釈迦 単語

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シャカ

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釈迦とは、紀元前5世紀頃の人物。仏教の祖である。

概要

伝承によれば29歳で出し、六年間の遊学や苦行ののち、それら既存の見聞や修行に見切りをつけ35歳で成。以後、80歳で死去(入滅)するまで教えを説いた。

釈迦とは出身部族のシャーキャ族のことであり、釈迦牟尼(シャーキャ・ムニ)とは釈迦族の者を意味する。

本名はゴータマ・シッダールタとされるが諸説ある。サンスクリットでの表記は「गौतम सिद्धार्थ」であり、「गौतम」が姓、「सिद्धार्थ」が名。

姓はゴータマではなくガウタマやゴーダマやガウダマなどとも、名はシッダルタやシッダッタなどとも表記され、上記の「ゴータマ・シッダールタ」は単に最も一般的なカタカナ表記というだけに過ぎない。正確な発音は不明。サンスクリットパーリ語で記された初期典を参考とするにしても当時のそれらの言の発音を正確に推定するのは困難である。なお生前の釈迦や周囲の人物はマガダを話していたと推定されている。

ブッダは尊称であり在世中は必ずしも釈迦を意味する名称ではなかったが、現在仏教では釈迦一人を意味する。

生涯

入胎

生年は全くと言ってよいほど分からない。古代インドでは輪廻転生歴史の繰り返しが説かれたため、元号年号のような固定的歴史観は想念し得なかったためと言う。日本の学者は概ね前5世紀説を採るが、それでも100年前後のズレが生じる。

はゴータマ・シュッドーダナ(浄飯王)、はマーヤー(摩耶夫人)。シュッドーダナはシャーキャラージャ(王)であり、マーヤーは隣コーリヤの王族からいだ第一婦人である。所属部族のシャーキャ族はとしては小国で強大なコーサラの属ではあったが、伝説的なインドの王であるイクシュヴァークの末裔を称し、その高さはコーサラの王ですら一歩譲らねばならないほどであった。

たいへんな種であり、懐妊の時から大きな期待を寄せられていたとされる。占い師は王子は世俗で生きるのなら転輪王(武を用いず世を統べるインドの理想上の王)に、出をすればブッダとなると予言しシュッドーダナは喜びをえて不安すら覚えたと言う。

出胎

シュッドーダナ出産につき障りがないようマーヤーを実家に送り出すが、旅の途中で産気づきルンビーニ園で男児を出産した。伝承によれば男児はマーヤーが沙羅の枝を取った時に右から生まれ、世には明が差すなど三十二の瑞兆が現れたと言う。四方に7歩歩き「天上天下独尊」と宣言したと言う逸話も有名である。

アシタ仙人の予言

男児はシッダールタ(達した者)と名付けられた。マーヤーは産後の肥立ちが悪く、シッダールタ誕生から七日に亡くなった。

シッダールタはシャーキャの都、カピラヴァストゥーに着くとシュッドーダナの師で宮廷僧だったアシタと謁見。アシタは喜びのあまりシッダールタを抱きかかえ「これは上の方です、人間のうちで最上の人です」とを上げた。

しかし、続いてを流した。シュッドーダナやシャーキャの人々は不吉の相があるのかと訝しんだが、アシタはすぐに否定し転輪王ではなくブッダとなることを予言。「この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。この方が悟りを開かれる前に中途でわたくしは死んでしまうでしょう。わたくしなきのある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲観し、苦しんでいるのです」と言った。

在俗生活

シュッドーダナは一人息子で跡取りのシッダールタに出の相があることを喜ばなかった。そこでまずマーヤーのハープラージャーパティ(摩訶波闍波提)を正妃に迎え、庭的な情に飢えないように手を打った。暖かい庭の他にも二つの専用の宮殿を与え、贅沢な衣服に世話係、優秀な教師をつけて何もかも満足出来るような環境を整え、立ラージャまたはクシャトリヤ武士)となるよう仕向けた。

の期待を一身に背負ったシッダールタは7歳または8歳にして教師たちが教えた学問を習得し、クシャトリヤとしても優秀な武芸も身につけた。

16歳または19歳の時にヤシャーダラ(耶輸羅)と結婚し、一子ラーフラを設けた。しかし、ラーフラは障碍を意味し、既に出を志していたシッダールタは喜ぶことはなかったと伝えられる(逆に跡継ぎが出来たため、シュッドーダナに遠慮することなく出家出来ると喜んだとも。いずれにせよ幸せ結婚生活ではなかったようだ)。

四門出遊

よりほとんど外に出ることもなく、外遊の際も多くの付き人に傅かれ掃き清められたを歩んでいたシッダールタだったが、ある日一人で王の門より外に出ようとした。しかし、東門から出ようとすると老人に会い「老い」を恐れた。南門から出ようとすると病人に会い「病」を恐れた。西門から出ようとすると死者に会い「死」を恐れた。最後に北門から出ようとすると沙門(出者)と出会い、その清らかな姿にひかれ出の意思を固めた。

時代背景

四門出遊は美しく書かれた逸話であるが、実際には時代背景があったとされる。当時のインド宗教ではバラモンと呼ばれる祭たちがヴェーダ(知識またはその書)を説き祭を行っていた。社会的階級もそれに準じ、バラモン(祭)クシャトリヤ武士ヴァイシャ(庶民または商人)シュードラ奴隷)の順に厳しく統制が敷かれていた(四姓制)。

しかし、社会が複雑化するに連れてこの階級を厳格に維持することは難しくなり始める。この頃より貨幣経済の伸展も徐々に始まり、商人を中心としたヴァイシャは経済を付けバラモンは職業的な祭者へと堕落または形骸化していた。

ヴァイシャのを背に、バラモンの権威を認めず独で出し沙門となる者も増え始め、のちに仏教側から六師外道と称される宗教・思想が生まれる。特にマハーヴィーラが起こしたジャイナ教はバラモンを否定し、アヒンサー(不殺)を教義とすることによりクシャトリヤに対する優位性も確保し、ヴァイシャから熱的な支持を得ていた。

出家・遊学・苦行

四門出遊とこのような時代背景、さらに宮廷の美女たちがだらしなく死人のように眠る姿を見て縋るべきもののない俗世に絶望(同床異)。シッダールタは家族に一言も告げず、カンタカと言うに乗り従者一人を従え出界へと足を踏み入れた。時に29歳であった。

マガダ首都で当時栄えていたラージャグリハに鉢と遊学のために赴く。そこで王であったビンビサーラの知己を得る。ビンビサーラはシッダールタに還俗してコーサラを共に討とうと持ち掛けたが、シッダールタは拒絶した。諦めたビンビサーラは成ののちには帰依することを約束した。

その後、バッカバに教えを乞うたが、バッカバ苦行により上界に生まれ変わることを的としていたので、上界での命も永遠ではないと考えたシッダールタは師の元を離れた。次いでアーラーラカーラーマの元で感覚を抑制し清貧に生きることを学び所有処定の地に達したが、解脱ではなく悟りではないと考え教えから離れた。次いでウッダカ・ラーマプッタの元で定を学び非想非非想処定の地に達したが、これも霊にとらわれているとして退けた。

遊学を終え師達の教えに満足出来なかったシッダールタは、五人の仲間たち(五丘。コンダンニャ、ワッパ、バッティヤ、マハーナーマン、アッサジ。シュッドーダナが遣わした警護役の沙門とも)と共にウルヴェーラー苦行に入った。断食として一日または胡麻一粒とし、荒行として座ろうとすれば後ろに倒れ立とうとすれば前に倒れるほどのしい負荷を体にかけることを科した。

しかし、この苦行を六年続けても悟り地には至らず、体がと皮だけになるのみであった。

スジャータの供養

シッダールタは苦行をやめて食事を取ることを決心したが、五人の仲間たちは堕落者と罵り去って行った。ガヤーのナイランジャナーほとりにたどり着きプンナーの下に坐していたところ、と見間違えたスジャータを供養した。シッダールタはこのを食し沐浴を行い体力回復させた。

菩提樹

身も心も満足し成への期が熟したと見たシッダールタは定に適した場所を探した。まず岩山へと登ったが、金剛座(ダイヤモンド)ではなかったために砕けてしまった。

次に適当な菩提を見つけ、刈り人から寄進されたを敷いて定に入った。この時、悟りを開くまで立つことはないと宣言したと言う。

降魔

定に入ったのち、悪魔ムチが8つの軍団欲望、嫌悪、飢渇、妄執、ものうさ睡眠恐怖、疑惑、みせかけと強情)を率いて死を予言した。その上で悟りを開くことを諦めれば命を保つことが出来、善行を積むことが出来ると誘惑した。しかし、この軍団を見抜いたシッダールタは戦いに喩え「命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ」と退けた。ナムチは「脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか?味がよいものが見つかるだろうか?』といって飛びったようなものである」としさを覚え去った。

また、悪魔マーラーも魔軍(、石、乱打、熱炭、、泥土、暗闇の)を率いて攻撃した、世界の王になるようにしむけた、三人(あるいは数人)の美女を遣わせて誘惑したとも言われるが、ことごとくを退けた。マーラーは「ゴータマは自分のの及ばぬ所へ行ってしまうだろう」と悔しんだ。

成道

日がする少し前に悪魔は去った。になると明星が現れ正覚(縁起と十二因縁を悟る)を成してついにブッダとなった。

わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。

菩提の下にいたのは七日間であり、そこを離れたのちにアジパーラニグローダの下に移りまた七日間解脱を楽しんだ。次にムチリンダの下で七日間を過ごした。が降ったが竜王ムチリンダが守護したと言う。また通りがかった二人の商人(タプッサとタパッス)が帰依し初の優婆塞(在信者)となり、四天王が石鉢を献上した。女は衣服天神果物を供養した。

梵天勧請

しかし、ブッダには教えを衆生に説くつもりはなかった。現世での繁栄を望む人々に縁起の理法を説いても徒労に終わるだけだと考えたからであった。そんな中、最後に現れたである梵天ブラフマー)が「善逝よ、 法を説いて下さい。汚れ少なき有情があっても、法を説かれないと衰退します。法を説いていた だければ法を知る者となるでしょう」と恭しく請願した(梵天勧請-仏教の教えを説くのではなく、人間に請願した宗教だったのだ!)。この梵天実な心を動かされたブッダは言葉を慎重に選ぶことで、説法により教えを広めることを決意した。

甘露の門は開かれたり ある者は聞け、己信を棄てよ

ブッダ35歳。ここより生活が始まる。

初転法輪

ブッダは最初に師事したアーラーラカーラーマとウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうと考えたが、二人は既に死んでいた。そこでバーラーシーのサール・ナートに移っていたかつての五人の修行仲間に説くことにした。

鹿野にいた五人はブッダが現れると、苦行をやめた過去から歓迎はせずに無視を決め込んだ。しかし、ブッダが近づくに連れて堂々としたその態度と容姿に畏怖し、自然に立ち上がって座に迎えた。

ブッダはまず、二つの極端である欲において貪着すること、自らを苦しめることをめ、中道を説いた(八正)。次いで迷いの生存が苦であり、苦の原因は執着であること、執着を断つことが苦しみを滅した悟りであること、悟りを得るための方法が八正であること(四諦)を三転十二形相の形で説いた。

するとコンダンニャが「生ずるものは全て滅するものである」ことを悟り法眼を得た。ついでワッパ、バッティヤ、マハーナーマン、アッサジにも法眼が生じた。

最後にこの世は無常であること(諸行無常)、故に一切が苦であること(一切皆苦)、故に全てのものは自己ならざるものであること(諸法無我)で結んだ。すると五人全てが解脱に至り、六人を中心とする最初の仏教教団(サンガ)が生まれた。

拡大する教団

初期教団はまずバーラーシー布教を行い、商人長者息子ヤサの帰依を得た。ヤサは友人が多く、解脱のうわさを聞いた人々がたちまち列をなしてブッダの下を訪れた。後の十大子の一人で弁舌だったプルナもこの段階で帰依し、教団拡大の原動となった。

子による伝も始まり「一つの二人で行くなかれ」の教え通り、効率的な布教活動を行った。子が子を取ることも許し(三帰具足)、それまでの沙門に見られた一人一党のサンガと一線を画した柔軟な組織づくりも行っている。

しかし、初期教団が急速に拡大したのは、何と言っても既存の教団をそのまま併合出来たことにあったと言われる。ウルヴェーラのカッサバ、ナディーのカッサバ、ガヤーのカッサバ(三葉・三兄弟)はそれぞれ数人の教団の長であったが、そのままブッダに帰依し一挙に千人規模の教団にまで成長した。

ブッダはこの千人の子たちの前で「一切は煩悩で燃えている」とし、この煩悩を消すことを説いた(涅槃寂静)。

ビンビサーラ王の帰依

子を引き連れラージャグリハでビンビサーラ王と再会。ビンビサーラ王はかつてのシッダールタがブッダとなったことを喜び帰依した。この時、12万人もの帰依者を得たと言う(誇であろうが、在信者含めて万単位にはなったのだろう)。

ラージャグリハでの布教仏教教団に物心両面で大きな変化を与える出来事が起きた。物の面ではビンビサーラ王精舎を寄進し初の寺院が建設された。これにより、今までのや洞生活する文字通りの「出」者は寺院生活する者をす言葉に変化した。心の面では教団の拡大により様々な人々が入信し、寺院建設による集団生活を滞りなく過ごすためのが設けられ始めた。しかし、これらがのちに波紋を呼ぶことになる。

また、文化情報の中心地である王都を抑えたことにより、人的な面でも優れた学識を持つ者の帰依を得た。シャーリートラ、マウドゥガリヤーヤナ、マハー・カッサパなど、後の十大子の多くがこの頃に入信している。

帰郷

マガダでの布教が成功を収めると、故郷のシャーキャでもシッダールタがブッダとなったと言う噂がささやかれ始めた。シュッドーダナはブッダとの再会を切望し、ブッダもカピラヴァストゥーへ帰ることに決めた。

息子との再会を心待ちにしていたと思われるシュッドーダナだが、ブッダはシュッドーダナの意を介すことなくカピスヴァストゥーで布教活動を開始。異のスンダラ・ナンダーや従弟のアーナンダ、アヌルッダ、デーヴァダッタ、さらに自身の息子であったラーフラらシャーキャ族の王子たちを出させた。

跡継ぎをほとんど出させられてしまったシュッドーダナはこれを悲しみ「以後は許可なくして出するのを得ざる制度を設けてくれ」と要請し、ブッダはこれを認めた。その後、ほどなくして亡くなったと伝わる。

祇園精舎

精舎があったマガダを中心に伝を行っていたブッダだが、コーサラ商人ラージャグリハに赴いていたスダッタが帰依しコーサラでの布教を乞うた。スダッタは派遣されたシャーリートラと共に寺院建立(のちの園精舎)に邁進し、王都シュラーヴァスティーにあったジェータ王子マンゴーを購入した。この際、売却を渋るジェータに対し、床面積と同量の黄金を用意すると言ったと言う逸話が有名。ジェータも最終的に折れ、門屋などの付属施設を寄進した。

園精舎が完成すると、ブッダはコーサラに赴き本格的な伝を開始。評判を聞きつけたプラセーナジット王も行幸し帰依した。マガダ、コーサラの二大王の帰依を得たは大きく、クルヴァンなど中小諸からも寺院建立や伝めるが相次ぎ、ブッダは惜しむことなくを続けた。

コーサンビーの破僧

法輪を回す前に危惧していた「常人に広まる訳がない」と言うブッダの思いとは裏に、教団は二十年ほどでインド(この場合はガンジス川流域)でも最大規模の宗教団体となった。園精舎建立後にはアーナンダのとりなしにより、それまで認めていなかった女性の出者(丘尼、尼僧)も認め拡大を続けた。

しかし、組織拡大の常としての運用や教団運営に問題が生じ始める。

裂はヴァンのコーサンビーにあったサンガから始まった。ここでとある丘が違反を犯した。罪と認めればその場で許される程度の軽度な違反であったとされるが、その丘は罪を認めずサンガは「罪を認めないことは重罪である」として挙罪した。すると、罪とされた丘は罪とはしないことに同調する丘たちを集めて「罪でないものを罪とすることは重罪である」としてこれまた挙罪した。

このサンガ内の紛争はブッダも知ることになり「サンガは破れた」(破僧つまり分裂)と嘆いた。そこで罪とする者には「争いが起きる場合は罪としてはならない」と諭し、罪としない者には「争いが起きる場合は罪とする」ように諭した。しかし、双方は矛を収めることはなく逆に「世尊はこんな低俗な争いに加わらないでください」と返されてしまう始末であった。

最終的にブッダを蔑ろにした論争に在信者たちが想を尽かし、和解するまでは供養を行わないとしたため双方共倒れとなり、めてブッダに謝罪し仏教史上最初の破僧事件は終わった。

この逸話を見ても分かる様に、ブッダはサンガの運営に対しては直接的な言動を慎んでおり、にすら体的な意見を持ってはいなかった。

デーヴァダッタの破僧

しかし、これ以降もブッダがサンガに対し具体的な針を示すことはなく、より破滅的な事態を誘発する。

ブッダの従弟であったデーヴァダッタはその血縁の良さに加え、頭行(鉢)を通じた教化に巧みでサンガ内でも一置かれていた。ブッダが歳を重ねて高齢になるにつれ後継者としての望が高まり、本人もブッダに対してサンガの実権を譲る様に硬軟両面での圧をかけたと伝えられる。頭を第一とした彼は生ぬるいにも慢出来なくなり、ブッダに「五事の」と言う以下のを入れるように要した。

  1. 丘らは一生涯住すべきであって、に入る者は罪とする
  2. 丘らは一生涯乞食すべきであって、請食(に招かれた食事)を受ける者は罪とする
  3. 丘らは一生涯掃衣(ボロ)を着るべきであって、居士衣(普通衣服)を受ける者は罪とする
  4. 丘らは一生涯下に住すべきであって、屋内に住すれば罪とする
  5. 一生涯を食べてはならず、食べる者は罪とする

これに対し、ブッダは

  1. 丘らは一生涯住する必要はなく、に入ってもよい
  2. 丘らは請食を受けてもよい
  3. 丘らは居士衣を着てもよい
  4. 丘らはが降れば屋内にいてもよい
  5. 鉢で得た)なら食べてもよい

として拒絶した。これが決定打となり、デーヴァダッタはラージャグリハの丘を中心に、500人の同調者を集めて分した。ブッダも彼らを仏教徒とは認めず、事実上の破門とした。

後世、デーヴァダッタを大悪人とし彼自身の傲りと評されることが多い破僧事件である。だが、「五事の」を見ても分かる様に彼らは表向きは厳格であり、当初は同調者も非常に多かった(ラージャグリハでのブッダは700人であり半数近い)ことを見てもそれなりの正当性を有していた。また、原始仏教自体はシャーキャ族の閥が強く、血統の正統性も重要視されていたのではないかと言う説もある。もちろん、血統上は実子のラーフラが上だが、彼は血統を誇ることについては固く自身をめていたと言われる。しかし、こう言った逸話が残ったことからも、逆を言えばブッダの体上の衰えが進むにつれ、後継者への周囲の不安や待望論は噴出していたと思われる。

晩年へ

説話などではブッダの暗殺を企て地獄に堕ちたと言われるデーヴァダッタだが、実際はラージャグリハにおいてビンビサーラ王息子であるアジャータシャトルや宮臣の支持を得てブッダを脅かし始めていた。後継者を巡るビンビサーラ王アジャータシャトルの対立も化し、宗教界における両者の代理戦争と化した。アジャータシャトルは最終的に王に譲位を迫りビンビサーラ王は退位した(実質的にはクーデター)。マガダでの不利は決定的となり、ブッダは精舎からコーサラ園精舎に滞在することが多くなった。

アジャータシャトル勝利後はデーヴァダッタの存在意義が薄れたこと、厳しいに離反者が続発したこと、シャーリートラやマウドゥガリヤーヤナが切り崩しに尽したこと、さらにアジャータシャトル自身がコーサラにブッダを奪われたことを損失と後悔したことにより、晩年までには有利を取り戻したとされるが現在でもブッダの本拠地と言うと精舎ではなく園精舎(特に北伝)をイメージするのはこのためである。

その後も波乱は続き、子筆頭でデーヴァダッタの切り崩しや他宗教からの引き抜きに功績があったマウドゥガリヤーヤナが仏教を信じない異教徒(執士)に殺されてしまう。これに怒ったマウドゥガリヤーヤナの子が報復として殺犯を殺し血生臭い応酬となってしまった。

シャーキャ国滅亡

まさに四苦八苦に見舞われたブッダだったが、晩年にはさらなる悲劇が待っていた。長年ブッダを支えて来たコーサラ国王のプラーセナジットが、外遊中に息子であるヴィルーダカのクーデターに合い、王位を奪われ追放されてしまった。プラーセナジットはマガダへの亡命中に死去。ブッダはまたしても世俗における後ろを失ってしまう。

また、ヴィルーダカのはシャーキャ族の奴隷女性であり、幼い頃に現地で生まれを侮蔑された経験からシャーキャ族を憎んでいた。王位を奪うとすぐさま報復としてシャーキャへ侵攻を開始。ブッダは三回ほど阻止したと言われるが、宿縁は止めがたく四度カピラヴァストゥーは陥落しシャーキャは消滅した。

最後の旅

しかし、ブッダは故の消滅にも動揺することはなく、ラージャグリハから通年通りの伝を始める。このには20年以上に渡ってして来たアーナンダが随行していた。

は順調であり、のちにマガダやマウリ首都となるパータリプトラから説教を開始。ガンジス河を渡ったのち、ヴァッジのペールヴァ季をすための安居(集団で定住すること)に入った。ここでブッダは大病を得て一時生死が危ぶまれるまでの状態に陥るが、季も終わるとしだいに体力回復させた。

これを喜んだアーナンダが「師がサンガの跡継ぎについて、何か遺言をしないうちになくなるはずはない思い、安心しました」と述べた(この発言からも、周辺人物の間では後継者争いがあったことが分かる)のに対し、ブッダは既に全ての法を説き終えたこと(秘奥義の否定)、自身の死後は自らを明とし自らをよりどころとし、法を明とし法をよりどころとし、他に依拠してはならない、と諭した(自明・法明)。

入滅

季が終わるとまた精的に鉢や説法を再開。霊や霊場を中心に回ったのち、最後になると悟り井に出て大衆に教法を示した。

いくつもの町やを過ぎたのち、パーヴァに付くと鍛冶屋チュンダが出迎えブッダや釈迦に住居と食事を供養した。しかし、そこで出されたスーカラ・マッタヴァと言う豚肉料理(北伝ではキノコ料理)に当たってしまい、しい腹痛に見舞われた。

静を装いに出たブッダだったが、カクッターほとりで倒れし、心配して随行していたチュンダとアーナンダに床を作る様に命じた。

ブッダはチュンダの供養をかつてのスジャータの供養と並べて褒め、布施の功徳を説いたのちに死去した。80歳と伝わる。

その後

ブッダは火葬されたが、その遺仏舎利)を巡り各で争いが起きた。最終的に8等分することで妥協し、各はそれをに入れ寺院とした。現在でも仏舎利を尊び、手に入れられない場合は宝石などを代替えにする習はここから来ている。また、仏舎利を収めるをストゥーパと呼び、卒婆のとなっている。

実質的にサンガの後を継いだのは頭行に専心し、サンガからは距離を置いていたことがかえって評価されていたマハーカッサパであった。教団をまとめ上げると共に、アーナンダの協を得て典として教えを結集し現在にまで続く経典としての仏教文化を築き上げた。

ブッダ在世中もそうであったが、直子たちも入滅したのちもを巡りしい権闘争が展開された。仏教自体も入滅後100に行われた第二回の結集後、の厳格的な維持をした上座部(高僧たち)と弛緩をめる大衆部とに分裂し、前者が南伝(タイミャンマー)、後者が北伝(中国朝鮮日本)となった。

インドにおける仏教はその後、バラモン教の巻き返しやエフタルなど諸民族インド亜大陸への侵入、イスラームによる迫により17世紀までにはほぼ消滅した。ブッダ自体は現在ヒンドゥー教にも取り入れられたが、ヴィシュヌの化身であるブッダが悪人からヴェーダを守るためにあえて間違った教えを広めたとされ遠回しに仏教徒ごと貶められている。

20世紀になり、インドにおいてナショナリズムが高まると世界を与えたインドの偉人としての評価がに知識人の間で広まった。特に下位カーストアウトカースト(ダリットいわゆる不可触民)の人々の中には人類の等やカーストの否定を根本とする教えに共感を持った者も多く、反カースト運動の最先鋒だったビームラーオ・アンべードカルはブッダを高く評価し死の直前に仏教宗している。

現在でもブッダ(釈迦)はインドにおいてはマイナーな存在であるが、寺院跡や伝の地は世界遺産観光地として整備されており、各仏教仏教徒を結ぶ拠点として機している。

周辺人物

親族

  • シュッドーダナ(浄飯王)
    。シャーキャの王だが、シャーキャ自体はクシャトリヤ階級の共和政に近く、執政と称されることもある。ブッダがサンガに対し強権的な言動を取らずも原則自的なものとした理由の一つとして、シャーキャ政体が反専制的かつ個人義的だったことの摘される。ブッダには生涯振り回されたが、教え自体には理解を示し預流(悟りの前段階)に入りシャーキャ族の宗教として惜しみない支援も行った。
  • マーヤー(摩耶
    。シッダールタを生んだ七日後に死去。の死がシッダールタの人格形成にを与えたとする理解は古来より多く、様々な仏教美術や説話で取り上げられた。日本日蓮宗ではブッダ・日蓮と共に高く尊崇している。
  • ハープラージャーパティ(摩訶波闍波提)
    叔母、継。いわゆるソロレート婚だが、生前のマーヤーと同時婚だったとも言われる。連れ子のシッダールタが成しブッダとなり、夫のシュッドーダナが死去すると彼女自身も出の意思を持つようになる。最初はブッダに断られていたが、500人の女性と共に剃髪し法衣を着て抗議した。最終的にアーナンダのとりなしを経て、女性の出が許され仏教史上初の尼僧となった。
  • スンダラ・ナンダ(孫羅難
    。マハープラージャーパティ息子結婚式中に出したと言う逸話が残る。
  • ヤシャーダラ(耶輸羅)
    妻。従妹。デーヴァダッタは彼女とされる。結婚後、一子ラーフラを設けるも出生直後に夫が出してしまう。それから十年ほどたったのち、ブッダがカピラヴァストゥーに帰郷すると直接会うこともなくラーフラに「お父さんから遺産を貰いなさい」とけしかけ対面させた。これを本気と取るか嫌味または恨み言と取るかは人による。のちにのデーヴァダッタがサンガの支配権をめぐり破僧事件を起こしたため、権志向が強い庭だったのではないかと言う分析もある。もっとも、女性または環境的に幸福でなかったのは間違いなく、現在でも尼僧となった者の中には同情する者も多いと言う。

十大弟子

  • シャーリートラ(舎利・舎利子
    第一と称され、マハーマゥドガリヤーヤナと並び二大子とされることもある。園精舎の建立やデーヴァダッタの切り崩しに尽したことで知られる。ラーフラの師でもあり、ブッダの信任は非常に厚かったとされるが師よりも高齢であり先に死去した。日本でもおなじみの般若心経に出て来るシャーリーシ(舎利子)は彼のこと。
  • マハーマゥドガリヤーヤナ(摩訶犍連)
    神通第一と称され、前述のシャーリートラコンビを組んで初期教団運営に当たった。日本では連の方が通りが良い。中国仏教が伝来しマハーマゥドガリヤーヤナの神通の逸話と施餓(飢餓に堕ちた人を救う行事)の習が広まった際、これと中国の孝行憚とが結びついたことにより盂蘭盆お盆)が始まった。異教の教化に功績があったが、彼を憎んだ異教徒により殺されてしまう。
  • マハーカッサパ(摩訶葉)
    第一と称される。デーヴァダッタと同様に厳格であり、サンガからは距離を置きサンガからも敬遠されていたとされる。ただし、ブッダのに対する姿勢も理解しており、分には至らなかったと言われる。高潔な人物とされブッダの死後は後継者となり言葉や教えを典としてまとめた。多くの宗ではブッダに次ぐ第二祖とされ尊崇を受けている。
  • スブーティ(須菩提)
    第一と称される。感情を抑えることに長け、仏教の重要概念であるに関する逸話を多く残す。経典編纂の進行役を務めたと言われる。
  • プールナ・マイトラーヤニープトラ(富楼那弥多羅尼子)
    説法第一と称される。十大子の中では最古参であり、シャーリートラやアーナンダからも尊敬された兄弟子だった。9万9000人を教化したと言われる。誇であろうが、初期教団の拡大は彼の弁舌の才によるところが大きかったのは間違いないようだ。
  • マハーカートゥヤーヤナ(摩訶旃延)
    論議第一と称される。一説によると辺の西インド出身であったため、率先して辺へ赴いて伝を行ったと言う。辺民にも分かりやすく教えを伝え、仏教世界宗教となる礎を築いた。この功績から南伝では評価が高い。
  • アニルッダ(
    眼第一と称される。シャーキャ族の王族出身。出時、兄弟子となったシュードラ出身のウパーリを尊敬し礼拝の形で挨拶した。これにはブッダも驚嘆し「よくぞシャーキャ族の高慢な心を滅した」と称賛したと伝えられる。病により失明したが、めげることなく周囲に支えられ修行生活を送った。ブッダが手ずから介助することもあったと言う。ブッダ入滅時も取り乱す子を励まし、冷静に火葬を執り行った。
  • ウパーリ(優波離)
    第一と称される。シュードラの理師でアニルッダたち王子に仕えていたが、アニルッダが出する際に縁者であったウパーリに財産を与えると言う話を聞き、これを拒否して先に出した。王子たちの兄弟子となったが、王子たちは進んで自らウパーリに傅き前述の通りブッダを驚嘆させた。の制定に功があり、典の結集でも活躍した。
  • ラーフラ(羅睺羅)
    密行第一と称される。シッダールタの第一王子だったが、ブッダとなり帰郷した際にシャーリートラを師僧として出させた。これによりシュッドーダナの直系は全て出してしまったことになる。初期仏教はシャーキャ族の民族宗教としての側面もあり、第一血統である彼の教団内での存在は大きかった。しかし、彼自身は後継者争いに参加することもなく、常に自らを修行に励んだ。特段の功績はなかったともされるが、高ながらもにかけずに淡々と生きる様を生前から慕う者も多かった。
  • アーナンダ(
    多門第一と称される。ブッダの従弟の一人。25年に渡りブッダにし、身の回りの世話を行い諸子の中でももっともそのを聞くことが多かった。ブッダの意に反して遺言を期待し諌められたり多くを聞いていたにも関わらずブッダ入滅前に悟ることが出来なかったりとやや抜けた人物だったようだ。しかし、言葉の詳細はよく覚えており典の結集では大活躍した。典に多く見られる「は師からこのように聞いた」のは彼をさすとされる。ブッダに尼僧を認めたのも彼の功績であり、非常にイケメンでモテたようだが身持ちを崩すこともなかった。チベット仏教では祖であるパドマサンバヴァの師とされ尊崇されている。

その他縁者

  • デーヴァダッタ(提婆達多)
    ブッダの従弟の一人でヤシャーダラのと言われる。ブッダの帰郷時に諸王子たちと共に出。頭に長け、多くの人々の寄進を受けたが、更なる在の支持拡大のためにはの強化が必要と考え「五事の」を提言。ブッダがこれを拒絶すると分して自分の仏教教団を創設した。その種さから、ブッダの老齢化に伴うサンガの跡争いに巻き込まれたのではないかと言う説もある。後世の典ではブッダを暗殺しようとしてすぐに地獄に堕ちたとされるが、実際はアジャータシャトルの支援も受けブッダ仏教を晩年まで脅かした。デーヴァダッタ仏教も8世紀前後まで存続している。破僧した大悪人とされるが、北伝諸宗では地獄で許され成仏する様が描かれる。特に悪人正機を重視する日本仏教では彼の存在は重要視され、鎌倉時代に描かれた平家物語では南都を焼き討ちにした平重衡が処刑される前に彼と自分を重ね合わせる描写が書かれている。
    歴史的人物としては釈迦とヤソーダラが結婚したあとに生まれたと考えられているので上記の悪事は事実ではない。
    法華経ではなんの悪事も犯しておらず、前世で釈迦の師であったとされている。
  • スジャータ
    シッダールタが断食をやめた際、を供養した女性。厳格に言うと成前なので初の供養ではないのだが、ほぼ全ての典で重要視される存在である。
  • チュン
    最後の供養「スーカラ・マッタヴァ」をげた男性スジャータと並んで供養について重要な逸話を残した。特に北伝では在の身でありながら、未来となることが約束された人物として描かれている。
  • ビンビサーラ
    マガダの王。即位前から王となることと並び、現世でブッダに会うことを熱望するほと者的な側面を持つ世俗の王であった。シッダールタとは成前から交流があったとされる。息子であるアジャータシャトルと王位をめぐって小競り合いを繰り返したが、権闘争に敗れて退位させられ閉されてしまった。一説には餓死させられたとも言われる。
  • アジャータシャトル
    ビンビサーラの跡を継いだマガダの王。ビンビサーラがブッダに帰依したことに対抗し、デーヴァダッタ支援して宗教界で代理戦争を起こした。最終的に勝利したが、既に世尊として誉れ高かったブッダの権威を覆すことは出来ず、即位後は融和的な政策を行った。王としては極めて優秀であり、コーサラとの戦争も優位に進め諸王を征し、のちに古代インド最大の都市となるパータリプトラを築いた。
  • ラーセナジット
    コーサラの王。シャーキャを属としていたが、血統ではシャーキャ族が上であったために王族の女性がせるように要した。シャーキャ族はこれに怒り、奴隷女性を王族女性と偽ってがせた。仏教に対しては、ブッダが年少だったことや属のシャーキャ族出身だったこともあってか初期は不遜だったが、ブッダと対面後は深く帰依した。息子であるヴィルーダカのクーデターのきっかけも、シャーキャにブッダの次回伝を要請しに直々に外遊したことであった。
  • ヴィルーダカ
    コーサラの王。シャーキャ族の奴隷女性であり、シャーキャに赴いた際に生まれを馬鹿にされたためシャーキャ族を憎んでいた。クーデターでプラーセナジットから王位を簒奪。軍を遣わせてシャーキャを滅ぼした。マガダ、コーサラ共に殺しで王位を継いでおり、ブッダもシュッドーダナを裏切り続けていたことから、この時代のインド俗共に子関係が歪み始めていた(と言うか、んでいたので仏教につながった)ようだ。

言葉

  • 生まれについて
    「生まれを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆるから生ずる。賤しいに生まれた人でも、  者として道新堅固であり、恥を知って慎むならば、高の人となる」
    「生まれによってバラモンとなるのではない。生まれによってバラモンとならざる者となるのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである」
  • 死について
    「若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、全て死に屈してしまう。全ての者は必ず死に至る」
    「たとい人が年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終いには族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る」
    「だから、人が死んで亡くなったのを見て『かれはもうわたしのおよばぬものなのだ』とさとって、嘆き悲しみを去れ」
  • 占いについて
    「瑞兆の占い変地異の占い占い、相の占い全にやめ、吉兆の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴する」
  • 思考について
    は考えて、有ると言う迷わせる不当な思惟の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ」
  • について
    最上のものと仰いでいる人々は、『制によって清浄が得られる』と説き、誓を受けている。『われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう』と言って、真理に達した者と称する人々は、流転する迷いの生存に引き込まれている。もしも彼がや誓を破ったならば、彼はつとめにそむいて、おそれおののく。彼は『こうしてのみ清浄が得られる』と唱えて望みめている」
    「一切のや誓いをも捨て、(世間の)罪過ありあるいは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て『清浄である』とか『不浄である』とかいって願いめることもなく、それにとらわれずに行え。安らぎに固執することもなく」
  • 悪口について
    「人が生まれたときには、実に口の中にはが生じている。愚者は悪口を言って、そのによって自分を切り割くのである」
  • 世界について
    世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所めたのであるが、すでに死や苦しみなどにとりつかれていないところを見つけなかった」
  • いわゆる世代間対立について
    「古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。妄執にとらわれてはならない」

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