釈迦とは、紀元前5世紀頃の人物。仏教の祖である。
伝承によれば29歳で出家し、六年間の遊学や苦行ののち、それら既存の見聞や修行に見切りをつけ35歳で成道。以後、80歳で死去(入滅)するまで教えを説いた。
釈迦とは出身部族のシャーキャ族のことであり、釈迦牟尼(シャーキャ・ムニ)とは釈迦族の聖者を意味する。
本名はゴータマ・シッダールタとされるが諸説ある。サンスクリットでの表記は「गौतम सिद्धार्थ」であり、「गौतम」が姓、「सिद्धार्थ」が名。
姓はゴータマではなくガウタマやゴーダマやガウダマなどとも、名はシッダルタやシッダッタなどとも表記され、上記の「ゴータマ・シッダールタ」は単に最も一般的なカタカナ表記というだけに過ぎない。正確な発音は不明。サンスクリットやパーリ語で記された初期仏典を参考とするにしても当時のそれらの言語の発音を正確に推定するのは困難である。なお生前の釈迦や周囲の人物はマガダ語を話していたと推定されている。
ブッダは尊称であり在世中は必ずしも釈迦を意味する名称ではなかったが、現在の仏教では釈迦一人を意味する。
生年は全くと言ってよいほど分からない。古代インドでは輪廻転生や歴史の繰り返しが説かれたため、元号や年号のような固定的歴史観は想念し得なかったためと言う。日本の学者は概ね前5世紀説を採るが、それでも100年前後のズレが生じる。
父はゴータマ・シュッドーダナ(浄飯王)、母はマーヤー(摩耶夫人)。シュッドーダナはシャーキャ国のラージャ(藩王)であり、マーヤーは隣国コーリヤの王族から嫁いだ第一婦人である。所属部族のシャーキャ族は国としては小国で強大なコーサラ国の属国ではあったが、伝説的なインドの王であるイクシュヴァークの末裔を称し、その高貴さはコーサラ国の王ですら一歩譲らねばならないほどであった。
たいへんな貴種であり、懐妊の時から大きな期待を寄せられていたとされる。占い師は王子は世俗で生きるのなら転輪聖王(武力を用いず世を統べるインドの理想上の王)に、出家をすればブッダとなると予言しシュッドーダナは喜びを超えて不安すら覚えたと言う。
シュッドーダナは出産につき障りがないようマーヤーを実家に送り出すが、旅の途中で産気づきルンビーニ園で男児を出産した。伝承によれば男児はマーヤーが沙羅樹の枝を取った時に右脇から生まれ、世には光明が差すなど三十二の瑞兆が現れたと言う。四方に7歩歩き「天上天下唯我独尊」と宣言したと言う逸話も有名である。
男児はシッダールタ(達した者)と名付けられた。マーヤーは産後の肥立ちが悪く、シッダールタ誕生から七日目に亡くなった。
シッダールタはシャーキャ国の都、カピラヴァストゥーに着くとシュッドーダナの師で宮廷僧だったアシタと謁見。アシタは喜びのあまりシッダールタを抱きかかえ「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です」と声を上げた。
しかし、続いて涙を流した。シュッドーダナやシャーキャの人々は不吉の相があるのかと訝しんだが、アシタはすぐに否定し転輪聖王ではなくブッダとなることを予言。「この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。この方が悟りを開かれる前に中途でわたくしは死んでしまうでしょう。わたくしは比なき力のある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲観し、苦しんでいるのです」と言った。
シュッドーダナは一人息子で跡取りのシッダールタに出家の相があることを喜ばなかった。そこでまずマーヤーの妹マハープラージャーパティ(摩訶波闍波提)を正妃に迎え、家庭的な愛情に飢えないように手を打った。暖かい家庭の他にも二つの専用の宮殿を与え、贅沢な衣服に世話係、優秀な教師をつけて何もかも満足出来るような環境を整え、立派なラージャまたはクシャトリヤ(武士)となるよう仕向けた。
父の期待を一身に背負ったシッダールタは7歳または8歳にして教師たちが教えた学問を習得し、クシャトリヤとしても優秀な武芸も身につけた。
16歳または19歳の時にヤシャーダラ(耶輸陀羅)と結婚し、一子ラーフラを設けた。しかし、ラーフラは障碍を意味し、既に出家を志していたシッダールタは喜ぶことはなかったと伝えられる(逆に跡継ぎが出来たため、シュッドーダナに遠慮することなく出家出来ると喜んだとも。いずれにせよ幸せな結婚生活ではなかったようだ)。
王城よりほとんど外に出ることもなく、外遊の際も多くの付き人に傅かれ掃き清められた道を歩んでいたシッダールタだったが、ある日一人で王城の門より外に出ようとした。しかし、東門から出ようとすると老人に会い「老い」を恐れた。南門から出ようとすると病人に会い「病」を恐れた。西門から出ようとすると死者に会い「死」を恐れた。最後に北門から出ようとすると沙門(出家者)と出会い、その清らかな姿にひかれ出家の意思を固めた。
四門出遊は美しく書かれた逸話であるが、実際には時代背景の影響があったとされる。当時のインド宗教ではバラモンと呼ばれる司祭たちがヴェーダ(知識またはその書)を説き祭祀を行っていた。社会的階級もそれに準じ、バラモン(司祭)クシャトリヤ(武士)ヴァイシャ(庶民または商人)シュードラ(奴隷)の順に厳しく統制が敷かれていた(四姓制)。
しかし、社会が複雑化するに連れてこの階級を厳格に維持することは難しくなり始める。この頃より貨幣経済の伸展も徐々に始まり、商人を中心としたヴァイシャは経済力を付けバラモンは職業的な司祭者へと堕落または形骸化していた。
ヴァイシャの力を背に、バラモンの権威を認めず独力で出家し沙門となる者も増え始め、のちに仏教側から六師外道と称される宗教・思想家が生まれる。特にマハーヴィーラが起こしたジャイナ教はバラモンを否定し、アヒンサー(不殺)を教義とすることによりクシャトリヤに対する優位性も確保し、ヴァイシャから熱烈的な支持を得ていた。
四門出遊とこのような時代背景、さらに宮廷の美女たちがだらしなく死人のように眠る姿を見て縋るべきもののない俗世に絶望(同床異夢)。シッダールタは家族に一言も告げず、カンタカと言う馬に乗り従者一人を従え出家。聖界へと足を踏み入れた。時に29歳であった。
マガダ国の首都で当時栄えていたラージャグリハに托鉢と遊学のために赴く。そこで王であったビンビサーラの知己を得る。ビンビサーラはシッダールタに還俗してコーサラ国を共に討とうと持ち掛けたが、シッダールタは拒絶した。諦めたビンビサーラは成道ののちには帰依することを約束した。
その後、バッカバに教えを乞うたが、バッカバは苦行により天上界に生まれ変わることを目的としていたので、天上界での命も永遠ではないと考えたシッダールタは師の元を離れた。次いでアーラーラ・カーラーマの元で感覚を抑制し清貧に生きることを学び無所有処定の境地に達したが、解脱の道ではなく悟りではないと考え教えから離れた。次いでウッダカ・ラーマプッタの元で禅定を学び非想非非想処定の境地に達したが、これも霊魂にとらわれているとして退けた。
遊学を終え師達の教えに満足出来なかったシッダールタは、五人の仲間たち(五比丘。コンダンニャ、ワッパ、バッティヤ、マハーナーマン、アッサジ。シュッドーダナが遣わした警護役の沙門とも)と共にウルヴェーラーの林で苦行に入った。断食として一日米または胡麻一粒とし、荒行として座ろうとすれば後ろに倒れ立とうとすれば前に倒れるほどの激しい負荷を肉体にかけることを科した。
しかし、この苦行を六年続けても悟りの境地には至らず、肉体が骨と皮だけになるのみであった。
シッダールタは苦行をやめて食事を取ることを決心したが、五人の仲間たちは堕落者と罵り去って行った。ガヤーのナイランジャナー川のほとりにたどり着きプンナー樹の下に坐していたところ、樹神と見間違えた村娘のスジャータが乳粥を供養した。シッダールタはこの乳粥を食し沐浴を行い体力を回復させた。
身も心も満足し成道への期が熟したと見たシッダールタは禅定に適した場所を探した。まず岩山へと登ったが、金剛座(ダイヤモンド)ではなかったために砕けてしまった。
次に適当な菩提樹を見つけ、草刈り人から寄進された草を敷いて禅定に入った。この時、悟りを開くまで立つことはないと宣言したと言う。
禅定に入ったのち、悪魔ナムチが8つの軍団(欲望、嫌悪、飢渇、妄執、ものうさ、睡眠、恐怖、疑惑、みせかけと強情)を率いて死を予言した。その上で悟りを開くことを諦めれば命を保つことが出来、善行を積むことが出来ると誘惑した。しかし、この軍団を見抜いたシッダールタは戦いに喩え「命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ」と退けた。ナムチは「烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか?味がよいものが見つかるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである」と空しさを覚え去った。
また、悪魔マーラーも魔軍(風、雨、石、乱打、熱炭、砂、泥土、暗闇の雨)を率いて攻撃した、世界の王になるようにしむけた、三人(あるいは数百人)の美女を遣わせて誘惑したとも言われるが、ことごとくを退けた。マーラーは「ゴータマは自分の力の及ばぬ所へ行ってしまうだろう」と悔しんだ。
日が没する少し前に悪魔は去った。夜になると明星が現れ正覚(縁起と十二因縁を悟る)を成してついにブッダとなった。
わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。
菩提樹の下にいたのは七日間であり、そこを離れたのちにアジャパーラニグローダ樹の下に移りまた七日間解脱を楽しんだ。次にムチャリンダ樹の下で七日間を過ごした。雨が降ったが竜王ムチャリンダが守護したと言う。また通りがかった二人の商人(タプッサとタパッス)が帰依し初の優婆塞(在家信者)となり、四天王が石鉢を献上した。天女は衣服を天神は果物を供養した。
しかし、ブッダには教えを衆生に説くつもりはなかった。現世での繁栄を望む人々に縁起の理法を説いても徒労に終わるだけだと考えたからであった。そんな中、最後に現れた神である梵天(ブラフマー)が「善逝よ、 法を説いて下さい。汚れ少なき有情があっても、法を説かれないと衰退します。法を説いていた だければ法を知る者となるでしょう」と恭しく請願した(梵天勧請-仏教は神の教えを説くのではなく、神が人間に請願した宗教だったのだ!)。この梵天の誠実な心を動かされたブッダは言葉を慎重に選ぶことで、説法により教えを広めることを決意した。
甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け、己信を棄てよ
ブッダは最初に師事したアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうと考えたが、二人は既に死んでいた。そこでバーラーナシーのサール・ナートに移っていたかつての五人の修行仲間に説くことにした。
鹿野苑にいた五人はブッダが現れると、苦行をやめた過去から歓迎はせずに無視を決め込んだ。しかし、ブッダが近づくに連れて堂々としたその態度と容姿に畏怖し、自然に立ち上がって座に迎えた。
ブッダはまず、二つの極端である愛欲において貪着すること、自らを苦しめることを戒め、中道を説いた(八正道)。次いで迷いの生存が苦であり、苦の原因は執着であること、執着を断つことが苦しみを滅した悟りであること、悟りを得るための方法が八正道であること(四諦)を三転十二形相の形で説いた。
するとコンダンニャが「生ずるものは全て滅するものである」ことを悟り法眼を得た。ついでワッパ、バッティヤ、マハーナーマン、アッサジにも法眼が生じた。
最後にこの世は無常であること(諸行無常)、故に一切が苦であること(一切皆苦)、故に全てのものは自己ならざるものであること(諸法無我)で結んだ。すると五人全てが解脱に至り、六人を中心とする最初の仏教教団(サンガ)が生まれた。
初期教団はまずバーラーナシーで布教を行い、商人で長者の息子ヤサの帰依を得た。ヤサは友人が多く、解脱のうわさを聞いた人々がたちまち列をなしてブッダの下を訪れた。後の十大弟子の一人で弁舌家だったプルナもこの段階で帰依し、教団拡大の原動力となった。
弟子による伝道も始まり「一つの道二人で行くなかれ」の教え通り、効率的な布教活動を行った。弟子が弟子を取ることも許し(三帰具足戒)、それまでの沙門に見られた一人一党型のサンガと一線を画した柔軟な組織づくりも行っている。
しかし、初期教団が急速に拡大したのは、何と言っても既存の教団をそのまま併合出来たことにあったと言われる。ウルヴェーラのカッサバ、ナディーのカッサバ、ガヤーのカッサバ(三迦葉・三兄弟)はそれぞれ数百人の教団の長であったが、そのままブッダに帰依し一挙に千人規模の教団にまで成長した。
ブッダはこの千人の弟子たちの前で「一切は煩悩で燃えている」とし、この煩悩を消すことを説いた(涅槃寂静)。
弟子を引き連れラージャグリハでビンビサーラ王と再会。ビンビサーラ王はかつてのシッダールタがブッダとなったことを喜び帰依した。この時、12万人もの帰依者を得たと言う(誇張であろうが、在家信者含めて万単位にはなったのだろう)。
ラージャグリハでの布教は仏教教団に物心両面で大きな変化を与える出来事が起きた。物の面ではビンビサーラ王が竹林精舎を寄進し初の寺院が建設された。これにより、今までの林や洞穴で生活する文字通りの「出家」者は寺院で生活する者を指す言葉に変化した。心の面では教団の拡大により様々な人々が入信し、寺院建設による集団生活を滞りなく過ごすための戒律が設けられ始めた。しかし、これらがのちに波紋を呼ぶことになる。
また、文化情報の中心地である王都を抑えたことにより、人的な面でも優れた学識を持つ者の帰依を得た。シャーリープトラ、マウドゥガリヤーヤナ、マハー・カッサパなど、後の十大弟子の多くがこの頃に入信している。
マガダ国での布教が成功を収めると、故郷のシャーキャ国でもシッダールタがブッダとなったと言う噂がささやかれ始めた。シュッドーダナはブッダとの再会を切望し、ブッダもカピラヴァストゥーへ帰ることに決めた。
息子との再会を心待ちにしていたと思われるシュッドーダナだが、ブッダはシュッドーダナの意を介すことなくカピスヴァストゥーで布教活動を開始。異母弟のスンダラ・ナンダーや従弟のアーナンダ、アヌルッダ、デーヴァダッタ、さらに自身の息子であったラーフラらシャーキャ族の王子たちを出家させた。
跡継ぎをほとんど出家させられてしまったシュッドーダナはこれを悲しみ「以後は父母の許可なくして出家するのを得ざる制度を設けてくれ」と要請し、ブッダはこれを認めた。その後、ほどなくして亡くなったと伝わる。
竹林精舎があったマガダ国を中心に伝道を行っていたブッダだが、コーサラ国の商人でラージャグリハに赴いていたスダッタが帰依しコーサラ国での布教を乞うた。スダッタは派遣されたシャーリープトラと共に寺院建立(のちの祇園精舎)に邁進し、王都シュラーヴァスティーにあったジェータ王子のマンゴー林を購入した。この際、売却を渋るジェータに対し、床面積と同量の黄金を用意すると言ったと言う逸話が有名。ジェータも最終的に折れ、門屋などの付属施設を寄進した。
祇園精舎が完成すると、ブッダはコーサラ国に赴き本格的な伝道を開始。評判を聞きつけたプラセーナジット王も行幸し帰依した。マガダ国、コーサラ国の二大王国の帰依を得た影響は大きく、クル国やヴァンサ国など中小諸国からも寺院建立や伝道を求める声が相次ぎ、ブッダは惜しむことなく旅を続けた。
法輪を回す前に危惧していた「常人に広まる訳がない」と言うブッダの思いとは裏腹に、教団は二十年ほどでインド(この場合はガンジス川流域)でも最大規模の宗教団体となった。祇園精舎建立後にはアーナンダのとりなしにより、それまで認めていなかった女性の出家者(比丘尼、尼僧)も認め拡大を続けた。
しかし、組織拡大の常として戒律の運用や教団の運営に問題が生じ始める。
亀裂はヴァンサ国のコーサンビーにあったサンガから始まった。ここでとある比丘が戒律違反を犯した。罪と認めればその場で許される程度の軽度な戒律違反であったとされるが、その比丘は罪を認めずサンガは「罪を認めないことは重罪である」として挙罪した。すると、罪とされた比丘は罪とはしないことに同調する比丘たちを集めて「罪でないものを罪とすることは重罪である」としてこれまた挙罪した。
このサンガ内の紛争はブッダも知ることになり「サンガは破れた」(破僧つまり分裂)と嘆いた。そこで罪とする者には「争いが起きる場合は罪としてはならない」と諭し、罪としない者には「争いが起きる場合は罪とする」ように諭した。しかし、双方は矛を収めることはなく逆に「世尊はこんな低俗な争いに加わらないでください」と返されてしまう始末であった。
最終的にブッダを蔑ろにした論争に在家信者たちが愛想を尽かし、和解するまでは供養を行わないとしたため双方共倒れとなり、改めてブッダに謝罪し仏教史上最初の破僧事件は終わった。
この逸話を見ても分かる様に、ブッダはサンガの運営に対しては直接的な言動を慎んでおり、戒律にすら主体的な意見を持ってはいなかった。
しかし、これ以降もブッダがサンガに対し具体的な指針を示すことはなく、より破滅的な事態を誘発する。
ブッダの従弟であったデーヴァダッタはその血縁の良さに加え、頭陀行(托鉢)を通じた教化に巧みでサンガ内でも一目置かれていた。ブッダが歳を重ねて高齢になるにつれ後継者としての声望が高まり、本人もブッダに対してサンガの実権を譲る様に硬軟両面での圧力をかけたと伝えられる。頭陀を第一とした彼は生ぬるい戒律にも我慢出来なくなり、ブッダに「五事の戒律」と言う以下の戒律を入れるように要求した。
これに対し、ブッダは
として拒絶した。これが決定打となり、デーヴァダッタはラージャグリハの比丘を中心に、500人の同調者を集めて分派した。ブッダも彼らを仏教徒とは認めず、事実上の破門とした。
後世、デーヴァダッタを大悪人とし彼自身の傲りと評されることが多い破僧事件である。だが、「五事の戒律」を見ても分かる様に彼らは表向きは厳格派であり、当初は同調者も非常に多かった(ラージャグリハでのブッダ派は700人であり半数近い)ことを見てもそれなりの正当性を有していた。また、原始仏教自体はシャーキャ族の派閥が強く、血統の正統性も重要視されていたのではないかと言う説もある。もちろん、血統上は実子のラーフラが上だが、彼は血統を誇ることについては固く自身を戒めていたと言われる。しかし、こう言った逸話が残ったことからも、逆を言えばブッダの肉体上の衰えが進むにつれ、後継者への周囲の不安や待望論は噴出していたと思われる。
説話などではブッダの暗殺を企て地獄に堕ちたと言われるデーヴァダッタだが、実際はラージャグリハにおいてビンビサーラ王の息子であるアジャータシャトルや宮臣の支持を得てブッダを脅かし始めていた。後継者を巡るビンビサーラ王とアジャータシャトルの対立も激化し、宗教界における両者の代理戦争と化した。アジャータシャトルは最終的に父王に譲位を迫りビンビサーラ王は退位した(実質的にはクーデター)。マガダ国での不利は決定的となり、ブッダは竹林精舎からコーサラ国の祇園精舎に滞在することが多くなった。
アジャータシャトル勝利後はデーヴァダッタの存在意義が薄れたこと、厳しい戒律に離反者が続発したこと、シャーリープトラやマウドゥガリヤーヤナが切り崩しに尽力したこと、さらにアジャータシャトル自身がコーサラ国にブッダを奪われたことを損失と後悔したことにより、晩年までには有利を取り戻したとされるが現在でもブッダの本拠地と言うと竹林精舎ではなく祇園精舎(特に北伝)をイメージするのはこのためである。
その後も波乱は続き、弟子筆頭でデーヴァダッタ派の切り崩しや他宗教からの引き抜きに功績があったマウドゥガリヤーヤナが仏教を信じない異教徒(執杖梵士)に殺害されてしまう。これに怒ったマウドゥガリヤーヤナの弟子が報復として殺害犯を殺し血生臭い応酬となってしまった。
まさに四苦八苦に見舞われたブッダだったが、晩年にはさらなる悲劇が待っていた。長年ブッダを支えて来たコーサラ国王のプラーセナジットが、外遊中に息子であるヴィルーダカのクーデターに合い、王位を奪われ追放されてしまった。プラーセナジットはマガダ国への亡命中に死去。ブッダはまたしても世俗における後ろ盾を失ってしまう。
また、ヴィルーダカの母はシャーキャ族の奴隷女性であり、幼い頃に現地で生まれを侮蔑された経験からシャーキャ族を憎んでいた。王位を奪うとすぐさま報復としてシャーキャ国へ侵攻を開始。ブッダは三回ほど阻止したと言われるが、宿縁は止めがたく四度目でカピラヴァストゥーは陥落しシャーキャ国は消滅した。
しかし、ブッダは故国の消滅にも動揺することはなく、ラージャグリハから通年通りの伝道の旅を始める。この旅には20年以上に渡って脇侍して来たアーナンダが随行していた。
伝道は順調であり、のちにマガダ国やマウリア朝の首都となるパータリプトラから説教を開始。ガンジス河を渡ったのち、ヴァッジ国のペールヴァ村で雨季を超すための安居(集団で定住すること)に入った。ここでブッダは大病を得て一時生死が危ぶまれるまでの状態に陥るが、雨季も終わるとしだいに体力を回復させた。
これを喜んだアーナンダが「師がサンガの跡継ぎについて、何か遺言をしないうちになくなるはずはない思い、安心しました」と述べた(この発言からも、周辺人物の間では後継者争いがあったことが分かる)のに対し、ブッダは既に全ての法を説き終えたこと(秘奥義の否定)、自身の死後は自らを灯明とし自らをよりどころとし、法を灯明とし法をよりどころとし、他に依拠してはならない、と諭した(自灯明・法灯明)。
雨季が終わるとまた精力的に托鉢や説法を再開。霊廟や霊場を中心に回ったのち、最後になると悟り市井に出て大衆に教法を示した。
いくつもの町や村を過ぎたのち、パーヴァ村に付くと鍛冶屋のチュンダが出迎えブッダや釈迦に住居と食事を供養した。しかし、そこで出されたスーカラ・マッタヴァと言う豚肉料理(北伝ではキノコ料理)に当たってしまい、激しい腹痛に見舞われた。
平静を装い旅に出たブッダだったが、カクッター川のほとりで倒れ伏し、心配して随行していたチュンダとアーナンダに床を作る様に命じた。
ブッダはチュンダの供養をかつてのスジャータの供養と並べて褒め、布施の功徳を説いたのちに死去した。80歳と伝わる。
ブッダは火葬されたが、その遺骨(仏舎利)を巡り各国で争いが起きた。最終的に8等分することで妥協し、各国はそれを塔に入れ寺院とした。現在でも仏舎利を尊び、手に入れられない場合は宝石などを代替えにする風習はここから来ている。また、仏舎利を収める塔をストゥーパと呼び、卒塔婆の語源となっている。
実質的にサンガの後を継いだのは頭陀行に専心し、サンガからは距離を置いていたことがかえって評価されていたマハーカッサパであった。教団をまとめ上げると共に、アーナンダの協力を得て仏典として教えを結集し現在にまで続く経典としての仏教文化を築き上げた。
ブッダ在世中もそうであったが、直弟子たちも入滅したのちも戒律を巡り激しい権力闘争が展開された。仏教自体も入滅後100年目に行われた第二回目の結集後、戒律の厳格的な維持を主張した上座部(高僧たち)と弛緩を求める大衆部とに分裂し、前者が南伝(タイやミャンマー)、後者が北伝(中国や朝鮮、日本)となった。
インドにおける仏教はその後、バラモン教の巻き返しやエフタルなど諸民族のインド亜大陸への侵入、イスラームによる迫害により17世紀までにはほぼ消滅した。ブッダ自体は現在のヒンドゥー教にも取り入れられたが、ヴィシュヌ神の化身であるブッダが悪人からヴェーダを守るためにあえて間違った教えを広めたとされ遠回しに仏教徒ごと貶められている。
20世紀になり、インドにおいてナショナリズムが高まると世界に影響を与えたインドの偉人としての評価が主に知識人の間で広まった。特に下位カーストやアウトカースト(ダリットいわゆる不可触民)の人々の中には人類の平等やカーストの否定を根本とする教えに共感を持った者も多く、反カースト運動の最先鋒だったビームラーオ・アンべードカルはブッダを高く評価し死の直前に仏教に改宗している。
現在でもブッダ(釈迦)はインドにおいてはマイナーな存在であるが、寺院跡や伝道の地は世界遺産や観光地として整備されており、各国の仏教諸派や仏教徒を結ぶ拠点として機能している。
掲示板
54 ななしのよっしん
2024/05/10(金) 09:04:46 ID: xV6f+RQsvi
>>父はゴータマ・シュッドーダナ(浄飯王)
一瞬だけ炒飯王に見えた
55 ななしのよっしん
2024/08/30(金) 08:53:37 ID: yoDoXoT8fg
とりあえず勝手に曲解で代弁されて戦争を起こすような宗教で無さそうなのはキリスト、イスラムよりマシ
56 ななしのよっしん
2024/09/21(土) 15:30:55 ID: JCvjIVRWvZ
一応仏教も日本の戦国時代、日蓮宗やら浄土真宗やらが戦争、殺し合いしてたけどね。多分外国でもあるんじゃない?
急上昇ワード改
最終更新:2025/02/16(日) 21:00
最終更新:2025/02/16(日) 21:00
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