徳政令 単語


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徳政令とは、借金帳消しを命じた法律である。

概要

幕府が契約を破棄させて、債権者、すなわち金を貸した人物に対して担保として取り上げた土地や金品などを返還するよう命じた法律

元々「徳政」とは古代中国から出た考え方で、天子(為政者)がを誤れば災害が起きるので、それを防ぐために民を慈しんで善政を布くことをめたものだった。それが時代と共に物質的な側面が重視されるように成って借金の帳消しを意味するようになったのである。

1297年に執権北条貞時が発出した永仁の徳政令が最も有名で、その後も日本の歴史においては度々だされている。室町時代からは農民たちも徳政をめて一を起こすようになり、幕府も容認するようになった。

徳政令という図式と名前自体は日本独自のものだが、借金を帳消しにするという法令自体は太古の昔から世界中で行われていた。一番古いものではシュメール債務奴隷を特赦し、債務を帳消しにした記録が残っているし、ユダヤ教ではヨベルの年という50年に一度自由解放が行われる年があり、その年は借金のカタで売られた土地が償で戻って来る慣習が存在する。ヨーロッパで行われた十字軍においては、参加すれば債務が帳消しになる(ただしユダヤ人に限る)と触れ回られた。

日本における徳政令

鎌倉時代

徳政が善政を意味するように成ったことは概要で説明した通りだが、元寇を乗り切った後の鎌倉時代中期においては信仰の対たる神事の行として、寺社の修復や祭礼や祈祷の支援を盛んに行うようになっていた。

信仰を守護することによって寺社からの支援を得たり、民からの人気を得ようと狙ったのである。また雑訴行という法制度の充実も行われるようになり、訴訟沙汰をスムーズに運ばせることで仲裁者としての価値も高めようとしていた。これらは安徳政と呼ばれ、執権北条貞時の外戚である安達泰盛の肝煎りで行われた。

これらは1285年に発生した霜月騒動で安達泰盛が誅殺されたことですぐに終わってしまったが、この改革の中に所領回復というものがあり、詳細はわかっていないが、永仁の徳政令の先例になったのではないかという見方がある。

そこから10年ほど時が流れると、鎌倉幕府に仕える御家人たちの窮乏はいや増すばかりであった。元寇による戦費負担の返済に加え、北条貞時による北条得宗本家)による専制政治が進んだことで自らの土地が減りしていった為である。また、鎌倉時代分割相続が基本のため、代を経るごとに所領が減っていき、細の御家人も多く出てしまった。

首が回らなくなった御家人たちは遂に一所懸命に守ってきた土地を返済のために手放すようになってしまった。所領を失った御家人も出はじめ、幕府の土台に大きな裂が入り始めたのである。

そこで貞時は1297(永仁五)年に救済策として徳政令を発布した。

一、質券売買地の事  永仁五年三月六日

 右、地頭御家人の買得地にては、本条を守り、廿箇年を過ぐる者は本は取返すに及ばず。非御家人 并びに下の輩の買得地に至りては、年記の遠近を謂はず本は之を取返すべし。

一、越訴を停止すべき事

 右、越訴の、年を逐って加増す。棄て置くの輩は、多く濫訴に疲れ、得理の仁は、猶安堵し難し。諸人の侘傺、職としてに由る。自今以後之を停止すべし。

一、質券売買地の事

 右、所領を以ては質券に入れ流し、は売買せしむるの条、御家人等侘傺の基也。向後にては停止に従ふべし。以前却の分に至りては、本は領せしむべし。但しは御下文・下知状を成し給ひ、は知行廿箇年を過ぐる者は私の領を論ぜず、今更相違有るべからず。若し制符に背き、濫妨を致すの輩有らば、罪科に処せらるべし。

 次に非御家人下の輩の質券買得地の事、年紀を過ぐると雖も売知行せしむべし。

一、利銭出挙の事

 右、甲の輩要用の時、煩費を顧みず、負累せしむるに依り、富有の仁は其の利潤を専らにし、窮困の族はいよいよ侘傺に及ぶか。自今以後成敗に及ばず。

―『東寺百合文書』より

かいつまんで説明すると最初の文は、これ以上土地を借金のカタにするな! 既に売ったやつも元の持ちに戻す。でも20年経ったやつはしょうがないから諦めろ。といったものでこれが鎌倉幕府が直接だした法令である。

後の3つは鎌倉幕府が訴訟取り扱い機関でもある六波羅探題に送った文書で、

  1. 何度も訴えがきてだるいし、お互い疲れるだけだから、一回判決が出たやつについてはもう幕府は関知しないよ(越訴の禁止)。
  2. ウチ(幕府)がだした売却禁止について、あれがベースなんだけど、ウチが売買を認めた拠持ってたり、20年経っちゃったやつはウチが与えたやつでも先祖代々の領地でももう貸した人が返さなくてもいいよ。言う事きかねーとるかんな。でも相手が御家人じゃなかったり、金貸し(借上)相手だったら20年経過してようが売御家人に返せよ。
  3. 利息つきの借金についてだけど、後先考えねーで借りるが耐えないんで、貧富の差がやべーことに成ってる。だからもう金の貸し借りについてウチはもう一切取り上げねーよ。これについてはウチの文書もってきても変わんないぞ。

といった内容のもので、貧窮していた御家人にとっては渡りに法律であった。幕府からすればこれで御家人に所領を取り戻させ、なんとか従前の御恩と奉の関係に戻したかったのである。当初の法令ではもう土地を担保にしてはいけないことになっていたが、御家人からすればもう金を借りれなくなり、結局困ってしまったので翌年には撤回してしまった。

の立場からすればこんなことをされればたまったものではない。なにしろ、貸した金を事実上踏み倒されたようなもので、二度と御家人には金を貸さない土倉(金融業者)や借上が相次いだのである。

従前までの土地だけあればなんとかなった時代とは異なり、最であっても貨幣経済の浸透により、生活に金が必要な現状は変わることはなかった。そのため、御家人は結局また金融業者から金を借りざるを得なくなり、元の木弥となる。

ちなみに徳政令があるのになんで金を貸す業者がいたのか。という話をすると、話は簡単で「この金銭借用の契約については徳政令の効果は及ばないものとする」と一筆書かせた為である。これを「徳政文言」といい、中世以降の借用書とみられる古文書で多く見られるように成った。室町時代には徳政文言は効とする命が出されたりしたが、それもまた業者側が効の効にしたりといたちごっこの状況が続いていく。

結局のところ貞時のだしたこの政策は一時的な効果におわり、幕府は滅亡へと向かっていくことになる。

室町・戦国時代

室町時代になると、1428年の正長の土一をはじめとして、貨幣経済が農にも浸透したことで徳政をめる徳政一が頻発するようになった。また、一の衆が貸屋敷を襲って文を焼き捨てる「私徳政」と呼ばれる行為もみられるようになる。

この頃は幕府も知恵をつけたもので、債権債務)全体の10分の1~5分の1を納める分一銭という手数料を土倉や屋(これも金融機関の一つ)が納めれば、その業者については債権を認め、徳政を認めない(徳政禁制)という方針を打ち出すように成った。これは債務者側も一緒で、借金総額の1割から2割を払えば徳政を認めて債権が破棄される仕組み。

が起こされたからといってなんでも認めれば当然幕府は金融業者からの信頼を失い、彼らから回収する税が滞って財政が厳しくなってしまう。その為折衷案として、上納金の有で徳政を認めるかどうかを決めてしまうのである。

借金がなくなってしまえば彼らも露頭に迷うので、彼らは進んで分一銭を納めるように成ったが、これに味をしめた幕府は分一銭の納入を前提にした徳政令(分一徳政令)を濫発するようになった。

本来借金を免じて徳政を行うはずなのに、あろうことか幕府が上前をはねてこれを財としてしまうという本末転倒なことがここに発生した。これが行われたのは応仁の乱から10年ほど遡った1454年のことである。

戦国時代においては(後)北条氏において代替わりの徳政が慣習化されていたことが残されている。他にも武田信虎や、六角義賢といった大名も発した記録が残っている。

江戸時代

江戸幕府の頃には「徳政」としての借金帳消しの命は発されなく成った。

しかし、かといって借金棒引きの政がだされなかったかといえばそうではなく、徳川吉宗の時代に享保の改革の中で相対済しという法令が出されている。

これは直接借金を免除するものではなかったが、金銭訴訟の取り扱いを訴訟沙汰が多すぎることを理由に停止し、当事者間で”相対”して解決することを命じた法令である。あくまで借金を踏み倒すためのものではなく、訴訟事務の軽減を狙ったものと幕府は強調しているが、このせいで踏み倒しが増えたことは言うまでもなく、数年ほどで止されることになった(だがやはり金銭訴訟が膨大だったのは事実なので、その後も何回か出されている)。

更に時代が進み、松平定信によって寛政の改革が行われるようになると棄捐というものが出るようになり、これは相対済より更に踏み込んで債権自体の放棄を命じた法令であった。これは借金返済に苦しむ旗本や御家人につけこんで金を高利で貸して贅沢にふける札差(金融業者)たちへの紀統制の意味合いもあった。徳政令と異なり全て帳消しではなく、5年以上前のものは帳消し、5年以内のものは年6%の年賦償還とし、新規貸付の利率も引き下げさせるものであった。保の改革下で水野忠邦によっても利息・年賦償還という形で出されている。

しかし、旗本御家人の窮乏が価の値下がりという根本的な問題があるため、借金を帳消し・低減したところでおさまるものではなく、効果は限定的なものにすぎなかった。

江戸時代を通して武士の背負った借金は明治時代になって報告された史料によれば、債だけで7200万円(現在の価値になおして1兆4000億円ほど)にのぼり明治政府はこの返済に大いに苦労することに成った。

現代における徳政令

現代においてももちろん本来の意味合いでの徳政令というものは存在しない。ただでさえ借金が焦げ付いたら金融機関が破綻して経済危機が起こるのにが大々的に借金を免除しますなどと言ったらどうなるかは火を見るより明らかだろう。ちなみに債務に徳政令を実行することは一般的にデフォルトと呼ばれ、これが行われれば経済事実上破滅する。

しかし、債務整理の一環として借金免除を認める法律破産法をはじめとして数多く存在する。個人相手でも自己破産の他には個人再生などが裁判所認定する減免の方式としてあげられるだろう(任意整理はあくまで民間でのやりとりなので除外)。

これらの破産と徳政令の違いは債務者側に何かしらの負担をめるかどうかで、破産の場合は差押禁止債権に該当する財産以外は全て手放さなければならないが、分一徳政令を除けば徳政令を出された場合、債務者には一切負担を命じられることはなく、債権者が一方的に損するのである。

また、ゲームの『桃太郎電鉄』においては徳政令カードというそれまでプレイヤーが背負った借金が帳消しになるアイテムが存在し、そのような形でも現代まで伝わっている。

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