『唯一者とその所有』(1844)とはドイツの哲学者マックス・シュティルナーによる哲学論文である。
概要
ヘーゲル左派[1]のシュティルナーは本書の中で、徹底した唯名論[1]と個人主義の立場からキリスト教、国粋主義(ナショナリズム)、伝統的道徳を批判した。さらには人道主義、効用主義、自由主義、当時興隆を誇っていた社会主義運動を糾弾し、その代替として善悪を超越(しかし本質的には非道徳的でも反社会的でもない)したエゴイズムを提唱した。『唯一者とその所有』は後世の無政府主義(アナーキズム)、実存主義、虚無主義、ポストモダンの発展に大きな影響を与えたと考えられている。
[1]フリードリヒ・ヘーゲルの哲学を批判的に継承した哲学者の総称。青年ヘーゲル派とも。他にフォイエルバッハやマルクスもこの派閥。
[2]存在とは個々の存在だけに認められるものであり、人間一般、人類などという全体的なものは便宜的に名前をつけただけという考え。
パート1
『唯一者とその所有』の冒頭は人間の一生(子供時代、青年時代、大人時代)に基づいた三部構成の弁証法から始まる(→弁証法)。まず実在的な子ども段階では、彼は彼の外にある物質の力によって抑圧されている。しかし年齢を重ね、子どもが青年になった時、彼は精神の自己発見によって外部からの押さえつけを克服するようになっていく。しかしながら実在から観念の段階に移行すると、今度は外部でなく彼の内部にある良心、理性、妄執や固定観念(宗教、国粋主義、その他の各種イデオロギー)の奴隷になる。そして最終段階では唯一者(エゴイスト)は完全に大人となり内部、外部のあらゆる制約から解き放たれて個人として自己決定する力を獲得する。
本書を通じてシュティルナーは人類史(古代から現代、そして唯一者の未来へ)に弁証法の手法を採用している。パート1では前者二つの社会(古代と現代)なかんずく宗教的観念に囚われた現代社会への批評を含んでいる。シュティルナーの分析は「現代人は、過去の人類よりも進歩的で自由である」という考えとは真逆のものである。シュティルナーは現代社会をキリスト教や国民国家のイデオロギーなどの観念に抑圧されたものだと見ていた。
シュティルナーの現代批評の中心には宗教改革が踏まえられている。彼によれば宗教改革は肉体的感覚と精神的感覚の境界を曖昧にすることによって、宗教の領域を個人にまで拡大した(例えば宗教改革によって聖職者は結婚を許された)。また宗教改革は生来の欲望の間にある内在的相克と、それと同時に宗教的良心を生み出すことによって宗教思想を強化・集中させ、宗教をより個人的なものにした。こうして宗教改革はヨーロッパ人をますます精神的イデオロギーの奴隷にする役割を果たした。
シュティルナーの進歩史観への批評はヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)特にルートヴィッヒ・フォイエルバッハの哲学への攻撃を一部に含んでいた。シュティルナーはフォイエルバッハ哲学を単なる宗教的思考の延長だとみなしていた。フォイエルバッハは「キリスト教徒は人間の存在を取り違え、全能の神の中に人間存在を射影している」と論じた(→『キリスト教の本質』)。しかしシュティルナーによればフォイエルバッハ哲学は神を排除するところまでは良いとしてもキリスト教の特性を無瑕疵のまま残してしまった。フォイエルバッハは人間そのものをとりあげ人道主義の規範に基づいて人間を神格化した。シュティルナーからすればこれは個人にとっての支配者がキリストから別の物に変わっただけでいまだに宗教のままなのだ。
シュティルナーは他のヘーゲル左派に対しても、人間の外部に存在しそれを獲得するために努力が必要な人間本質の概念を定めてしまったことを批判した。例えばアーノルド・ルーゲら自由主義者たちが市民権の中に人間本質を、モーゼス・ヘスら社会自由主義者が労働の中に人間本質を見出したとき、彼らはみな人間本質を固定化し神格化するという似たような過ちを犯してしまったのである。シュティルナーからすれば人間本質は人間がいかにいきるべきかの規定を与えはしないのである。彼の目指すべきものは本質的で普遍的な目的の概念から個人を解き放つことにあった。
パート2
第二部では哲学的エゴイズムを通じて、現代社会の観念的束縛から解き放たれる可能性を見ていく。シュティルナーのエゴイズムとは彼が所有(アイゲンハイト、独:Eigenheit。英語ではOwnness所有、autonomy自律)と呼ぶものである。この所有とは人類の個人的、歴史的発展のより進んだ段階の特徴である。それは彼の世界観の基礎にあるものであった。
シュティルナーのエゴイズムとは日本語の一般的用法である心理学的エゴイズム(利己主義)とは異なる概念である。またシュティルナーは狭い意味での自己中心的な倫理的エゴイズムを支持していなかった。例えばシュティルナーは物質的欲望のみを追い求めた欲深い個人の行動を取り下げている。彼にとって、そのような物質的欲望の追求は個人を単一的な目的への奴隷にさせ、自律の考えとは相容れないものであった。
つまりシュティルナーのいう所有の概念とは個人の行動があらゆる内在、外在の制約に縛られない自己所有の形態であった。
自律を手に入れるために人は自らをイデオロギー、宗教、倫理、他人、果ては自らの欲望などあらゆる力から離れさせなければいけない。シュティルナーからすると所有(アイゲンハイト)は道徳的、政治的、家庭的な義務とは交わらないものであった。
「家庭を築くことは人を縛ることである」
シュティルナーの無政府主義者への影響力は、このような国家の正当性の否定を根拠にしている。シュティルナーは「自律する者」と「国家」は相反するものであり、その中にあっては恒久の平穏は決して訪れることはないとまでいう。あらゆる国家体制は専制主義が個人の自律性を上回るゆえに排除される。仮に満場一致での民主主義的決定でさえシュティルナーなのいう唯一者を縛ることはない。というのは満場一致であってもその決定は過去の意思をその時点で固定させ、国民を過去の欲望と決定の奴隷にしてしまうからである。シュティルナーは過去の行動が自律を制約しうることを許さず、約束は守らずとも良いという。彼は唯一者は「偽りの英雄主義」を求めるべきであると断じた。
イデオロギーと制度の批判ののちにシュティルナーはエゴイスト連合という新しい社会を示する。これらの連合は互いの価値観を干渉しない自己決定を行う個人たちの一時的な集合体であり、連合における唯一の善は各個人の自己利益のみであるとされる。シュティルナーは「愛」のような人間関係は新しい唯一者の未来に繋がる考えていた。しかしこの新しい種の「愛」は唯一者が自主性を犠牲にすることもなく愛が人を幸せにする限りのものとされる。
関連項目
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