アルピナ(Alpina)とは、
- 「アルプスの~」を意味するドイツ語、らしい。英語のAlpineと同じ意味、だと思う。
- BMWをベースにした独自の高性能車の製造・販売、及びワインの販売を行っているドイツの自動車メーカー。
又はその自動車ブランド。 - 株式会社楽楽エージェントが提供しているウォーターサーバのブランド。
である。
概要
BMWをベースに、独自のチューニングを施した自動車を製造・販売している自動車メーカーである。
一般的にチューナーと思われがちだが、チューナーが完成車に手を入れるのに対し、アルピナはホワイトボディ(組み立て前の車体)やエンジンをBMWから供給を受け職人がチューニングを施し、自社の工場で組み立てを行う。国には自動車メーカーとして登録されている。BMWとはアルピナ創業期から密接な協力関係にあり、それは今日まで続いている。職人が手作業で加工を行う工程が多く、年間生産台数は1000台ほどと多くは無い。
高性能車ではあるがガチガチに足回りを固めたような車ではなく、日常で安楽に使え且つサーキットで発揮できる性能を有し、さらに派手過ぎない控えめな車を作ることを信条としている。
日本では、在日ドイツ人の実業家であるCH.ニコ.ローレケが創設したニコルグループが総代理店となり、ニコル直営店や全国のBMW販売店を通じて販売されている。生産台数に対する日本での販売割合は、およそ15~20%程度である。
歴史
1961年、タイプライター職人を父に持つブルカルト・ボーフェンジーペンが、BMW1500を改造したところからその歴史が始まる。ブルカルトは車を気に入っていたが、パワーが足りないのが不満だった。「これ、キャブレター変えたらパワー上がるんじゃね?」と思い、ウェーバーのツインチョークを2基装着。すると思ったような性能を手に入れることが出来た。このことからブルカルトはチューニングの面白さに気付く。
「お゛め゛ーの゛車゛、パ゛ワ゛ー゛ね゛ぇ゛か゛ら゛!゛」
と顧客に文句を付けられ、1.8L、2.0Lと排気量を増やしてパワー対応に追われていた。チューナップが面白くなったブルカルトは泣いたお前を口説く暇もなく、これら排気量を増やしたBMWにも同様のチューニングを施し、もっと凄い車を仕上げていって楽しんでいた。
完全に覚醒したブルカルトが次に行ったのは既存パーツによる改造ではなく、自分独自のパーツを製造すること。父親の下で働くタイプライター職人を仲間に引き入れると作業をはじめ、ついにツインキャブレターを開発することに成功。このキャブレターには父のタイプライターの名前を貰い「Alpina」と名づけた。BMWを高性能化するこのパーツは世間で大いに評判となる。自信を持ったブルカルトは、アルピナの名を冠する会社を立ち上げて本格的に事業に乗り出す。
さらに一大転機が訪れる。その腕前を高く評価したBMWが「あなたのところの部品をつけた車に保証つけるし、色々と協力するからさ、うちの車をどんどんチューナップしてくれない?」と声をかけ、業務提携を結ぶこととなったのだ。「パワーが足りないなら、アルピナを買えばいいじゃない」の幕開けである。
「自分達の車の性能を示すなら、やはりサーキットが一番だ」とレースにも進出。1968年からアルピナチューンのBMWが走り始めると、欧州ツーリングカー選手権優勝やスパ・フランコルシャン24時間レース優勝など、著名なレースで好成績を収める。
1978年にはチューナーからメーカーへ転進、BMWをベースにした自動車の製造を開始する。手始めに、4気筒エンジンしかなかった3シリーズに6気筒エンジンを積んだB6と、5シリーズと6シリーズをベースにしたB7ターボを発表。エンジンは半球形燃焼室、鍛造ピストン、デジタル式イグニッションなど大幅な改良を行い、B6で200馬力、B7で300馬力という、当時としてはかなりな高性能にすることを達成。それでいて普段は快適に使える乗り心地と高い安定性を両立するなど手間隙かけた甲斐もあり、顧客の要求を高次元で達成する製品を世に送り出す。
市販車は順調だったが、レースの方には寒風が吹き付けていた。成績自体は高性能と低燃費の両立で絶好調だったものの、スポンサーがオイルショックの影響で下りていき他のチームが次々と撤退。1977年を最後にアルピナもそのワークス活動を終える。但しレーシングカー開発には以後も携わっていく。1981年には低燃費レースにも参加し、2.672L/100km(約37km/L)で優勝。単なるパワー厨ではなく、注目をあびる優れた技術を持つことを世に示した。少し遡った1979年には、ブルカルトが酒好きなのかワインの販売も開始。
1983年に自動車メーカーとして西ドイツ自動車登録局に登録。自動車メーカーの仲間入りを果たす。1987年にはBMW Alpina M3グループAがDTMで好成績を収めるなど絶好調だったが、1988年に再び転機が訪れる。
「市販車の注文が多くなって、ぶっちゃけレーシングカー開発に割くリソースはない。なんにもない」
この背に腹はかえられない事情により、アルピナはレースから完全に手を引いてしまう。以後はBMWベースの高性能車を作るメーカーとして研鑽していく。1990年には新社屋が完成し、従業員120人体制に。
2008年にはレース復帰を表明。B6GT3が二度の優勝を飾るなど、そこそこ良い成績を収めた。
この会社、割と順調であんまり面白いこと書けないな…
シトロエンやジャガーはネタがいっぱいあったのに…orz
アルピナの車作り
「アルピナ」
アルピナの自動車はドイツの小さな田舎町・ブーフローで、職人さんの手作りで製造されている。
職人さんの1日は、タイムカードに出社時間を記録するところから始まる。
彼の自宅に工作機械類は一切ない。
会社にある工作機械のみで材料を加工、製造し、職人が一台一台責任を持って組立ててゆく。
だから、どんなにがんばっても1年に1000台しか作れない。
「流れ作業で次々作っていたのでは、魂がこもらない。1から手作業で作る事で魂のこもったアルピナが出来るのです」
職人さんは笑いながら語る。
職人さんによれば、アルピナのひとつ一つに「顔」があるのだそうだ。
とくに職人さんがこだわっているのが、木製のインテリアパネルだ。
「手触りのよさ」と「木目の美しさ」を兼ね備えた木はそう多くは無い。
木目の良さを気にするから、歩留まりは決していいとはいえない。
「私の作ったアルピナを、世界各地のオーナーがカッ飛ばしているとは光栄です」
仕上げとして製造番号のプレートを車内に装着し、50kmの試運転を終えた職人さんは語る。
プレートの装着は人形で言うと目入れに当り、魂が込められる瞬間だ。
しかし、職人さんには後継者がいる。
自分の子供はみんなサラリーマンになってしまったが、アルピナに憧れる職人志望の若者が入社してくるそうだ。
日本におけるアルピナ
↓BGMにどうぞ
1977年、一人の男が日本でビジネスを始めようとしていた。CH.ニコ.ローレケ。ドイツ人の彼はレーサー人生に終止符を打ち、新たな道を歩む決心をした。そんな彼を魅了する車があった。アルピナ。BMWのチューナーから身を起こし、レースで好成績を収め、ついに自動車メーカーに転じようとしている会社の車だった。ベースとなるのはBMWだが、アルピナの自社工場で独自に組み立てられたその車は、BMWより遥かに高性能になっていた。1979年、青山通りで友人とアルピナを走らせたローレケ。胸をすくような加速に魅了された。「これを日本で売ろう」。ローレケの挑戦が始まった。
↓BGMその2
日本でビジネスを始めて30年が経ったローレケさん。今でも日本でアルピナを売っている。年間に1000台程度しか製造しないアルピナの、およそ20%程度は彼の会社を通じて日本で販売されている。「自分がアルピナを初めて走らせた、あの時の感動を伝えたい」とローレケさん。彼が輸入したアルピナが、今日も日本の道を駆け抜けていく。
現行モデル
ベースとなるBMW車の違いを言えば、アルピナチューンは勿論そうだが、ランフラットタイヤを装着していないのが全モデル共通の相違点。理由はランフラットタイヤでは、アルピナが考える足回りを達成できないことから。以前と比べればBMWはランフラットを上手く履きこなしてはいるが、アルピナの水準には達しないとの事。やはり頑固職人である。
- B3S Biturbo Limousine/Touring/Coupe/Cabrio
- D3 Biturbo Limousine/Touring/Coupe
- B5 Biturbo Limousine/Touring
- D5 Biturbo/Turbo
- B6S Coupe/Cabrio
- B7 Biturbo Limousine
関連動画
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外部リンク
関連項目
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