サーアイヴァー(Sir Ivor)とは、1965年生まれのアメリカ生産・アイルランド調教の競走馬である。
概要
父Sir Gaylord 母Attica 母父Mr. Troubleという血統。
父Sir Gaylordは18戦10勝でケンタッキーダービーの直前に故障して引退した。サーアイヴァーが誕生したときにはまだ種牡馬としての評価が出ていなかった。
母Atticaは34戦5勝の中級馬という評価。
母父Mr. TroubleはブルーグラスS優勝など41戦4勝。
サーアイヴァーは若駒のころは背は高いもののひょろっとしてあまり見栄えのしない馬だったが、1歳時にクレイボーン牧場のハンコック氏に4万2000ドルとそれなりの値段で落札され(馬主はレイモンド・ゲスト氏)、ケンタッキーで訓致を済ませてから、アイルランドのヴィンセント・オブライエン厩舎に送り届けられた。
なお、サーアイヴァーの名前の由来はゲスト氏の祖父であるアイヴァー卿から取られた。
2歳時(1967年)
サーアイヴァーはアイリッシュダービーの開催日のタイロスSでリアム・ウォード騎手鞍上でデビューするが、6着に敗れた。しかしこの1戦で競馬を覚えたようで、3週間後のプロペイショナーズSでクビ差勝利した。続く9月のアイルランド2歳王者決定戦であるナショナルS(現在ではヴィンセント・オブライエンSに改称)では3馬身差で楽勝した。
その後フランスに遠征し、グランクリテリウム(現在はジャン・リュック・ラガルデール賞に改称)に出走し、このレースから名手だが性格に難があることで知られるレスター・ピゴットに乗り替わった。このレースでは後方からになったが直線で追い出すと一気に加速し3馬身差で優勝した。
サーアイヴァーは冬には温かい気候であるイタリアに移され、ピサの斜塔近くのバルバリチナトレーニングセンターで休養をとることになった。しかし輸送中に怪我したところが腫れあがって3週間ほど運動することができなかった。まだ早い時期だったので、春までには完治することができた。
3歳時(1968年)
4月にはアスコットの2000ギニートライアルから始動すると、重馬場にやや足をとられながらも直線で追い上げて半馬身差で勝利した。この後一度アイルランドに戻って再調整が行われた。
本番の2000ギニーステークスではピゴット騎手がここまで無敗であるもう1頭のお手馬Petingoとどちらを選択するか注目されたが、ピゴット騎手はサーアイヴァーを選択した。これによってサーアイヴァーは1番人気に支持された。
レースではSo Blessed(*ソーブレスド・のちにジュライCやナンソープSなどを優勝)が逃げ、3番人気のConnaughtが2番手、Petingoが3番手に先行したが、ピゴット騎手はサーアイヴァーを最後方で我慢させた。Petingoが一度は先頭に立つがサーアイヴァーが猛追し1馬身半差交わしてゴールした。なおこのレースでオブライエン調教師はイギリスクラシックの5競走をすべて制覇した。
ダービーステークスではFirst Rate Pirateがペースを作り、サーアイヴァーはまたも後方でレースを進めた。レースはスローペースで進められ、直線でConnaughtが抜け出したがサーアイヴァーは大外から猛追し、同馬に1馬身半差をつけてゴールした。
アイリッシュダービーではピゴット騎手はRibero(*リベロ)に騎乗が決まっていたためウォード騎手になったが、結果はそのRiberoに2馬身差をつけられ2着に敗れるという番狂わせとなった。
鞍上がピゴット騎手に戻ったエクリプスステークスでは前年の2000ギニー・ダービー馬Royal Palaceとの対戦となったが、Royal PalaceとTaj Dewanをとらえ切れず3着に敗れた。
歯車が狂ったと感じた陣営は距離不安もあってセントレジャー(まだNijinskyの前でそれほど格落ちしていなかった)を回避し、凱旋門賞を目標として休養を取らせた。
凱旋門賞のステップレースとして1週間前のロンシャンのアンリ・デラマール賞に出走したが1/2馬身差で2着に敗れた。
本番の凱旋門賞ではLuthier(リュティエ・のちの大種牡馬)がペースを作り、サーアイヴァーは先頭集団につけた。直線でVaguely Noble(ヴェイグリーノーブル・これものちの大種牡馬)が抜け出すとサーアイヴァーも追撃するが、Vaguely Nobleの足は止まらず3馬身差をつけられて2着に敗れた。
2週間後のニューマーケットのチャンピオンSでは本来の走りを取り戻し後方から追い込み、2馬身半差で勝利した。
さらに1ヶ月後にはPapyrus以来45年ぶりに現役英国ダービー馬としてアメリカに渡り、ワシントンDCインターナショナルに出走した。日本のタケシバオーがペースを作り、サーアイヴァーはいつものように後方でレースを進めると、タケシバオーの足が止まりCzar Alexanderが抜け出したところでいつものように追い込み、Czar Alexanderを3/4馬身差捕らえて優勝した。Papyrusは負けているので、英国ダービー馬がアメリカのレースに優勝したことは初の快挙となった。
種牡馬として
サーアイヴァーは一度アイルランドに戻り1969~1970年の2年間供用された。さらにまたアメリカに渡ってクレイボーン牧場で種牡馬として活躍した。産駒は牝馬の活躍が多かったが、アイルランドに残した牡馬の産駒で競走馬としてはあまり活躍しなかったSir Tristramがオセアニアに渡って6度のオーストラリアリーディングサイヤーになるなど種牡馬として大活躍し、Northern Dancerの産駒GI勝利数を更新した。
血統表
Sir Gaylord 1959 黒鹿毛 |
Turn-to 1951 鹿毛 |
Royal Charger | Nearco |
Sun Princess | |||
Source Sucree | Admiral Drake | ||
Lavendula | |||
Somethingroyal 1952 鹿毛 |
Princequillo | Prince Rose | |
Cosquilla | |||
Imperatrice | Caruso | ||
Cinquepace | |||
Attica 1953 栗毛 FNo.8-g |
Mr. Trouble 1947 栗毛 |
Mahmoud | Blenheim |
Mah Mahal | |||
Motto | Sir Gallahad III | ||
Maxima | |||
Athenia 1943 黒鹿毛 |
Pharamond | Phalaris | |
Selene | |||
Salaminia | Man o'War | ||
Alcibiades | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Pharos 5×5(6.25%)、Plucky Liege 5×5(6.25%)
主な産駒
1971年産
- Sir Tristram (牡 母 Isolt 母父 Round Table)
1972年産
- Fascinating Girl (牝 母 Windy Miss 母父 Windy City)
- Ivanjica (牝 母 Astuce 母父 Vieux Manoir)
- Miss Toshiba (牝 母 Royal Warrant 母父 Hill Prince)
1973年産
1974年産
1975年産
1976年産
1979年産
1982年産
1983年産
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関連項目
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