生駒(航空母艦) 単語

イコマ

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生駒(いこま)(航空母艦)とは、大東亜戦争末期大日本帝國海軍が建造しようとした雲龍航空母艦6番艦である。完成する前に終戦を迎えて1947年3月10日に解体を了した。

概要

艦名の由来は奈良県西部大阪府東部の県に位置する生駒山から。他の艦名補に妙義があった。

雲龍空母は中空母飛龍ベースに、艦位置の変更、の変更、対兵装の増強、その他戦訓の反映といった小改良を加え、構造の一部を簡略化して量産性を高めた戦時急造空母である。このため公式には飛龍と呼ばれている。合計15隻の建造が予定されたものの、戦況逼迫に伴って工出来たのは雲龍天城葛城の3隻のみ、起工出来たのも生駒を含めて5隻のみだった。ちなみに生駒は帝國海軍において最後に起工した正規空母である。

生駒は他の姉妹艦とべて若干設計変更が成されている。雲龍からまでは飛龍と同じ直流220Vだったのに対し、生駒は発電機容量を増大して当時の新造艦と同じ交流440Vとし、ニッケル不足により生駒のみ装甲厚をCNC甲鈑55mm+CNC甲鈑46mm+高力鋼25mmに変更、姉妹艦よりも対兵装を強化、軽質庫に防御を施し、揚爆弾魚雷装置を新に換装、大化する新機(烈風流星彩雲)に対応するなど様々な改良が施された。このため乗組員数や搭載機数が姉妹艦と微妙に異なる。公式には改飛龍と呼ばれている。

戦争末期機関の調達が困難になり、天城置は建造中止となった改鈴谷重巡洋艦機関を、葛城陽炎型駆逐艦機関を流用して急場をいでいるが、生駒のみ雲龍飛龍と同じ艦本式タービン(高中低圧)を搭載する予定だった。

排水量1万7500トン、全長227.35m、全幅22m、出力15万2000力、最大速力34ノット、重3750トン、乗組員1101名。兵装は40口径12.7cm連装高6基、25mm三連装機13基、九五式爆雷6個。搭載機は常用艦戦18機、補用2機、常用艦爆27機、常用艦偵6機、計51機と補用2機。

艦歴

戦前1941年11月策定の昭和十六年度戦時建造計画では、中航空母艦1隻(後の雲龍)のみが建造予定となっていたが、1942年6月に生起したミッドウェー海戦により正規空母4隻を一挙に失う事態が発生。空母の補充が急務になるも、1942年1943年中に就役する空母は1隻もく、建造中の空母大鳳のみと絶望的に数が足りなかった。そこで帝國海軍は優秀船舶空母改装を急ぐとともに、9月に改マル五計画を策定して雲龍空母15隻の増産を図り、このうち第5007号艦の仮称を付けられたものが後の生駒となる。

1943年7月5日川崎重工神戸工場にて起工。1944年9月5日軍艦生駒と命名され、本籍を舞鶴鎮守府に仮定するとともに雲龍航空母艦へと類別等級制定。しかしマリアナ沖海戦300機以上の航空機を失って母艦航空隊は壊滅、戦況の悪化で航空機、搭乗員不足に止めが掛からず、再建の途も立たない事から、11月9日姉妹ともども建造中止命が下り、11月17日に何とか進したものの、これは台をけるために行った名ばかりのものであった。

その後は完成率60の状態で神戸港外に係留放置される。一応体は完成していたが、上部構造物や座用のスポンソン、マストなどは一切存在しない、言わば浮いているだけの状態だった。論自力航行も不可能。飛行甲には作りかけの煙突だけがぽつんと置かれている。一方、敵機の攻撃を吸収させる効果を期待してか、各所にコンクリートを充填していたり、飛行甲に何かを塗っていたらしく、神戸市民の間では「コンクリート製の空母がある」と噂されていたとか。

1945年2月4日、69機のB-29神戸市地の兵庫区、長田区を狙って焼夷弾や破砕弾172.8トンを投下。これは今後本格化する都市爆撃実験的性格を持っていた。この時の流れ弾で生駒にも焼夷弾が命中して小破する。3月17日あられを伴った北が強く吹く中、307機にも及ぶB-29が低神戸市内に侵入し、2000トン以上の焼夷弾を投下、伊158が損傷する被害を受けた。その2日後の3月19日には第58.2任務群が神戸及び大阪方面の襲を行い、攻撃隊の一部が神戸港内の艦を襲撃するなど、いよいよ神戸も危険な場所となってきた。

空母アメリカ軍の最重要攻撃標となっているため4月25日小豆島西部池田湾へ疎開神戸にはアメリカ軍が敷設した機雷があり、脱出の13日前に呂64が触雷沈没小豆島でも第170号特設駆潜艇が触雷損傷する中、小豆島まで移動出来たのは幸運と言えた。小豆島自体は襲を受けなかったが、6月29日岡山襲へと向かうB-29の編隊138機が小豆島南端の上通過していった。

8月8日アメリカ軍B-24、B-25、A-26、P-51P-47九州方面、九州朝鮮間の船舶を攻撃し、一部が小豆島にも出現して池田高松間で運航していた女神丸を機掃射で撃沈するも、迷彩が効いていたのか生駒に被害かった。そして小破状態で8月15日終戦を迎える。

1946年1月14日5月23日アメリカ軍が撮した写真によると、体の迷彩が二重になっている。4月1日除籍。岡山県玉野市三井玉野造所にて6月4日より解体工事を開始し、1947年3月10日了した。

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