西行 単語

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サイギョウ

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西行(さいぎょう、1118~1190)とは、平安時代後期の歌人僧侶である。

概要

新古今和歌集を代表する末期の大歌人で、百人一首86番の作者でもある。

俗名は佐藤義清(さとうの のりきよ)と言い、鳥羽上皇の警護を担当するエリート武士集団・北面の武士の一人だった。佐藤平将門を討伐した藤原秀郷俵藤太)の末裔で、彼の実家はかなり裕福だったらしい。恵まれ環境からか、若い頃から和歌や有職故事に通じ、武芸の腕前も抜群と非のうちどころがく、将来を期待されていた。

謎の出家

ところが23歳の時に、それまで築き上げた地位も名誉も捨てて、突然してしまう。その理由はよくわかっていないが、最も有なのは、しかった友人突然病で亡くなり、世の中の無常を悟ったという説である(吉川英治の小説「新・平家物語」はこの説を採用している)。西行は出してを出る際、すがりつく4歳のを蹴り落としたというエピソードがある。有名な話だが、その出典は江戸時代較的新しく、鴨長明の「発心集」によると、どうも実際にはちゃんと西行のに引き取ってもらったのが相らしい。ウィキペディアには、なぜか西行のの記事がある。

の原因の異説として、高女性との失恋が原因で出した話も知られる。その相手として特に有名なのが、鳥羽上皇の中宮・待賢門院子である。大河ドラマ平清盛」でも採用されたが、出した後に西行が待賢門院の死を深く悲しんだという記録や、西行が崇徳天皇に重用されたのも・待賢門院の計らいがあったからとも言われる。ただ、待賢門院は西行より17歳も年上であり、藤原定家式子内親王の関係同様に、信憑性は低い。作家瀬戸内寂聴は、相手は待賢門院のライバル・美福門院得子の説も考えられると評し、文学者の青柳隆志この美福門院説を支持している(美福門院は西行より1歳年上なので、一応年齢的には褄が合う)。

漂泊の人生

その後、西行は全各地を行脚する生涯を送った。宮中や貴族の邸宅での歌合わせに参加することはかったが、各地を回りながら歌を詠み、その名は出前にも増して高まった。また西行は、平重衡の焼き討ちで消失した東大寺を再建する高僧・重に協し、再建と大仏建立の勧進も行った。この際西行は、平泉奥州藤原氏藤原秀衡や、鎌倉幕府の源頼朝とも対面した。かなり顔が広かったことがえる。頼朝と会見した後、頼朝からの像を拝領したが、西行はばたで遊んでいる子供に惜しげもなくあげて去って行ったという。他にも、出前に仕えていた崇徳上皇の菩提を弔うために、讃岐を訪れたこともある。この話を基に、小説物語」では霊と化した崇徳院邂逅している。

西行は出しても、なかなか自分が俗世への未練を捨てきれないことに苦悩したようだ。百人一首では「嘆けとて やはものを 思はする かこち顔なる わがかな」の歌が選ばれているが、西行ならば他にもの歌で多くの名句を読んでいるにもかかわらず、定はあえての歌を載せている。を見て西行が思い出すのは、自分が捨てた妻か、それとも待賢門院、はたまた美福門院だろうか?今となっては、永遠のである。

また「世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ」と、自分が出して本当に良かったのかを問う歌も残っているなど、出しても然とせず、常に人間的な悩みを抱えてところに、西行の魅があるのかもしれない。

を続けながら己自身を見つめ直す西行にも、遂に最期の時が訪れる。かつて彼は「願はくは の下にて 死なむ そのきさらぎの 望月の頃」と遺言めいた歌を詠んでいる。仏教の祖・釈迦の入寂のような死に方に憧れていた西行は、果たしての木が咲き誇る中、西行は釈迦命日と一日違いで、和歌の通りにの木の下で静かにその生涯を閉じる。その最期は、後世の歌人にも多大なを与えた。

伝説・創作

高名かつ、魅的で、しかも各地を放浪したので想像をふくらませる余地があるためか、上記「物語」のように西行に関しては様々な伝説創作エピソードが存在している。

その中でも有名な一つとして、「高野山で人から人を造ったが失敗作であった」というものがある。「撰集抄」という説話集に掲載されており、大体のところは以下のような話である。

 

西行が高野山の山に住んでいた頃。一緒に月見などをしていた友人が用事で山を降りてしまったことから、西行は人しさに悩むようになる。そして、「は拾い集めた人から人を造る」という伝説のように、自分も以前に徳大寺から教わって知った「反の秘術」を用いて人間を造ろうと思い立った。

西行が野ざらしになっていたを集め、秘術をかけたところ、確かに人の姿に似たものを造りだすことができた。しかし色が悪く、心がかった。人は心があってこそなのだ。を出すことはできたものの、吹き損じたのようにただを出すばかりだ。壊してしまおうと思ったが、人殺しになるのではないか?いや心がいから木と同じでは?などと考えた末、人の通わぬ高野山の地に放置した。

西行は失敗したことを不思議に思って徳大寺を訪れたが、ちょうど宮中に上がっており不在だったので聞けなかった。しかし前中納言 師仲の元を訪ねた際に「反の秘術」の詳しい手順も含めて失敗について話したところ、手順の間違いを摘された。師仲は、四条大納言 藤原公任の流んで反術を行い「人」を作ったことがあるのだ。今はその「人」は卿にすらなっているが、もし名を明かせば作られたその「人」も作った自分も溶け失せてしまうため口には出せぬという。

手順の誤りとは、術中で香を焚いたことだという。そのために本来必要な「魔縁」ではなく「衆」が集まってしまい、そして衆は生死を深く忌むために術が失敗して心が生じなかったのだ。ただの香ではなく沈香と香を焚くべきであった。また、術者は七日絶食する必要がある。これらを守れば、そのほかの手順は合っているので西行にも「人」を造れるだろう、と。だが、つまらないと感じてしまい、以後西行が人を造ることはかった。

また、土御門右大臣 師房が人を造った時には、師房のの翁が現れて「が身は一切の死人を領するものであるぞ。死人どものに断りもく、なぜを取るのか」と恨み言を述べた。これに対して師房は、「この秘術を後世に伝えては、私の子孫が人を造ってしまい霊に取り殺されるであろう」と案じて資料を焼き捨てたという。このように、やはり反というものは益な術なのだろう。

だが、賢と讃えられる「の二子(伯夷と叔斉?)」は、老というが穎ほとりで造った者たちだ、という話も言い伝えられているのだ。

 

寂しいからと人を造った挙句、失敗作だからとあっさり放置。結構ひどい話である。

死人のから造られた「人」が再び死ねるものかは分からないが、もし死ねないものであるとしたら。心がいため捨てられたことも理解できず、数年経った今でも西行の迎えを待ち続けているのかもしれない。高野山ののどこかの暗がりで、吹き損じののようなを上げながら。高野山にハイキングに行く人などは探してみてはいかがだろう。

 

ただし、この「撰集抄」は古くは西行本人の作だと信じられていたが、江戸時代の頃には、西行が書いたという体で別人によって著されただけのものと判明したので、この話も当然ながら単なる伝説である。

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