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インドネシアドクリツセンソウ
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インドネシア独立戦争とは、大日本帝国による支配から独立を宣言したインドネシア共和国と、「大日本帝国による植民地支配からの解放」という大義を掲げて再植民地化に乗り出したオランダ王国との間で行われた、武力衝突と外交交渉の総称である。

概要

蘭印作戦 1942年3月

インドネシアは、17世紀から約350年のあいだオランダの植民地だった(蘭印時代)。

20世紀に入ると世界的な植民地解放の動きがインドネシアへも広がり、オランダによる教育政策の恩恵を受けた学生らを中心にして民族独立運動が活発化した。こうした運動の中から後に「民族の指導者」とされたスカルノ[1]やモハマッド・ハッタ[2]らが登場する。

しかし1942年3月、インドネシアの豊富な資源に目を付けた日本軍5万5000人がジャワ島に上陸し、僅か10日間の戦闘で総兵力3万人のオランダ・イギリス連合軍を追放してインドネシア全域を制圧、同地を大日本帝国の植民地とした。

日本による植民地支配

当初インドネシア人は日本軍をオランダからの解放者として歓迎したが、新たな支配者となった大日本帝国はインドネシアに対して「帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給地トシ」「現地一般民衆ノ生活ヲ顧慮スルノ暇無ク」「所謂搾取的方針」と徹底的に搾取する政策をとり、現地民は奴隷同然に迫害され、人々の期待は裏切られることになった。

軍はインドネシアの独立運動家を取り締まり、日本への協力を宣誓することを求めた。協力を拒んだ者は投獄され、日本軍の撤退までに1/3程度が”目減り”した[3]。

蘭印時代に認められていた現地民族集落の自治権は剥奪され「国の政治組織や政府に関するいかなる議論、組織、思索、宣伝」を行うことも禁止された。集落は軍直轄となり、首長は日本人に代わって住民に物資や労働力を供出させる役を課され、軍を満足させるだけの供出がない集落の首長は無能者として処罰された。

民族旗「紅白旗」と民族歌「インドネシア・ラヤ」は禁止され「日の丸」と「君が代」が新たな国旗と国家とされた[4]。インドネシアと日本では時差があったが日本時間に統一され[5]、現地民は日本人に合わせて早朝から仕事[6]や学校[7]に駆り出された。また皇紀の使用も強制され、1942年は皇紀2602年とされた[8]。現地の新聞社や放送局などは統廃合により数が減らされ日本の新聞や放送で置き換えられた。現地民族の伝統芸能は不健全芸能として劇場や映画館の運営が制限され[9]、軍は宣伝ポスターで日本を「亜細亜の光 亜細亜の保護者 亜細亜の指導者」(三亜運動)と位置づけ日本人を尊敬するよう求め、現地民族文化を日本文化で置き換えるよう啓民文化指導所で指導した[10]。

資源の搾取と生活水準の低下

蘭印時代の現地民は、高度なインフラとオランダから輸入される豊富な物資に支えられ、一般的な日本軍兵士よりも恵まれた暮らしをしていた。しかし日本占領下で欧州との交易が途絶したことにより物資が不足すると、民衆は衣類や燃料や医療品の調達に困るようになった[11]。

米の市場売買と純白米食は禁じられ[12]、現地民は種籾や自家消費米まで強制的に供出させられた。加えて軍は農用家畜の徴発や建材の大量伐採による森林破壊、現地民の食糧よりジャトロファ(南洋油桐)等の軍用植物の栽培を優先する政策などで同地の食糧生産能力をも低下させ、多数の現地民を餓死させた[13]。

同地では死者は豪華な衣装で身を纏い多くの副葬品とともに土葬されることが一般的だったが、日本軍は資源として墓の副葬品にも目を付けた。軍は埋葬済みの死体から衣類や副葬品を回収すると残った遺体を荼毘に付したが、これは土葬文化の現地民にとっては受け入れがたいことだった[14]。

男性は肉体労働者(ロームシャ[15])として、女性は慰安婦として徴用され、その一部は海外へ”輸出”もされた[16]。

日本軍は現地民を徴兵して日本人指揮官の下で戦わせる計画も立てた。しかし軍の協力者だったガトット・マンコエプラジャが「戦うかどうかを選択する権利はインドネシア人にある」と現地民の日本人部隊への編入に反対し、自らの血で請願書を作成して現地民だけで構成される郷土防衛義勇軍(PETA)の編成を認めさせた。ただし日本軍は現地民の団結を警戒してPETAを管理する中央集権的部署の設立は許さず、PETAの指揮系統が大団単位で孤立するよう慎重に制度を設計した。義勇軍は現地民で構成されたものの、義勇兵への訓練は日本軍の指導下で日本軍の『歩兵操典』に基づき日本語で行われ、精神教育として日本軍の『軍人勅諭』が叩き込まれた。訓練は「サンパイ・マテイ(死ぬまでやろう)」を合言葉とした厳しいものとなり、訓練兵のなかには負傷したり心身を病んだりして本当に死んでしまう者もいた。

民族独立排日蜂起

日本軍が上陸して半年が経過した1942年冬頃[17]ともなると、過酷な植民地支配に耐えかねた現地民族が日本人による支配からの解放を訴えて各地で蜂起するようになった。反乱の多くは短期間で鎮圧されたが、ビアク島やヤペン島でのコレリ運動のようにゲリラ戦で粘り強く戦い続ける者たちもいた。1944年末頃からは義勇軍(PETA)も反乱に加わり、ピディ県ムルードゥやチラチャプ州グミリールなどでは組織的な反乱が起こった[18]。義勇軍の反乱の中でも特に有名な反乱の一つがブリタルPETA大団の反乱(ブリタル蜂起)である。

ブリタル蜂起

PETAブリタル大団の義勇兵らは「ロームシャの悲惨な状況」「供出の名目で行われる経済的搾取」「慰安婦として性的に搾取される現地民族女性[19]」「義勇軍に対する侮辱的行為[20]」「日本人の傲慢さと残酷さ」に心を痛め、1944年夏頃から小団長スプリヤディを中心とした数人の将校らで反乱を計画するようになり、1945年2月14日に民族独立を掲げて反乱を起こした[21]。反乱は2週間ほどで鎮圧され特に戦果と呼べるものもなかったが[22]、首謀者のスプリヤディが作戦行動中行方不明(MIA)となったため様々な憶測を呼び、各地でスプリヤディを名乗る人物があらわれるなど後の独立運動に影響を与えた。

インドネシア独立宣言 1945年8月17日

各地で蜂起する抗日独立軍は装備や練度では日本軍に劣っていたが、日本軍も全てに対応し続けることは容易ではなかった。さらにはアジア太平洋戦争の戦局悪化も極まり、ついに日本は現地民を懐柔するため、1944年9月の「小磯声明[23]」でインドネシアの一部地域に対して将来的には独立も認容する可能性を示し、翌1945年3月に独立準備調査会を発足させた。

スカルノとハッタは調査会のメンバーとなって日本との交渉に乗り出したが、スタン・シャフリル[24]、アブ・ハニファ[25]、アイディット[26]といった独立運動家は現地民族が団結して自力で日本軍を排除し武力で民族独立を勝ち取るべきだと主張し、スカルノら穏健派と対立した。

そして8月14日、アメリカが日本を降伏させたことで、インドネシアに独立のチャンスが巡ってきた。

日本の降伏を知ったウィカナ[27]、アダム・マリク[28]、スカルニ[29]、ハイルル・サレ[30]などの排日独立を主張するグループは8月16日早朝、スカルノとハッタを拉致してレンガスデンクロクに幽閉し、今すぐ独立を宣言して速やかに日本軍残党を掃討するべきだと訴えた(レンガスデンクロク事件)。しかしスカルノとハッタは、インドネシアには7万人もの日本軍残党がおり日本からの保証なしに独立を宣言することは危険だと反論した。議論の末、独立の準備として日本軍と交渉することは認めるが独立宣言に日本人が関与することは認めないという内容で双方が合意した。スカルノらは事前に交流があった日本海軍の前田精少将に連絡を取り、前田少将の公邸を借りて独立宣言の起草に取りかかった[31]。作成された宣言文には日本人の署名を認めず、署名はスカルノとハッタだけが行った[32]。

当初スカルノらはコーニングス広場(現在のムルデカ広場)で独立を宣言しようとしたが、独立を阻止しようとする日本陸軍の憲兵隊がスカルノを捕らえようとしていたため、スカルノらは広場を避けてスカルノの自宅で独立を宣言した[33]。

日本軍残党との戦い

独立宣言前後の8月16日~18日、PETAによる復讐を怖れた日本軍はPETAに解散を命じてPETAの武装解除に取りかかった。ところが日本の降伏を知ったPETAは解散命令を拒絶し、武器弾薬をめぐって日本軍残党と各地で衝突した。その中でも戦局を決定づけた重要な戦いは10月のスマランの戦いで、インドネシア独立軍は約2000人という大変な犠牲を出しながらも日本軍残党に勝利して武器庫を占領し、3万丁を超える歩兵銃と数百門の野砲を強奪した。これ以後、インドネシア独立軍は日本軍残党に対して優勢に立つことが多くなった[34]。

独立承認交渉

1945年8月17日にインドネシアの独立が宣言されたものの、大統領兼首相のスカルノはファシスト(日本)の協力者でインドネシア独立政府は日本軍政の延長にすぎないとして連合国はスカルノ大統領内閣[35]を認めず、翌9月29日に治安回復と日本軍残党の回収という名目でイギリスとオーストラリアの連合軍をインドネシアに上陸させた[36]。

インドネシア独立政府は11月、スカルノ大統領の対日協力の過去を厳しく批判して大統領による首相兼任を停止し、オランダ留学組のシャフリルを新たな首相とする責任内閣制を採用、同じくオランダ留学組のハッタ副大統領とシャフリル内閣が協力して旧宗主国だったオランダなどの連合国と独立承認交渉を開始した。しかし民衆の間では排外的民族主義が高揚しており、武力による外国軍追放を主張する急進派民族主義者を中心とした独立革命武装集団が各地で英豪連合軍と衝突を始めた。

12月になると、再占領の停滞に痺れを切らしたオランダが「大日本帝国による植民地支配からの解放」の大義を掲げ、イギリスの反対を押し切ってインドネシアに上陸してきた。イギリスは英領インド帝国の独立問題に頭を抱えていた時期でもあり、オランダ軍が上陸してきたのであれば英豪連合がインドネシアで不要な消耗を続ける必要はないとして翌1946年冬にインドネシアから撤退する意向を示した。

英豪連合の撤退により単独でインドネシア独立勢力と向き合うことになってしまったオランダはインドネシア独立政府との交渉態度を急激に軟化させ、英豪連合軍が撤退を完了する直前の11月15日にシャフリル内閣と下記概要の協定(リンガルジャティ協定)を結んだ。

協定ではインドネシア共和国が承認されたもののオランダ女王を元首として戴く連邦国家の一部とされており、シャフリル内閣はウィカナやシャリフディン[37]といった急進派閣僚から弱腰外交と猛烈に非難されることになった。スカルノの親日姿勢を批判して支持者を獲得したシャフリル内閣だったが、今度は自分たちがオランダへの弱腰外交を批判される立場となって支持者を失い、少数派内閣に転落したシャフリル内閣は翌1947年6月27日に解散し、7月3日にシャリフディン内閣が誕生した。

しかし協定締結以降も地方では武力衝突が続き、オランダはインドネシア共和国政府を協定違反として非難した。

第一次軍事侵攻 1947年7月21日~1948年1月17日

オランダ王国のウィルヘルミナ女王はインドネシア奪回に固執していたものの、オランダ国民の反応は冷ややかだった[38]。特に軍人がオランダ国内での勤務を希望してインドネシア派兵に強い拒否反応を示し、オランダ政府はインドネシアで作戦を行うための戦力確保に苦労していた。そこでヴィム・シェルメルホルン内閣は王国軍兵士本人の合意を得ることなく勤務地の変更が可能となる憲法改正案を提出し、1946年9月よりオランダ人兵士およそ9万5000人のインドネシア派兵を開始した[39]。

兵員が増員されて約12万人に膨れあがったインドネシア駐留オランダ軍は1947年7月21日、インドネシア共和国政府が過激な排外主義者を制御できていないと批難し、治安維持行動であると称してインドネシア共和国領に侵攻、瞬く間にジャワ島・スマトラ島の半分を占領した[40]。

しかしオランダの軍事行動は国際世論において非難の的となり、8月1日に国際連合安全保障理事会でオランダに停戦を求める決議が採択された。8月5日よりアメリカ、オーストラリア、ベルギーの3国からなる調停委員会の仲介でオランダとインドネシアの停戦交渉が開始され、翌1948年1月17日に停戦協定(レンヴィル協定)が成立した。

しかし停戦条件は、一方的に侵入してきたオランダ軍の前線を現状維持ライン(ファン・モーク・ライン)として承認し、オランダ軍が侵入している地域からはインドネシア国立軍を撤退させるというインドネシアにとっては屈辱的な内容だった。このレンヴィル協定の成立により「シリワンギの長征」と呼ばれる長距離転戦行が発生したり、協定で新たにオランダ領とされた地域からの撤退を拒んで同地で新たに独立を宣言する者が現れるなどの混乱が起こった[41]。

停戦協定が屈辱的内容となった結果、シャフリル内閣の弱腰外交を批難して生まれたシャリフディン内閣もまた弱腰外交と批難される立場となり、シャリフディン内閣は翌1948年1月23日に解散、権力の空白による混乱を避けるためとしてスカルノ大統領が大統領令を発し、1月29日にハッタ副大統領が首相を兼任するハッタ内閣を誕生させた。シャフリル内閣とシャリフディン内閣での失敗の反省からハッタ内閣は急進派を主要な支持層とすることはせず、民族主義者による排外主義を厳しく取り締まる方針を示した。

第二次軍事侵攻 1948年12月19日~1949年12月27日

1948年9月、東ジャワのマディウン市で、レンヴィル協定の撤回を求める急進派の民族主義者らがハッタ内閣に対して武装蜂起した(マディウン事件)。前首相のシャリフディンが反乱の説得に赴いたが、かえってハッタ内閣の対抗馬として担ぎ上げられ、反乱鎮圧後にはシャリフディンも反乱軍の一人として処刑された。

オランダ軍は同年12月19日、マディウン事件後の混乱に対する治安維持行動と称して空挺部隊[42]でインドネシア共和国の首都ジョクジャカルタを奇襲し、騒動の元凶であるとしてスカルノ大統領とハッタ副大統領を捕らえてスマトラのバンカ島に幽閉した。共和国政府はシャフルディン・プラウィラネガラ[43]を臨時大統領代理として西スマトラ州ブキティンギに緊急政府の樹立を宣言し、農山村部でのゲリラ戦を中心にオランダ軍を相手に粘り強く抵抗した。

緊急政府は国際連合にオランダ軍の侵略を訴え、またアメリカにインドネシア独立に協力することの利点を説明した。この時期、インドネシア独立を支援していたのはソヴィエトや中国共産党と言った共産主義勢力で、インドネシアが共産主義陣営として独立を達成することはアメリカにとって避けたいシナリオだった。アメリカはインドネシアを資本主義陣営として独立させる緊急政府の提案を受け入れ、もしオランダがインドネシア独立を受け入れないのであれば欧州復興計画(マーシャル・プラン)の援助を停止するとオランダに警告した。

12月24日、アメリカの強烈な後押しにより国連安全保障理事会はオランダへの非難決議を採択し、さらに翌1949年1月28日にスカルノとハッタの身柄を解放してインドネシア共和国政府を復活させるようオランダに要求した。5月7日と6月22日にオランダとインドネシアで停戦条件に関する合意が行われ、スカルノとハッタは7月6日に解放され、8月11日にジャワ島の、8月15日にスマトラ島の停戦が行われた。

紛争の最終的な解決は、オランダのハーグで開催される円卓会議(ハーグ円卓会議)で協議されることになった。

オランダの撤退

ハーグ円卓会議に先立ちオランダは、インドネシアで複数の国々を独立させた。これはオランダの後押しで独立した国々が”独立をさせてくれたオランダに感謝”して会議でオランダを支持してくれることを期待してのことだった。とはいえ勿論そんなことになろうはずもなく、会議では15の国々が連携してインドネシア共和国を支援し、協定は概ね下記のような内容となった(ハーグ協定)。

ハーグ協定は11月2日に成立し、12月27日に調印された。インドネシア共和国はジャワ島の半分とスマトラ島の半分に限定されたものの、17世紀から続いたインドネシアの植民地時代は確かに終わりを迎えることになった。オランダ軍の撤退は速やかに行われ、インドネシア共和国の首都はジャカルタに復帰し、共和国政府は翌1950年1月から連邦を構成する15の地方政権に対して合流の働きかけを開始した。

地方分権を主張して連邦制の解消に反対していたポンティアナック・スルタン国の国王シャリフ・ハミド2世[44]は、オランダ王立陸軍特殊部隊の退役軍人レイモンド・ウェスターリングと共謀し、インドネシア共和国の中央閣僚を多数暗殺して現共和国政府を転覆させる計画を立てた。ウェスターリングは1月22日にクーデターを起こしてバンドンの一時占領に成功したが、首都ジャカルタでの閣僚暗殺作戦には失敗した。ハミド2世は1月24日にジャカルタのホテルでウェスターリングと密会してウェスターリングの失敗を激しく批難したが[45]、事件の真相を闇に葬るためウェスターリングをシンガポールへ脱出させることにした。

クーデターの失敗により主要な連邦解消反対派は沈黙し、インドネシア共和国政府は同年8月17日までに交渉あるいは武力制圧によって各国家をインドネシア共和国に編入した。これにてインドネシア独立戦争は終結し、インドネシア共和国によるインドネシア統一が達成されたのである[46]。

日本との和解

ようやく国際社会に独立を承認させたインドネシア共和国は、日本軍占領下で甚大な被害を受けた被害国としての地位が認められ、1951年9月のサンフランシスコ講和会議に招請された。会議に出席したアフマッド・スバルジョ[47]外務大臣は「日本軍政中にインドネシアが被った被害は二重であります。一つは約400万人の人命の損失、もう一つは数十億ドルの物質的損害であります」と演説した。モハマッド・ハッタ副大統領は、植民地支配について日本側の反省と謝罪が十分でないことにインドネシア国民は強い不満を持っているとしてサンフランシスコ講和条約の批准を拒否し、日本政府からの直接賠償を求めた。交渉は6年に及び、日本とインドネシアで平和条約が締結されたのは1958年のことだった。

エピソード

初代人民治安大臣スプリヤディ

1945年8月17日に独立を宣言したインドネシア独立政府は、8月19日にスカルノ大統領内閣の人事を発表した。そこで陸軍総司令官と人民治安大臣に任命されていたのは、なんとブリタル蜂起以降行方不明となっていたスプリヤディだった。スプリヤディは当時まだ22歳という大抜擢で、インドネシア政府公式記録としては、現在も史上最年少での大臣就任記録となっている。

とはいえ、スプリヤディは依然として行方不明のままだったので、任命初日から陸軍参謀総長ウリップ・スモハルジョ[48]が陸軍総司令官臨時代理として軍の指揮を執り、10月20日にはムハンマド・スルヨアディクスマが人民治安大臣代理として任命された。その後、陸軍総司令官は11月12日にスディルマン[49]に替わり、人民治安大臣あらため国防大臣も11月14日にシャリフディンに交替した。

スプリヤディの行方については1975年4月に有力な証言があり政府が調査を行ったものの結論を出すには至らず[50]、政府は1975年8月9日にスプリヤディを行方不明のまま国家英雄と宣言して、公的には”既に死亡している”ことになっている。

しかし21世紀になってからも「スプリヤディを見た」「自分がスプリヤディだ」とする報告は多々あり、特に2008年に発見された "スプリヤディ" は信憑性があるとしてメディアでも大きく取り上げられた[51]。検索して見つけたニュースによれば2018年にも"自分がスプリヤディだ"と名乗り出てきた人exitがいたようである。もはやドミトリー1世やエルヴィス・プレスリーも真っ青の何だかよくわからない存在になっている。

とにかくスプリヤディはインドネシアにおいては国民的英雄で、独立戦争期には「スプリヤディが日本人なんぞに殺されるわけがない。スプリヤディは今も地下に潜って日本軍を相手に戦っているのだ」と信じる人も多かったのだとか。 スプリヤディの人気は彼の精神性や神秘性によるものだったそうで、PETAでは20歳そこそこの小団長でしかなかったにもかかわらず年上の大団長や中団長からも精神的指導者として尊敬され、反乱時にはPETAの上官や年長者が実際にスプリヤディの指揮に従っている。一方で日本軍はスプリヤディを全くの小者として注目も警戒もしておらず、反乱後ですら「敗軍の将がゲリラに身を堕としてまで戦い続けるなど潔くない」と日本軍将校の間で冷笑されていたという。こうしたスプリヤディに対する評価の違いは日本人とインドネシア人の死生観や宗教観の違い、あるいは日本軍が現地民族の価値観に無理解だった証拠などとして言及されることがある。

ベルシアップ

ベルシアップとは、インドネシア独立宣言後に発生した強い排外主義を指す言葉で、独立軍が敵と遭遇した際に発する「シアップ」(警戒せよ)に由来している。

独立が宣言されると民衆の民族意識と排外感情は制御不能なほどに高揚し、逃げ遅れた日本人や日本の降伏によって解放されたオランダ人などが脅迫、強盗、暴行、組織的虐殺といった目に遭うことが常態化した。襲撃の対象となったのは外国人ばかりではなく、植民地時代に親日的だったとされた現地の封建的権威者も含まれていた[52]。疑いの目は大統領スカルノへも向けられ、スカルノは「自分は親日ではなく、工作員として日本軍に接近していたのだ」と弁明する羽目になった。

こうした過激な排外運動は1947年頃まで盛んで、ベルシアップ時代に殺害された外国人の数は3万人にも及ぶとされている。ベルシアップはインドネシア独立革命の歴史に暗い影を落としたのみならず、オランダ軍に治安維持行動という口実を与えて二度の軍事侵攻を招くことにもなった。

モホタル事件

モホタル事件(1944年8月)は、日本軍が現地民にバンドン陸軍防疫研究所製造の三種混合ワクチンを接種させたところ、接種を受けた数百人が破傷風を発症して死亡した事件である。軍は、事件は日本軍に恨みを抱く者がワクチンに破傷風菌を混入させて日本人殺害を計画した「対日陰謀事件」であると断定し、ジャカルタ医科大学のアフマド・モホタル細菌学教授ら数名を犯人として処刑もしくは獄死させた。

しかし戦後、バンドン陸軍防疫研究所では南方軍防疫給水部(731部隊の関連組織)によって破傷風菌の毒素を不活性化させるホルマリンの分量を見極める人体実験が行われていたことが発覚し、この事件は人体実験のためのワクチン管理の不備が原因であった可能性が指摘されている。

「現地逃亡脱走兵」の協力

日本がアメリカに降伏した1945年8月14日から1947年の引揚げ完了までに3000人近くの日本兵が捕虜となり、そのうち1000人[53]ほどが捕虜を潔しとしない日本の風潮[54]やインドネシアで犯した戦争犯罪を裁かれるのを怖れたなどの様々な理由[55]で日本への送還を拒否してインドネシアへの残留を希望した[56]。独立したばかりのインドネシア政府は戦力増強の必要から残留を希望した日本兵にインドネシア軍に協力するよう要請し、800人近くの日本兵がインドネシア軍に協力することを受け入れ解放された。

こうした降伏兵の常として日本人兵士は戦場の最前線に前衛として投入されることになったが[57]、これは結果として実戦経験の乏しかったインドネシア軍の助けとなった。また、停戦中には非公式な特別ゲリラ隊としてオランダ軍の前線基地を攻撃するなどの秘密作戦にも活用された。こうした独立戦争への協力が認められた日本兵の何人かにはインドネシア政府からゲリラ戦士勲章(ビンタン・ゲリリャ)が贈られ、6人にはナラリア勲章[58]が贈られ、戦没者のうち40名ほどは独立戦争を戦った現地民と同様に各地の英雄墓地に埋葬される待遇を得た。南ジャカルタ市のカリバタ英雄墓地には約7000名の現地民戦没者とともに27人もの日本人戦没者が埋葬されており、2023年には天皇皇后両陛下が参拝している。

1960年代、日本企業が日本による過酷な植民地支配というトラウマにより反日感情の強かったインドネシアへ本格的な進出を始めたとき、両国間の橋渡しの役割を果たした人たちの中には、日本人から「現地逃亡脱走兵」と蔑まれながらもインドネシアで独立戦争に協力した人たちがいたのである。

今村均陸軍中将による軍政

今村均中将は日本陸軍第16軍司令官として蘭印作戦を指揮した人物で、占領後は現地軍政の指揮も担当した。日本軍の軍政はオランダの植民地政策と比べると極めて過酷なもので、軍政責任者だった今村も現地民から恨みを買うことになった。

しかし実は今村中将の占領政策は中国・シンガポール・インドシナといった他の日本軍占領地と比べれば相当にマシなもので、例えば日本の新聞などが今村中将を「軟弱に過ぎる」と批判するほどだった。今村は1942年11月にラバウルに転任することになるが、これも今村の軍政が政府や軍中央などから「生ぬるい」と批判されたことによるものだったと言われている。今村の転任によって日本軍の本気の軍政が解禁されたことで、現地民は「本当の地獄」を味わうことになった。

ちなみに、今村軍政が”他の日本軍占領地”と比べてマシだったことを理由に「今村による軍政はインドネシアでも高く評価されている」などと主張されることがあるが、実際にはインドネシアにおける今村軍政の評価は「後任者よりはマシだったがオランダよりは酷かった」といった程度のものである。戦後に勲章を授与された前田精や残留日本兵らとは異なり、インドネシアにおける今村の評判は今も昔も極めて悪いのが現実である。

プンチャック・シラット

シラットは、遅くとも6世紀からの歴史がある東南アジアの伝統的な武術で、マレーシアのシラット・マラヤ(単にシラットとも)とインドネシアのプンチャック・シラットが有名である。1944年2月にタシクマラヤ県シンガパルナで日本軍に対して武装蜂起した国家英雄ザイナル・ムスタファ[59]も、イスラム寄宿学校では生徒達にシラットを学ばせていた。

2007年に雑誌『月刊秘伝』に掲載された記事によると、インドネシアのプンチャック・シラットの歴史には日本による植民地支配も関係しているという。記事によると、日本軍は現地民の戦闘能力を向上させるため蘭印時代に禁止されていたシラットを奨励し、日本軍の依頼によって簡潔で習得が容易な普及用シラット「標準形」が制定されることになったのだという。

ただし、インドネシアに伝わるプンチャック・シラットの歴史は上記とは少し印象が異なるものとなっている。インドネシアに伝わる歴史によれば、シラットは蘭印時代末の20世紀前半には王立オランダ領東インド陸軍でも教えられており、シラット関連誌の流通などもあったようだ。また1925年には、ジャワ島中部にあるジョグジャカルタのカウマで20世紀初頭を代表するシラット指導者ブシロ・シュハダ[60]の弟子ワヒブ(Wahib)とディミヤティ(Dimyati)によるプンチャック・シラット学校が開校し、タパク・スチの三大源流の一つとして知られるチカウマン流(Cikauman)が隆興している。インドネシア諸島に広まるプンチャックの統合を進める目的で設立された団体のなかでも最初期の団体の一つとして知られるのがジャワ島西部にあるスバン郡サガラヘランのプンチャック・シラット協会だが、その設立は1922年で蘭印時代のことである。シラット「標準形」はウォンソネゴロ[61]が委員長を務めた全インドネシア・プンチャック・シラット協会(IPSI)で1948年頃から普及が検討され始めるが、そのシラット「標準形」を体系化したのはプロジョソエミトロ(Prodjosoemitro)とされており、その考案も日本降伏後の1947年となっている。

インドネシアにおいては上記のように、プンチャック・シラットの近代化や「標準形」制定の過程は日本軍上陸の10年以上前から始まり日本降伏よりも数年は後まで続いた歴史として語られている。一部流派には「達人が日本占領期に日本人武術家と交流して日本刀の技術を取り入れた」といった個人レベルでの交流の伝承はあるし、降伏半年前の1945年2月には日本軍政部がジャカルタに「プンチャック錬成普及会」を設立してシラット指導者の住所登録を開始したりしてはいるものの[62]、実際のところ日本軍政当局がプンチャック・シラットに与えた影響の程度についてはイマイチ不明である[63]。

関連動画

関連項目

脚注

  1. *スカルノは、バンドン工科大学で土木工学の学位を取得した現地大学組の民族運動家。早くから大日本帝国の軍事力をアジアの脅威として警戒しており、日本軍政下でも独立運動家に抗日蜂起よりも交渉による独立獲得を目指すよう主張していた。独立後はインドネシア共和国の初代大統領となった。
  2. *モハマッド・ハッタは、オランダのロッテルダム商科大学で経済学修士号を取得したオランダ留学組の民族運動家。民族運動家としては穏健派だったが日本軍政下では共産主義者と疑われて憲兵隊から暗殺対象とされたこともあった。独立後はインドネシア共和国の初代副大統領となった。
  3. *日本軍に投獄された人物の一人に、後にインドネシア首相となるアミール・シャリフディンがいる。シャリフディンは日本への協力を拒み民族独立を主張したため日本軍によって死刑が宣告されたが、日本に協力すると宣誓して解放されていたスカルノとハッタの嘆願により終身刑へ減刑され、後に日本の降伏によって解放された。スカルノ大統領とシャリフディン首相の証言に拠れば、シャリフディンは獄中で日本人から小便を飲まされる等の虐待を受けていたという。
  4. *1942年3月20日の布告第4号。
  5. *1942年3月27日の布告第6号。
  6. *日本軍はイスラム教徒に就労中の礼拝行為を許可したが、それは西方のメッカにではなく北方の「テンノー(天皇)」へ向けて行わなければならなくなった。軍はイスラム教への理解と寛容を示したつもりだったが、当のイスラム教徒からは邪教徒による悪魔崇拝の強要と見なされた。
  7. *科学教育に重きを置いた蘭印時代の学校制度は1942年4月22日の布告第12号により廃止され、全ての初等学校が日本式の団体規律と勤労訓練を重視する国民学校となった。教科書は蘭印時代の教科書も使い回されたが、検閲により日本軍政に不都合な内容が削除されて不完全なものとなった。現場では「タイソー(体操)」「キョーレン(教練)」「キンローホーシ(勤労奉仕)」により倒れる生徒が続出し、日本人の教官はビビビの往復ビンタで生徒を叩き起こそうとした。現地は子供を抱きかかえるにも子供に許可を求めるほど肉体的接触を遠慮する文化圏だったので、このような体罰は現地民には受け入れがたい屈辱だった。
  8. *1942年4月29日の布告第15号。
  9. *たとえばインドネシアではワヤン・クリと呼ばれる影絵芝居が盛んだったが、日本軍政下では演目や上演時間が制限されることになった。
  10. *作家の武田麟太郎は文化振興の意欲を持ってインドネシアへと渡り陸軍報道班の文化指導員となったが、日本軍による”文化振興”の実態が現地民族文化の制限による民族浄化である現実を目の当たりにして大いに失望することになった。
  11. *日本軍政下では現地民も日本軍兵士のような粗末な衣類を着用せざるを得なくなり蚤や虱に苦しめられることになった。イザベラ・バードの『日本紀行』にも記されているように日本人は古くから蚤や虱に慣れ親しんでいたが現地民はそれほどでもなく、蚤や虱に噛まれた痕から皮膚病が悪化することも少なくなかった。
    ただし現地民が日本軍政下で粗末な衣類を着用した理由は物資不足ばかりではなく日本軍兵士による反感もあった。日本人は現地民族を日本人よりも下等な民族と見下しており、現地民が日本軍兵士より贅沢な暮らしをすることを快く思わなかった。もっとも「贅沢は敵だ」「兵隊さんが頑張っているのに」と民衆に質素倹約を求める風潮は占領地に限らず日本本土でも蔓延していた。
  12. *白米食の禁止には隣組が活用された。軍は隣組の組長に組員の食事の様子を監視させ、組員の食事に米以外の穀物が混ざっているかどうかを確認して報告させた。
  13. *日本軍政下ではジャワ島だけに限っても、1944年と1945年で約240万人の餓死者が出たとされている。
  14. *同地には死者は埋葬された状態で天国で暮らし続けると考える宗教観があり、豪華な副葬品も死者が死後の世界で不自由しないようにという願いを込めたものだった。そのため死体を火葬するということは現地民にとっては生きている人間を火あぶりにするのと同じような残酷な意味を持っていた。
  15. *ロームシャは、日本語の”労務者”が語源だが意味は異なり「過酷な重労働を強制された者」を指す。ロームシャに慰安婦や勤労奉仕者(隣組によって強制的に”志願”させられた無償労働者)を含めるかは研究者によって異なり、その推定犠牲者数は400万人~1000万人と幅がある。
  16. *海外に連れ去られたロームシャが約50万人いるとされ、そのうち生きたままインドネシアに帰国できた者は7万人ほどだったという。輸出先としては泰緬鉄道(ビルマとタイを結ぶ鉄道)の建設などが有名。
  17. *例えば1942年11月に起きたバイユ事件などもインドネシアの歴史教科書では「バイユ独立戦争」と呼んで排日民族独立闘争として評価している。ただしバイユ事件は日本側の主張に拠れば、モスクで『聖戦詩(Hikayat Prang Sabil)』を朗読していたチョッ・プリン村の村民を日本陸軍近衛歩兵第3連隊が「謎の呪文を唱える理解しがたい連中」と不気味に思いモスクごと焼き払い、これに怒って抗議してきた村民らを含めて結果的に村民109名を死亡させた事件で、計画的な排日民族独立闘争というよりは偶発的衝突の側面が強いように思われる。
  18. *PETAは若年者が中心であったので反乱者が特定されると日本軍に両親が人質に取られ、反乱兵の大半は大した抵抗もできずに捕らえらることが多かった。親族を人質にとるインドネシア版「下士官兵ニ吿グ」作戦は大いに成功を収め、各地で発生したPETAの反乱は概ね同様の手法で鎮圧された。
  19. *「白馬事件」「曙・櫻倶楽部事件」「フロレス事件」「マゲラン事件」「ジョンベル憲兵分隊事件」などが知られるように、慰安婦とされたのは実際には現地民族ばかりではなくオランダ系を中心としてヨーロッパ人も多かった。1945年5月には同盟国(日独伊三国軍事同盟)人だったはずのドイツ人女性がジャワ島東部ブロラ村で外国語の分からない兵卒らによって「蘭人と誤認」されて慰安婦にされる事件もあったようだ。
  20. *蘭印時代には蘭印陸軍の7割が原住民で構成されていたこともあり、原住民の昇進は現実的には大佐までというガラスの天井があったにせよ軍隊における階級そのものは原住民であっても尊重されていた。しかし日本軍政下では日本人であるかどうかが何よりも優先され、PETA大団長といえども日本人の最下級兵卒に道を譲って敬礼をせねばならず、敬礼を忘れると日本人兵卒によって「お前らギユーヘイ(義勇兵)なんてスイギュー(水牛)と同じだ」などと公衆の面前で暴力をふるわれることになった。
  21. *当初は1945年2月5日の合同演習中に10個大団での一斉蜂起が予定されていたが、当日になって軍から演習中止の通達があったため計画が延期されていた。その後まもなく部隊で「スマランから憲兵隊が派遣されてくるようだ」との噂が流れはじめ、反乱計画の漏洩を疑ったスプリヤディがクディリ第2大団410名のみでの単独蜂起に踏み切った。
  22. *反乱軍は部隊を分割して各方面に同時攻撃を行ったが、既に退避済みで無人となっていたサクラホテルに突撃したり日本軍の流した偽情報に惑わされて同士討ちを繰り返したり、肝心の日本軍部隊には殆ど損害を与えることができなかった。日本人の死亡者は民間人4人だけで、日本軍部隊からは重傷者は出ても死亡者は1人も出なかった。また日本人以外では親日的とされた現地民や日本人と誤認された中国人ら計7人が殺害された。
  23. *小磯声明とは、小磯国昭首相が、1944年9月7日の帝国議会中に「帝国ハ東インド民族永遠ノ福祉ヲ確保スル為メ、将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコトヲ茲ニ声明スルモノデアリマス」と発言したことを指す。
  24. *スタン・シャフリルは、反日地下組織の指導者。オランダのアムステルダム大学法学部で社会主義を専攻したオランダ留学組の民族運動家。独立後はインドネシア共和国の初代首相となったが、スカルノとの政争に敗れ1962年に政治犯とされ、1966年に亡命先のスイスで客死した。
  25. *アブ・ハニファは、インドネシア大学で医学を学んだ現地大学組の民族運動家、医学博士。抗日ゲリラの指導者としても活躍し、イスラム教徒ではあったが日本軍残党からキリスト教会を奪回した功績で後に教皇ヨハネ23世から騎士勲章を授与された。独立後、インドネシア連邦共和国内閣(RIS内閣)で教育文化大臣を務めた。
  26. *ディパ・ヌサンタラ・アイディットは、アダム・マリクやハイルル・サレと連携して青年運動を率いた急進派民族運動家。独立後はインドネシア共産党で重役を務めたが、1965年の「9月30日事件」で死亡した。
  27. *ウィカナは、青年運動を率いた急進派民族運動家。独立後はシャフリル内閣とシャリフディン内閣で青年問題担当国務大臣を務めたが、1965年の「9月30日事件」で死亡した。
  28. *アダム・マリク・バトゥバラは、抗日ゲリラの指揮官。独立後は商務長官、外務大臣、副大統領、国連総会議長などを歴任した。
  29. *スカルニ・カルトディウィルヨは、青年運動を率いた急進派民族運動家。独立後は初代大統領スカルノの側近となった。
  30. *ハイルル・サレは、インドネシアの民族運動家。初めは熱心ではあるが極めて穏健な活動家だった。蘭印時代にはインドネシア学生協会に参加し、オランダのウィルヘルミナ女王へ幾度となく手紙を書いてはインドネシア自治政府設立を懇願した。1942年3月に日本軍が上陸した際はジャカルタで日本軍を歓迎して学生協会代表としてオランダ支配からの解放について謝辞を述べたが、日本軍は学生協会を独立運動の温床になるとして解散させた。それでも彼は日本軍に協力を申し出、8月から日本軍が設立した新世代寮(アスマラ・アンカタン・バル)で現地若者を教育する講師となった。しかし翌1943年半ば、新世代寮は民族主義的であるとの理由で解散された。翌1944年にジャワ奉公会や青年団が設立されると顧問の一人となって協力し、翌1945年3月に独立準備調査会が発足されると5月より独立準備調査を支援する青年団大会の開催を任された。しかし7月16日にパンチャシラ・ビルで開催された大会で、青年団員が調査の域を越えて「統一されたインドネシア共和国による単独国家独立構想」を提案したのを傍聴していた日本軍人がスカルノ青年団総裁に何かを囁きスカルノが「東京の命令により君たちが国家形態について議論することはできない」と議論を打ち切らせたことに失望して大会途中で席を立ち、以降は排日急進派に転じた。
    独立後は共和国政府から過激な民族主義者と警戒されて一時期ドイツに亡命していたりもしたが、帰国後は入閣して退役軍人問題担当国務大臣、基礎産業鉱業担当大臣、副首相などを歴任した。しかし1966年3月18日、前年に起こった「9月30日事件」に関する非公表の容疑で突如として拘束され、政治犯とされたまま翌1967年2月8日に死亡した。
  31. *前田精はインドネシア人に同情的な人物と見なされていた日本海軍将校の一人で、前田少将の公邸で独立の準備を行ったのは、海軍少将である前田の公邸であればインドネシアの独立に否定的だった日本陸軍も迂闊には手を出せないだろうと考えてのことだった。前田精には戦後1973年にインドネシア政府よりナラリヤ功労勲章が授与され、独立宣言が起草された前田公邸は現在も独立宣言起草博物館として保存されている。
    スカルノは戦後も前田とは緊密な関係を保ち、前田が病に伏した際にはスカルノからの見舞いが届いたという。ただし1950年代に前田精、西嶋重忠、三好俊吉郎らが日本人目線で出版した『回顧録』については、さすがのスカルノも「まるで日本人が自ら進んでインドネシア独立に協力したかのように書かれている」と1959年8月17日の独立宣言記念演説で強く非難している。
  32. *前田邸での独立宣言文起草会議では海軍嘱託の西嶋茂忠が、独立には日本人も関与したことを宣言文で示しほしいと要望したようだが、スカルノらには受け入れられなかった。
  33. *前田邸での独立宣言文起草会議には日本陸軍の三好俊吉郎大佐も参加していたが、三好は陸軍の軍人としてではなく個人の資格で参加したもので、前田らに「陸軍は独立を承知していない」「憲兵がスカルノを捕らえようとしている」等の情報をもたらした。なお、しばしば「独立宣言には日本陸軍兵士も立ち会っていた」なるスカルノ邸での独立宣言写真や国旗掲揚写真が紹介されることがあるが、それらの写真で日本軍の軍服を着て写っているのは日本人ではなくPETAのラティフ・ヘンドラニングラット中団長である。
  34. *スマランの戦いでの戦死者数はインドネシア側およそ2000人に対して日本側28人とされており、日本軍の装備がインドネシア独立軍の装備に対して圧倒的に優れていたことがわかる。
  35. *スカルノ大統領内閣とは、スカルノが大統領と首相を兼任した体制のこと。
  36. *旧宗主国だったオランダはヨーロッパ戦線で壊滅した軍隊の再編中だった。また、オランダ軍の上陸は現地民を刺激して英豪連合軍を危険にさらす恐れがあるとして、上陸を自重するようイギリスから警告されていた。
  37. *アミール・シャリフディンは、オランダのライデン大学で哲学を学び、帰国後はバタヴィア法科大学で法学を学んだ民族運動家。民族運動家としてはオランダ留学組かつ現地大学組となる。反日地下組織の一員で1943年1月に日本軍によって投獄され、日本軍の降伏まで獄中で過ごした。独立後は情報大臣、国防大臣、首相などを歴任したが、ハッタ内閣との政争で死亡した。
  38. *1946年7月にオランダで「インドネシアへの兵員派遣に賛成か」という世論調査が実施されたが、男性で「賛成50%、反対41%、中立9%」、女性で「賛成36%、反対44%、中立20%」という結果だった。
  39. *インドネシアへの強制派兵が開始された1946年9月20~22日頃は派兵に反対する大規模なデモがアムステルダムで発生し、兵員輸送列車の行先標が「アムステルダム発バタビア行、人肉輸送列車」に差し替えられるなどした。
  40. *12万人規模に増員されたインドネシア駐留オランダ軍はオランダ財政にとっては大きな負担で、本国は駐留軍に可能な限りの現地自活を要望していた。無茶ぶりをされた駐留軍としては自活のためにインドネシアにおける権益を急いで拡大しなければならないという事情もあった。
  41. *たとえばレンヴィル協定でオランダ支配地とされた西ジャワ州タシクマラヤ県チアウィではカルトスウィルヨがイスラム・インドネシア国(ダルル・イスラームとも)建国を宣言し、最盛期には南スラウェシやアチェ州にまで勢力を拡げた。
  42. *ジョクジャカルタへの奇襲には、日本軍撤退時に日本軍から没収した零式艦上戦闘機3機も使用された。
  43. *シャフルディン・プラウィラネガラは、バタヴィア法科大学で法学を学んだ現地大学組の民族運動家。独立後は財務大臣や中央銀行初代総裁などを歴任したが、スカルノの独裁体制に反対して1958年に樹立されたインドネシア革命政府に参加して首相になるなど共和国政府と対立もした。
  44. *シャリフ・ハミド2世は、カリマンタン島にあったポンティアナック・スルタン国の第7代国王。ポンティアナック事件で日本軍に処刑された第6代国王シャリフ・ムハンマド・アルカドリーの子。軍人時代は王立オランダ領東インド陸軍で大佐。インドネシア国章をデザインした人物として有名。
  45. *ハミド2世はクーデターの際、事件への関与を疑われることを避けるため反乱兵に自分の足を撃たせて真っ先に負傷退場するという芝居を打っていたのだが、まったくの骨折り損となった。
  46. *実際には西ニューギニアの帰属問題が棚上げになっていたり、独立を宣言していたがハーグ円卓会議に呼ばれず連邦構成国ともされなかった地方の独立勢力がいたり、インドネシア共和国によるインドネシア連邦共和国の一方的な解消をオランダが協定違反だと批判し出したり、オランダ=インドネシア連合の連合解消問題があったり、共和国政府に対抗するインドネシア革命政府が樹立されたり、等々、もうちっとだけ続くんじゃ(あと20年ぐらい?)なのだが、ここに記すには余白が狭すぎる。
  47. *アフマッド・スバルジョは、オランダのライデン大学で法学修士号を取得したオランダ留学組の民族運動家。独立後はインドネシア共和国の初代外務大臣となった。
  48. *ウリップ・スモハルジョは、王立オランダ領東インド陸軍の元少佐。独立後は陸軍参謀総長として行方不明中の陸軍総司令官スプリヤディに代わって独立戦争の指揮を執った。
  49. *スディルマンは、1944年4月に抗日反乱を起こしたPETAバニュマス大団の大団長。スディルマン自身は部隊の反乱を制止した側だったのだが要警戒人物として反乱を起こした隊員らと一緒に収容所に送られたため、収容所から脱走して民族独立戦争に身を投じ、その才覚で陸軍総司令官にまで登り詰めた。
  50. *1975年4月、陸軍中野学校出身の情報士官らによって設立されたタンゲランの「青年道場」で教官としてスプリヤディに訓練を施したことがあるとする大成建設シンガポール支店の日本人社員が、ブリタル蜂起の約2週間後に逃亡中のスプリヤディ本人からジャワ島南西部の鉱山村バヤへ行く予定だと教えられた、と証言した。その当時バヤ村には独立革命家の一人タン・マラカが住んでおり、この日本人の証言は検討に値すると考えられた。政府はバヤ村で1945年7月にスプリヤディという名の青年を埋葬したとする人物を探し出し、証言を頼りに埋葬地から遺体を発掘、発見された遺骨をガジャマダ大学医学部の専門家に調査させた。調査の結果、発見された遺骨の埋葬時期は証言に一致するものの、スプリヤディの身体的特徴とは一致しなかった。その後、ブリタル大団にはスプリヤディという名の青年が2人いたことが分かり、政府はバヤ村の遺体について結論を出すことができなかった。
  51. *2008年に発見された "スプリヤディ" は、それまで存在すら知られていなかったブリタル蜂起の細かな出来事について非常に具体的に証言し、その証言を頼りに複数の歴史的新発見があった。しかし彼自身をスプリヤディとする証言となると途端に不確かなものばかりとなり、スプリヤディの親族やPETA退役軍人も彼をスプリヤディとは認めなかった。そのため彼については、スプリヤディ本人ではなくスプリヤディの近くでブリタル蜂起に深く関わったブリタル大団の誰かであろう、とする見解が主流になっている。
  52. *日本軍は徴発に際して自ら手を汚すこともあったが、それよりは現地民から軍の代行者を選んで彼らに厳しいノルマを課す方法を好んだ。軍の代行者とされた者はノルマが達成できないと厳しく処罰されるため、処罰を怖れて「家族を人質にとって供出を強要する」「トラックで乗り付け身柄を攫う」などの強引な手段に訴えて人々から恨みを買うことになった。
  53. *日本への送還を拒否してインドネシアに残留した日本兵は記録上は903人とされているが、残留日本兵は日本では”恥ずべき現地逃亡脱走兵”として死んだことにされたり記録が抹消されたりしたため、記録に残っていない残留日本兵もいたと言われている。
  54. *『戦陣訓』や空閑昇少佐の例などが有名。空閑少佐は1932年の上海事変で重傷を負い部隊から取り残されたが中国国民党軍によって救助され、まもなく日本へ返還されてきた。しかし軍は空閑少佐に弾丸が一発だけ込められた銃を支給して実質的に自殺に追い込んだ。日本軍は「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざる」として1929年の俘虜待遇条約の批准も拒否しており、敵・味方の捕虜に対して国際水準の人権保護を保証していなかった。このことは後に捕虜に対する人権侵害として国際的に非難を浴びることになった。
  55. *捕虜となった日本兵がインドネシアに残留を希望した理由は「軍隊生活に嫌気がさした」(中村常五郎伍長)、「帰っても自活する目途が立たない」(小野盛軍曹)、「敗戦の弱卒天下に用なし」(宮山滋夫上等兵)、「戦争犯罪を裁かれるのが怖い」(杉山長幹憲兵曹長、田中年夫憲兵軍曹、山口正次憲兵軍曹ら)、「協力しなければ死刑になると脅された」(樋口修技術軍曹、早川清軍曹、土岐時治伍長、下岡善治一等兵、南里勇二等兵ら)など人それぞれだった。
  56. *インドネシアへ残留した者の中には、残留後に強制送還されたり心変わりして帰国を望むようになった者もいる。たとえば楠木正徳少尉ら6名は釈放後に始めた自動車修理工場の経営が上手く軌道に乗らず日本への帰国を望むようになり、翌1946年にアチェ州ロスマウェで船主を殺害して小型の船を奪い自力での帰国を企てた(楠木事件)。この殺人事件の影響によりロスマウェでは70~80人ほどの残留日本兵が要警戒人物として2ヶ月ほど収容所に緊急収容されることになった。
  57. *インドネシア残留日本兵と似たような立場の人々として、太平洋戦争中の日系アメリカ人(第442連隊戦闘団)が知られる。日本の宣戦によりアメリカでの立場が悪化した日系人は、アメリカへの忠誠を示すために自ら過酷な作戦に志願して果敢に戦い、アメリカ陸軍史上最多の勲章を受章した部隊となった。
  58. *残留日本兵の活躍を強調する文脈などで、しばしばナラリア勲章が「最高等級の勲章」と紹介されていることがあるが正しくは「最下級の勲章」である。インドネシアでの勲章の序列は アディプルナ(Adipurna) > アディプラダナ(Adipradana) > ウタマ(Utama) > プラタマ(Pratama) > ナラリア(Nararya) となっており「最高等級の勲章」はアディプルナ勲章になる。
  59. *ザイナル・ムスタファは、タシクマラヤでイスラム寄宿学校の指導者をしていた民族運動家。来たるべきジハードに備えて生徒達に戦闘訓練としてシラットを学ばせていた。日本軍は民族独立活動家であるザイナル・ムスタファを暗殺しようとしたが誤って寄宿学校の生徒を殺害してしまい、怒ったザイナル・ムスタファは報復として日本人将校3人を殺害して抗日反乱に踏み切った。
  60. *Busyro Syuhada。1890年代~1920年代に活躍した高名なプンチャックの指導者。1872年、中部ジャワ州バンジャルネガラの生まれ。弟子には後にインドネシア軍司令官として活躍したスディルマンもいる。
  61. *ウォンソネゴロは、バタビア法科大学を卒業して検察官として働いていた現地大学組の民族運動家。独立後は法務大臣、社会福祉大臣、副首相などを歴任した。
  62. *シラット指導者は別述したザイナル・ムスタファのように武闘派ムスリムであることが多く、日本軍政部はシラット指導者の住所登録制度を通して彼らを監視・追跡する目的もあったと思われる。
  63. *例えば日本軍が訓練を指導していたPETAでは日本武道(剣道、柔道、相撲)が教練科目であったのに対してシラットは教練教材とされていなかった。
  64. *共産主義陣営の目的はインドネシアがオランダ(資本主義陣営)に取り込まれるのを防ぐこと、アメリカの目的はインドネシアが共産主義陣営として独立させられることを防ぐこと。やってることは同じだが、協力関係にはなく競争相手である。
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インドネシア独立戦争

25 ななしのよっしん
2022/03/01(火) 01:25:42 ID: P2pub5ag94
>>24反論のつもりで日本国内の軍事教練とか的外れこの上ないもの持ってきちゃってるけれど大丈夫?
私なら脊髄反射で書き込んだことを後悔するレベルだけれど
独立を望んでる現地民に武力という抵抗力を与えるってことが占領政策を続けるだろうって推論と反してるってことよ
それもアジア開放って大義名分を掲げた状態でやってるんだから
それと真っ向から反するような政策なんて取れる訳がない
そもそもインドネシアの独立っていうのは終戦後なら日本にとって特に不利益でもなんでもない話
それまでインドネシアが技術的経済的に宗主国に頼っていた部分を
日本が成り代われるんだからそれだけで十分に利益なのよ
というかそういう意味で利益を得たのが史実のアメリカとかだからね
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26 ななしのよっしん
2022/03/01(火) 01:39:07 ID: P2pub5ag94
戦争補助のために教練したって面も別に間違いではないけれど
それだけが目的で日本に逆らうだけの主体性もない組織ではなかったってことは
終戦直後の日本軍との武力衝突がある意味証明してるんだよ
日本軍の下位ではあってもその構成員の意思、独立の意思を大きく無視した政策を採ろうとした場合
日本軍自身の脅威になる程度には主体性があり、そのような組織を自ずから鍛え上げる程度には
独立支援の意思が日本にあったってことは間違いのないことなのさ
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27 ななしのよっしん
2023/02/12(日) 14:30:58 ID: AzRXbHwi9h
屁理屈を捏ねるのだけは上手いな
この記事書いた人か?
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28 ななしのよっしん
2023/02/12(日) 14:37:09 ID: XO78Iy5yvy
屁理屈にもなってないな
反論せずだらだら文章書いてるだけ
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29 ななしのよっしん
2023/02/12(日) 14:40:18 ID: bmd5++GGTH
要約するとギャオオオオン!大日本帝国を悪く言うなギャオオオオオオン!!ってだけ
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30 ななしのよっしん
2023/02/14(火) 22:30:17 ID: P2pub5ag94
27 2023/02/12(日) 14:30:58 ID: AzRXbHwi9h
28 2023/02/12(日) 14:37:09 ID: XO78Iy5yvy
29 2023/02/12(日) 14:40:18 ID: bmd5++GGTH
具体的な反論0で「屁理屈だー」「ギャオオオオン!ギャオオオオオオン!!」と喚いてるだけの人達が3人もいるという救いがたい状態よりはサブ垢の3連書き込みと考えた方がマシって状態だねぇ。前者だとしたら日本軍のインドネシア軍政を否定する人達は3人もいても反論出来ずに「この程度」ってことだからなぁ……
せめてもう少し書き込み時間をずらすくらいの努力はすれば良いのに……自演のために長時間を費やすってのも無駄な努力だとも思うけれど
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31 ななしのよっしん
2023/05/12(金) 08:51:32 ID: AzRXbHwi9h
上でも何回か言われてるけど大東亜政略指導大綱を読もうね
戦後にインドネシアは日本領にするというのが規定路線なんで現地民を訓練したのは戦争協力だけの意図じゃないと推論を述べたってそれは君の妄想でしかないんだ
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32 名無し
2023/10/26(木) 18:40:33 ID: QdRLFS9/wI
えらく日本に都合のいいように書いてるなぁ(笑)

アジアの開放! 大東亜共栄圏!ってのを
本気で真に受けた 一部の軍人はいたとしても
大陣営の本音は自分たちに都合よく動く 傀儡国家を
作りたいってのが本音だろ。
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33 ななしのよっしん
2024/04/27(土) 15:07:24 ID: fINewJIfU6
>>sm43709399exit_nicovideo
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34 ななしのよっしん
2026/02/02(月) 15:47:59 ID: K590Q9q+lQ
日本軍政は「植民地支配」 歴史書改訂、より否定的に―インドネシア
https://www.jiji.com/jc/article?k=2026020100242&g=intexit
>>インドネシア語における「占領」には、残酷な意味だけでなく前向きな響きもある。一方、「植民地支配」には「残酷な意味合いしかない」
>>用語の変更は「インドネシアの独立は誰かの『善意』により与えられたものではなく、長い不正義の経験から生まれた」というプラボウォ氏の歴史観と合致
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