バローネターフとは、1972年生まれの日本の元競走馬、種牡馬である。史上初めての中山大障害5勝、年度表彰の最優秀障害馬3度受賞など、当時の障害競走の記録を数多く塗り替えた、昭和を代表する名ジャンパー。
主な勝ち鞍
1977年:中山大障害(春)、中山大障害(秋)、東京障害特別(春)、東京障害特別(秋)
1978年:中山大障害(秋)
1979年:中山大障害(春)、中山大障害(秋)
1977年優駿賞最優秀障害馬
1978年優駿賞最優秀障害馬
1979年優駿賞最優秀障害馬
生涯
飛越の始まり
社台ファーム白老で1972年6月8日に生まれたバローネターフ。兄や姉はすでに、1971年度の最優秀障害馬インターヒカリをはじめ、勝ち上がりを見せており、それなりに期待されて1973年矢野幸夫厩舎へ入厩した。
ところが、デビュー戦は1位から1.5秒離されて入線。以後、5戦して勝てないまま旧3歳シーズンを終える。翌1974年には幸夫氏の婿養子であった矢野進氏が新しく厩舎を開業したので、そちらへ転厩したが、結果が出ないのは、同様であった。
ところで、先に述べた通り、兄のインターヒカリは障害競走で結果を残していた。もともと、進氏も動きから障害の適性があると思っていたようで、バローネターフにも障害の調教が開始された。
走らせてみると障害試験は余裕で突破。障害デビューも勝利で飾り、その後勝ち負けを繰り返しながらオープンへと昇格。重賞こそ出ていなかったが、暮れの中山大障害へと出走する。しかし、ここは役者不足か、当時の障害王者グランドマーチスがゴール板を通過した5馬身後に入線。されど兄インターヒカリが止まった大竹柵を一発で越え、2着となったことで翌年の活躍に期待が高まったが…。
この馬は一度、春に裂蹄を起こしていたのだが、それが再発。出走を続ける中で、挫石も発症し1976年はついに一度も勝てずに終わってしまう。
障害王者へ
1977年にふたたび裂蹄を発症して3か月の休養の後、中山の障害ステークスに出走。ここで、2着に9馬身差をつける圧勝で復活。中山大障害(春)では、2着のソネラオーに2.3秒という大差をつけて重賞初制覇。東京障害特別(春)でも堂々押し切り勝ち。
でも、秋の初戦は敗退。次戦もオープン戦で活躍していた「メジロ牧場の救世主」メジロアシガラに敗北。
重賞では、本気出すと言ったかは知らないが、東京障害特別(秋)ではまた完勝。中山大障害(秋)でもファンドリナイロに1.8秒の大差をつけて春秋の大障害、関東の障害重賞を独占し、堂々障害王者に君臨した。
斤量との戦い
さて、このころの大障害勝馬には斤量の付き方が通常とは少し違っていた。「大障害1勝につき2kg」の斤量が付くハンデである。以前は、「大障害1着馬は2kg増」とされていたのだが、前王者グランドマーチスが余りにも勝ち過ぎたか、このように改悪改訂されていた。
更に、間の悪いことに当時美浦トレセンが開場したことで、中山競馬場から競走馬が大幅に減少していた。このことで、バローネターフは調教がうまく詰めず体重が増加。1978年春の中山大障害で、唯一62kgを背負ったバローネターフは斤量58kgのファンドリナイロに敗れてしまうのである。
バローネターフは衰えた?そんなことはなかった。調教しなおしたバローネターフは次走中山の障害ステークスを大差勝ちすると、暮れの中山大障害ではファンドリナイロが着外に沈む中、2着ホワイトカイウンに大差をつけて、この年も最優秀障害馬に選出されるのである。
記録を越えて
明けて1979年には、再び挫石のせいで初戦を出走取消となったバローネターフだったが、春の中山大障害では、稍重の馬場の中、2着に2.5秒差のレコードでフジノオー、グランドマーチスに並ぶ大障害4勝を記録する。
5勝目を目指して調教を積むバローネターフだったが、困った問題が発生した。勝ち過ぎたバローネターフは最早、障害オープンでは70kgという酷量でしか出走できないと言うのである。当時は大競走前には一戦叩いて調子をみてから調教を積むのが常識である。病気やけがなどの理由もなく、ぶっつけで出すという事例は少なかった。
困った陣営は奇策を打つ。バローネターフをまだ3200mだった天皇賞(秋)に出走させるというのである。えっ、出られるの?と思った方。現代なら確かに出られない。しかし、当時は出走賞金額は平地と障害は分けられていなかった。バローネターフが障害で積み上げた賞金はダービー馬サクラショウリやグランプリホースであるカネミノブにも匹敵していたのである。仮にも当時古馬最大の大競走であった天皇賞を叩きに使うなという声はあったようであるが、バローネターフは平地でも勝負になると考えていた矢野調教師は敢然と出走。事実、1番人気メジロイーグルに先着する11着で、天皇賞を終えるのである。
さて、天皇賞を叩きに使うという前代未聞の出来事の後、バローネターフ陣営は着々と準備していく。フジノオーの調教師からフジノオーが使っていた重たい鞍を借りて66kgの斤量を背負って中山大障害に出走すると、グランドマーチスが敗れた66kgの斤量を克服し2着に4馬身差付けてゴールへと突っ込んだ。大障害5勝は史上初。当然、同年の最優秀障害馬受賞。
その後
翌年、大障害6勝目を目指したバローネターフだったが、骨膜炎を発症し引退。無事であれば出ていたであろう、春の大障害の昼休みにファンからの声援を受けて引退した。
5度の大障害制覇、4度の大障害大差勝利、3年連続となる最優秀障害馬は史上初であり、フジノオーやグランドマーチスにも匹敵する名馬であったと言える。惜しむらくは足元の弱さか、最後の2年は年に3、4回の出走と当時としてはかなり少ない出走である。このため、獲得賞金額で当時平地トップのグリーングラスの記録を更新したものの、中央競馬総合1位のグランドマーチスを抜かすことはかなわなかった。
引退後は、功労馬としての意味合いが強いとはいえ、社台スタリオンステーションで種牡馬をし、後に岩手県遠野市に移って乗馬用種牡馬として活動した。1994年11月29日に死亡。22歳没。
彼の後は、長らく春秋大障害の勝利数は5勝はおろか、3勝となるポレールが最多であった。が、2019年に100年に一度の障害馬がついに彼の記録を越えることとなる。
血統表
*バウンティアス Bounteous 1958 鹿毛 |
Rockefella 1941 黒鹿毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Rockfel | Felstead | ||
Rockliffe | |||
Marie Elizabeth 1948 栗毛 |
Mazarin | Mieuxce | |
Boiarinia | |||
Miss Honor | Mr.Jinks | ||
Bayora | |||
キタホマレ 1957 鹿毛 FNo.4-c |
ハクリヨウ 1950 鹿毛 |
*プリメロ Primero |
Blandford |
Athasi | |||
第四バッカナムビューチー | *ダイオライト | ||
バッカナムビューチー | |||
*サーミドール Thermidor 1949 鹿毛 |
Mid-Day Sun | Solario | |
Bride of Allan | |||
Arisha | Rustom Pasha | ||
Arria | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Gainsborough 4×5(9.38%)
関連動画
バローネターフが勝った動画は見つからなかったので、2着だった75年の大障害を紹介。最終直線で追い上げてくる馬に注目。
関連リンク
- バローネターフ | 競走馬データ - netkeiba.com
- 父系馬鹿:バローネターフ - 私的顕彰馬 - livedoor Blog(ブログ)
- 【8】中山大障害5勝バローネターフとの出会い | 競馬ニュース・特集なら東スポ競馬
関連項目
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