北岬沖海戦とは、第二次世界大戦中の1943年12月26日に生起したドイツ海軍の巡洋戦艦シャルンホルストvsイギリス艦隊の戦闘である。航空機を使用しない最後の海戦であり、ドイツ側はシャルンホルストを失った。北岬とはノルウェー北端にあるノースケープを指す。
概要
背景
1942年12月31日のバレンツ海海戦に敗れて以降、ドイツ海軍の大型艦は港内で燻るだけの日々を送っていた。かつての栄光は失われ、ヒトラー総統からの信頼も失った大型艦はうなだれるように係留されている。開戦時から戦い続け、ノルウェー沖海戦、ベルリン作戦、ツェルベルス作戦、シチリア作戦と常勝を誇った巡洋戦艦シャルンホルストもその1隻だった。彼は今、ドイツ占領下ノルウェーの北部――アルテンフィヨルドに腰を下ろしている。ノルウェー方面に唯一残った大型艦シャルンホルストをどのように投入するかドイツ海軍内でも検討されたが、積極的に投入するという意見は見受けられなかった。北極圏の海は冬が近づくと日照時間が短くなる上、天候も悪くなる事から砲撃の命中率が下がってしまう。つまるところ船団攻撃に向かなかった。海軍内からも持て余されるシャルンホルストの居場所はこの地球上には無いように見えた。
1943年12月19日、総統大本営にて月例戦況会議が開かれた。東部戦線の戦況が急速に悪化している事、イギリスが援ソ船団の運航を復活させた事を懸念するヒトラー総統に対し、海軍のカール・デーニッツ元帥は「海軍としても力を貸したい」と申し出、アルテンフィヨルドにいるシャルンホルストと生き残っている駆逐艦5隻による船団攻撃を進言した。大型艦に幻滅と失望の念しか抱いていないヒトラー総統は賛成も反対もしなかったが、熱心なデーニッツ元帥の気迫に押されて作戦を認可。デーニッツ元帥は港内に係留されるだけの失意の日々を送るシャルンホルストに同情し、何とかして戦いの機会を与えたかったのだ。
そして戦闘の機会はすぐにやってきた。12月22日、ドイツ軍の偵察機がムルマンスクへ向かうJW-55B船団を発見。真冬の北極海は昼が短く、大時化のためドイツ海軍司令部は出撃をためらったが、12月25日14時15分にデーニッツ元帥はオストフロント(東部戦線)作戦を発動して攻撃を命令。シャルンホルストに約3ヶ月ぶりの出番が回って来た。束縛する鎖を断ち切って純白の巨人がゆっくりと体を起こす。北緯70度の地に太陽は昇らないが、再び栄光を掴めるかもしれない希望の光が差していた。
極北の海に佇む白亜の墓標
1943年12月25日19時、シャルンホルストは第4駆逐艦戦隊(Z29、Z30、Z33、Z34、Z38)を率いてアルテンフィヨルドを出撃。霧と氷が支配する魔境に足を踏み入れて北上する。深夜、艦隊司令のエーリヒ・パイ少将は北方部隊司令部と通信するため無線封鎖を破るのだが、これが原因でイギリス軍にシャルンホルストの出撃を知られてしまう。またパイ少将は駆逐艦戦隊の指揮経験はあるものの大型艦はシャルンホルストが初であり、経験未熟と言えた。
12月26日の天候は激しく荒れ狂い、偵察を担うドイツ空軍機の出撃が不可能になってしまったため、ドイツ艦隊は空からの情報提供を受けられずJW-55B船団の位置が分からなくなる(Uボートは発見出来ていたが報告が届かなかった)。午前7時30分、南西の方角に進むシャルンホルストはJW-55B船団を索敵するため、パイ少将は前方に駆逐艦を分散配置する。第4駆逐艦戦隊司令のヨハネセン大佐は分散配置に難色を示したが、命令通りに展開。だが第4駆逐艦戦隊は荒波に揉まれ、速力10ノットにまで下がってしまった。日照に乏しい海は薄暗く、海も荒れていて油断すると敵と出会う前に足元をすくわれかねないが、幸運にも荒波はシャルンホルストの艦尾から押し寄せていたため押される形で25ノットの高速を発揮する事が出来た。シャルンホルストでは逆探知を恐れてレーダーを切っていたが、この判断が致命的なミスとなってしまう。
午前8時40分、吹雪の中から敵巡洋艦ベルファストにレーダー探知され、午前9時21分にベルファストとサフォークから砲撃を受ける。こうして北岬沖海戦が幕を開けた。5分後、距離1万2000mから放たれた砲弾がシャルンホルストのレーダー装置を破壊して目視での戦闘を強いられる。闇夜の中で目視出来るものと言えばマズルフラッシュ(発砲時の閃光)くらいであり、悪い事に相対する敵艦2隻は閃光を抑える技術を使っていたため命中弾を与えるのは至難の業と言えた。不意を突かれたもののシャルンホルストは即座に応戦し、巡洋戦艦の持ち味である快足で離脱を図る。南へ転舵したように見せかけて突如北へ急回頭する意表を突いた回避運動で敵艦2隻を見事突き放し、南南西へ向けて走った。午後12時5分に再度捕捉されて約20分後に砲撃戦が始まるも、サフォークに2発の命中弾を与えて主砲塔とレーダーを破壊し、無事振り切る。こうして第1ラウンドはシャルンホルストの勝利に終わったのだが…。
だがシャルンホルストは最悪の罠に自ら飛び込んでしまう。逃げた先には船団最大の火力を持つ敵戦艦デューク・オブ・ヨークが仁王立ちしていたのである。
この先に待ち受ける破滅の未来を感じ取ったのか、14時18分にシャルンホルストは第4駆逐艦戦隊にノルウェーへ戻るよう命令。たった1隻となった純白の巨艦はかつての栄誉を取り戻すため無数の敵護衛艦艇群へ突撃していく。シャルンホルストの背後からは敵巡洋艦サフォークとシェフィールドが追跡していたが、2隻ともエンジントラブルに見舞われて脱落し、ベルファストが単艦で追跡任務を引き継ぐ。
16時17分、デューク・オブ・ヨークに搭載されたレーダーが4万2000m先のシャルンホルストを捕捉。16時48分にベルファストから照明弾が上げられて薄暗い海域が昼間のように明るく照らし出された。煌々と浮かび上がった白亜の大型艦シャルンホルストに向け、16時50分にデューク・オブ・ヨークが距離1万1000mから砲撃する。敵駆逐艦スコーピオンの乗組員は「真っ暗闇の中で、戦艦の砲火のみが遠くで見えていた」と証言しており、レーダーを失っているシャルンホルストが如何に不利な状況だったかを如実に物語っている。状況だけではない。艦の性能、レーダー、数、全ての面でデューク・オブ・ヨークが圧倒しているためシャルンホルストの勝機は一筋のか細い光に過ぎなかった。
デューク・オブ・ヨークと敵軽巡ジャマイカから同時に砲撃を受ける中、シャルンホルストは北へ舳先を向けて離脱しながら一斉射で決死の抵抗を行う。敵戦艦から飛来した砲弾が前部砲塔の回転ギアを潰して爆発し、火の手が2番主砲塔に及びそうになったため、弾薬庫に注水して誘爆の危険性を排除する。しかし注水の代償に火力が3分の1に低下した。北方には敵艦ノーフォークとベルファストが待ち伏せており、砲撃を受けるや否や31ノットの高速で東へ転舵。17時24分、パイ少将は「敵の大部隊に囲まれている」とベルリンに報告した。17時27分に敵の射程圏外へ離脱するも、18時20分にデュークの砲弾が2番主砲塔と1号缶室に直撃して破砕される。満身創痍になりながらもシャルンホルストは勇敢に反撃し、2発の砲弾がデュークのマストをもぎ取る。まさかの反撃に驚いた敵戦艦は一時砲撃を中止した。敵が怯んだ隙にシャルンホルストは最後の通信をヒトラー総統へ送る。
18時30分頃には距離2万mまで引き離したが、デューク・オブ・ヨークが放った35.6cm主砲弾1発が舷側装甲帯上方の厚さ45mm舷側装甲を貫通し、弱点の垂直装甲を貫通して炸裂。主缶を破壊されて最大速力が20ノットに低下してしまう。シャルンホルスト唯一の強みである快足が失われた事で駆逐艦や巡洋艦に追いつかれてしまい、敵艦多数から滅多打ちにされる。瀕死の重傷を負いながらもシャルンホルストは副砲で散発的に、そして振り絞るように応戦し、サベージ、ソーマレズ、スコーピオン、ストルトからなる敵駆逐艦群の接近を防ぎ続けていたが、弾幕を掻い潜った敵駆逐艦から4本の魚雷をぶち込まれて喫水線下に大規模な浸水被害が発生。それでもシャルンホルストの戦意は衰えなかった。ソーマレズに副砲弾数発を叩き込んで乗員11名戦死、11名負傷の被害を与えて戦線離脱に追いやる。手負いであってもシャルンホルストは敵駆逐艦の手に余るものだったのだ。
しかし19時1分、後方よりデューク・オブ・ヨークとジャマイカが追いついた事でシャルンホルストの命運は窮まった。デュークは包囲中の駆逐艦群に着弾観測を依頼して下がらせると自慢の砲火でシャルンホルストの白い艦体を血で染めていく。15分間に及ぶ砲撃により最後まで砲声を上げていた28cm砲が沈黙。戦闘能力を完全に喪失して海に浮かぶ鉄塊と化したシャルンホルストを敵艦隊が取り囲み、処刑宣告代わりの集中砲火を全方向から浴びる。19時30分頃までは僅か5ノットで這うように動いていたシャルンホルストだったが、艦体は裂け、装甲は黒焦げ、浮いているのが不思議なくらいの大打撃を受け――19時45分に弾薬庫への誘爆が原因と思われる大爆発を引き起こして沈没した。空に掲げられたスクリューは未だに回転していたという。35.6cm砲弾14発、巡洋艦の主砲弾13発、駆逐艦の主砲弾多数、魚雷11本を撃ち込まれたシャルンホルストの壮絶なる最期であった。
北極海に投げ出された生存者1968名のうち助かったのは、イギリス艦隊に救助された僅か36名だけだった。最後まで勇敢に戦った乗組員に対してヒトラー総統は何ら同情の念を見せなかったという。シャルンホルストが退場した事でノルウェー方面の敵軍の関心事は極北の王――戦艦ティルピッツただ1隻となった。
ちなみに北岬沖海戦は航空機無しで行われた最後の海戦であり、戦艦の主砲同士が砲火を交えた最後から2番目の戦闘となった(最後はスリガオ海峡海戦)。
関連項目
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