概要
北条時頼の息子で、端的に言えば北条時宗の兄。粛々と六波羅探題を務めていたはずが、「二月騒動」で粛清された。通称は相模三郎。
史実の北条時輔
康元元年(1256年)に元服し、足利利氏から偏諱を与えられ北条時利と名乗った。その後、正嘉2年(1258年)に小山長村の娘をめとったとのことで、文応元年(1260年)1月1日の『吾妻鏡』に「時輔」とあるのでこの頃に改名したと思われるのだが、実はそれ以後も『吾妻鏡』に時利と書かれるので、よくわからない。
弘長元年(1261年)に、父・北条時頼の命令で、兄弟の序列が北条時宗、北条宗政、北条時輔の順になり、完全に庶長子として、嫡子の北条時宗どころか北条宗政よりも下に位置付けられた。
文永元年(1264年)、六波羅探題南方に任じられて上洛。翌年には従五位下式部丞に叙任され、以後も治部大輔→式部大輔とステップアップしていく。
ところが、文永5年(1268年)に北条時宗が執権に就任した時から雲行きが怪しくなり、文永9年(1272年)に鎌倉で北条時章(名越時章)、北条教時(名越教時)ら名越流北条氏のタカ派が誅殺されたのとほぼ同じタイミングに、六波羅探題北方の北条義宗(赤橋義宗)に攻撃され、敗死した。『鎌倉北条氏人名辞典』では、あくまでも一説として吉野に逃げた可能性を述べているが、典拠は特に示されていない(ただし、おそらく『保暦間記』が出典の話である)。
この二月騒動は、要するに元寇に前後して、北条時宗や北条政村ら幕府のリーダーたちが、宝治合戦や宮騒動以来の鎌倉幕府の不穏分子の結集核であった名越流北条氏を叩きのめしたものである。のだが、なぜか、一見無関係な北条時宗の兄・北条時輔もどさくさ紛れに殺されているのである。
このため、北条時輔も弟への不満から名越流北条氏に接近していたともいわれているのだが、実のところ傍証であって、典拠は特にない。ただし、正直、執権・北条時宗の兄というのは、何をどう考えても何かあった時に面倒なことになる存在なのは疑いないことなので、実のところ彼が殺されるのは、ある程度避けられない運命ではあったのだろう。
大河ドラマ『北条時宗』にて
そんな正直史実ではよくわからない存在である北条時輔だったのだが、大河ドラマ『北条時宗』ではかなり盛られ、第二の主人公ともいうべき存在と化した。
この大河ドラマでは、北条時宗と対比的な性格に描かれ、次第に政争が繰り広げていく中で、父親の北条時頼から、北条長時(赤橋長時)と一緒に殺すよう北条時宗に遺言が残されるものの、北条時宗は兄を思い逃がす。さらに北条時宗に送られた六波羅では近衛基平と親睦を深めるが、近衛基平の切腹を見届ける(この事件自体、大河ドラマの創作)。
その後、次第に北条時宗と北条時輔の溝が深まり、ついに二月騒動に至るが、なんと北条時輔は吉野に逃げ生き延びるという史実バリアを突破する展開となる。こうして、日本とモンゴルどちらにも顔が利くマージナルな存在になった北条時輔は元寇のさなかあちこち渡り歩くも、ついには北条時宗の最期を看取り、和解。そのまま弟との約束をかなえるために大陸に渡り、その後は杳として知れないという結末である。
ということなので、実在の人物が史実より10年以上生き残るという、昨今の大河ドラマではなかなかない展開なのだが、こうしたかなり盛られまくった裏の主人公としての活躍故に、史実的にはそこまでなにかやったわけではないのだが、ファンも多い人物となっている。
関連項目
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