サンジャックへ到着し、新たに特設駆潜艇開南丸が団に加入、3月19日に同地を出発。ところが出港直後に周辺のしていた潜水艦(艦名不明)がレーダー団を捕捉。付近のウルフパックに位置情報を通達した。翌20日夕刻、周辺を遊していた潜水艦レニーに発見され、雷撃で第二十一南進丸、山丸、宝丸が撃沈。

3月21日午前1時には別の潜水艦バヤに捕捉されて開南丸が撃沈。第9号駆潜艇が投下した21発の爆雷で損傷を与えたものの、バヤはを続けた。生き残った2隻と護衛艦艇3隻は潜水艦が入り込めないニャチャン沿の入り江へ退避。対する潜水艦爆撃機部隊に攻撃を要請し、午前11時15分よりB-25爆撃機16機による爆撃を受け、第二伏見丸、第六高丸、第33号駆潜艇、敷設艇立石沈没、第9号駆潜艇が小破という壊滅に等しい大打撃をこうむる。日中、更にバヤが攻撃を仕掛けてきたが駆潜艇爆雷によって撃退されている。一方、対空砲火で撃ち落とされたB-25パイロットが第9号駆潜艇に捕まって捕虜となり、うち1名は戦傷で死亡、残り3名は首を切断され処刑。

ヒ88I団は壊滅に伴って解散、一生き残った第9号駆潜艇はナトラン湾に移動して後続のヒ88J団と合流する事となる。

ヒ88J船団

加入船舶はさらわく丸、丸、丸、南丸。このうち荒尾山丸、長丸、北上丸はサンジャックまで同行。中には仮艦首を付けて内地回航する駆逐艦天津風も含まれている。本団が南号作戦最終便であり、可動船舶をかき集めた事から、ヒ88I団とは対照的に較的大が集まっている。

3月19日午前7時30分、ヒ88J団は海防艦満珠、第134号(旗艦)、第18号、第26号、第84号、第130号に護衛されてシンガポールのセレターを出港。13時10分、シンガポール峡東側出口通過中、1TM戦時標準タンカーさらわく丸が、アメリカ軍航空敷設した機雷に触れて損傷してしまい、何とか擱座して沈没は避けられたものの、団から脱落する事になった。残った団は二列縦隊を組み、その外側を護衛艦艇や天津風が囲みながら、潜水艦が活動しにくい沿ギリギリを進む。団速力は7ノットと低速なので一度襲撃を受ければ大損は免れない。

3月22日カモで仮泊、翌23日午前8時カモを出発し、サンジャック貨物船3隻を分離、代わりに第20号駆潜艇を護衛に加えた。

3月27日午前10時、ヒ88I団(小破した第9号駆潜艇のみ)が待機するニャチャン湾へ到着。同団を統合した。28日午前8時にニャチャン湾を出発。ところが団は前日の時点でB-24の触接を受けており、午前10時40分より襲が始まり、2AT戦時標準タンカー丸が撃沈、員34名、手8名、兵員92名が戦死する。満珠と第84号海防艦生存者を救助して回った。援護に日本軍戦闘機1機が飛来するもP-38によって撃墜されてしまっている。

襲後の午後12時20分、潜水艦ブルーギル魚雷を受けて南丸の尾が切断。漂流する形で団より落していき、第18号第130号海防艦が放棄された南丸から生存者を救助したのち、団に追随。

3月29日午前7時10分、1隻だけとなった小タンカー丸を守りながら進むヒ88J団を、潜水艦ハンマーヘッドが襲い、魚雷を喰らった第84号海防艦弾薬庫への誘爆沈。乗組員191名と生存者6名全員死亡した。午前11時30分、別の潜水艦の襲撃を受けるとともにB-25爆撃機の反跳爆撃が始まり、燃料を満載した丸が沈没、その丸救援に向かった第18号第130号海防艦も撃沈され、更に22時30分、海南島南方PBMマーティンマリナーのレーダー爆撃を受けて第134海防艦が損傷した。日本側は対空砲火で1機のマーティンを撃墜している。

3月30日午前10時、守るべきを全て失ったヒ88J団は海南島へ寄港。しかし敵の攻撃は容赦なく続き、入港から45分後、襲によって第26号海防艦が中破航行不能となり、対空砲火で1機撃墜したものの、壊滅に伴ってヒ88J団はここで解散となった。生き残った護衛艦艇は3月31日に楡発、4月2日香港へと移動した。

団壊滅は上護衛総部参謀の大井篤大佐にして「第一級の惨事」と評される。またヒ88J団は最後に運航されたヒ船団となり、南号作戦終結に伴って南方航路は事実上の終焉を迎えた。

南号作戦に含まれる他の特攻輸送

ヒ90船団

加入船舶は永洋丸、日南丸。永洋丸には原油1万3000トン103トンジルコン500トンが、日南丸には航空ガソリン7000トンが積載されていた。

2月15日午前11時、ヒ90団は第8号、第52号海防艦に護衛されてシンガポールを出港。2月19日22時インドシナ南部カナで仮泊する。

2月20日午前8時にカナを出発するも、速遊中の潜水艦ガヴィナに発見され、午前9時2分、永洋丸の右舷機関室側に魚雷3本が命中して尾より沈没し始める。やがて中に流出した原油に引火、首が炎に包まれた状態で13時にパデラ灯台沈没した。ガヴィナは深40mの海底に潜って爆雷攻撃をやり過ごそうと画策。が、浅瀬ゆえに深く潜れなかったため護衛艦日本軍機から98発の爆雷投下を受けて損傷、フィジーまで後退しなければならなくなった。襲撃後団はすぐさまカナへと引き返している。

現地にて第32号海防艦を護衛に加えて同日中に出発。13時24分、潜ブレニー日南丸を狙って魚雷6本を発射してきたが事回避に成功、3隻の海防艦から一斉に爆雷攻撃を受けたブレニーは損傷を負って周辺より叩きだされた。バンフォンキノン湾で仮泊しながら進み、2月23日19時50分、トンキン湾を東進中にB-24の爆撃を受けるも被害く、23時40分に海南島深い泊地で停泊する。

2月25日午前7時30分に海南島を出発、デープ湾と巨済を経由し、3月4日14時30分に門へと到達した。

ヒ92船団

加入船舶東城丸、第二建丸。どちらも2TL戦時標準タンカーなので1万トン級の巨体を持つ。

2月18日16時海防艦昭南、第25号に護衛されてシンガポールを出港。出発直後の21時9分に東城丸が触雷して機関部を損傷するトラブルがあったが、応急処置を施して航行を続けた。

2月21日22時40分にカムラン湾へ到着して一晩を明かす。翌22日午前11時団はカムラン湾を発つも、パダラン西方28kmで第二建丸が触雷して沈没15時15分、急遽カムラン湾に引き返している。ひとまず東城丸の機関部を本格的に修理する事とし当日中の出港を取りやめた。

2月23日午前11時に再びカムラン湾を出発。2月25日午前4時20分、海南島南東150kmにおいて潜水艦ホーの雷撃により昭南が撃沈され、第25号海防艦爆雷攻撃をしている間に、東城丸は海南島へ避難する。ホーは爆雷20発の投下を受けたにも関わらず傷で逃走に成功した。その後、第25号は昭南の生存者8名を救助して楡に入港。

3月8日からは海防艦屋代が一時的に護衛に加わり、朝鮮半島西まで護送したのち離脱、団は3月11日16時20分に門へ入港した。東城丸は事内地まで帰還できた幸運なタンカーであったが、あまりにもし過ぎたためか修理不能と判断されてとなっている。

ヒ94船団

加入船舶東亜丸と海軍給油艦針尾。1TLタンカー改造とはいえ海軍籍の艦が南号作戦に参加した一の団である。

2月23日午前7時55分、第63号第207号海防艦の護衛を受けてシンガポールを出港。2月26日午前8時14分にタイランド湾オビで漂泊し、針尾にて行われた会議で、今後取るべき航路などを話し合った。オビを出た後はインドシナ半島の沿ギリギリを通りながら北上、第11防隊(第1号、第18号、第130号)や味方の水上偵察機の援護を受けつつ、濃霧で一時団が2つに分けられながらも、3月1日海南島に到着した。ちなみにはぐれ東城丸が楡へ来た時、かのを護衛していたのは本来団に含まれていない第18号海防艦だった。

にも関わらず何故か18号海防艦会議が行われ、第18号の代わりに敷設艇新井埼を加入させる案が提示される。波性の悪さと団速力の観点から反対意見が出るも結局新井埼の加入が決定。

3月3日午前9時に楡を出発。しかしその直後の午前9時47分、バスティアにてカタリナ飛行艇が敷設した機雷に触れて針尾が大破航行不能に陥り、浸を食い止めようとする乗組員の応急処置も実らず、翌4日15時7分に沈没団は慌てて楡へと引き返した。

3月5日に再び楡を出港。翌6日午前2時17分、B-24爆撃機1機が団上に現れたため、対射撃で応戦すると、敵機は爆弾を第207号の右舷45度方向に投下して逃げ去っていった。午前10時45分には敵大機が触接してきたが対射撃で難なく追い払う。護衛に来た海防艦沖縄機関故障を訴え、代わりに隠岐が派遣されるといった若干トラブルこそあれど、本格的な攻撃は受けなかった。

3月15日午前7時15分に門へ到着。何とか針尾の犠牲だけで生還した。

ヒ98船団

加入船舶は良栄丸、ぱれんばん丸。

2月27日、ヒ98団は第69号、第134海防艦に護衛されてシンガポールを出港。

3月3日午前7時30分にサンジャックへ到着し、現地で第1号第130号海防艦を護衛に加えて、同日午前9時30分に出発した。翌4日午前9時30分、バレラにて潜水艦バヤは団右後方より魚雷6本を発射、良栄丸に向かった2本の魚雷は回避できたものの、残りの4本はぱれんばん丸の機関部と体中央部に命中し、大爆発を起こしながら尾を着底させた。139名中助かったのは僅か4名のみであった。第69号と第134号が爆雷47発を投下するもバヤに損傷は与えられず。23時団はダナンで仮泊。

3月5日午前7時海南島三亜港をして濃霧の中を出発。だが午前11時10分、トゥーラン潜水艦ショーの雷撃を受け、魚雷2本を喰らった良栄丸は1時間以内に沈没。守るべき団を失った護衛艦艇は楡に到着し、そのままヒ98団は解散となった。

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