斎藤義龍(さいとう・よしたつ 1527~1561)とは、美濃国斎藤氏第二代当主で美濃国一色氏初代当主の戦国大名である。
概要
母は道三側室の深芳野(義龍を語る上で外せない人物なのでこれまた後述)
子に暗愚扱いされてる斎藤龍興がいる
隠居していた父・道三を討ち果たし、権力奪取の経緯ゆえに基盤が不安定だった美濃斎藤氏を戦国大名として安定軌道に乗せた人物である。妹婿である尾張の織田信長と対立する中で急死する。
生涯
1527年に斎藤道三の嫡男として生まれる。元服時期は不明だが初名は利尚。「利」の字が入っている辺りから考えて、父が長井規秀から斎藤利政に改名した1538年以降だろうか。その後高政に改名、これも利政の「政」の字が入っている。
1554年には道三から家督を譲られたとされているが、この道三の隠居は江戸時代以降の軍記物で初めて出てくる話なので、信憑性が薄い(しかも仲が悪い癖に家族揃って稲葉山に住んでたと「信長公記」に書いてある)
1555年に叔父とされる長井道利と共謀して道三を追放。道三が可愛がってた弟2人は兜作りに定評のある日根野弘就に殺させた。
1556年には父・道三と長良川で対戦して討ち取った。これが長良川の戦いである。
1561年、35歳の若さで急死し、龍興(当時14歳)が家督を継いだ。
斎藤義龍は誰の子か
この話で鍵になるのは斎藤道三側室の深芳野である。深芳野は元美濃国の守護大名の土岐頼芸の愛妾だったため「道三が深芳野を下贈された際、実は既に頼芸の子を妊娠していて生まれたのが義龍」という噂がある。だが、父親が土岐頼芸であるという説が見られるのは江戸時代に編纂された家系譜からなので、信憑性は限りなくゼロに近い。
「義龍の父親が道三である」と当時の第三者・南近江の守護大名六角義賢が1560年に家臣に宛てた書状に書いているので、土岐氏落胤の噂は当時は存在しなかったのではないか、道三が義龍の父親であろう、と推測できるが本当の所は不明としか言いようが無い。
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ちなみに、母・深芳野の出自にも「稲葉一鉄の姉」と「丹後守護・一色義清の娘」の二つの説がある。ただ、一鉄の母も一色氏とされているので、どちらにしても一色氏の血を引いている可能性は高い。これが後述する一色氏の名乗りを許された根拠となっている。
ところで義龍は身長六尺五寸(197cm)もあったらしいが、これは誰の遺伝子なのだろう……。
(ちなみに江戸時代に編纂された『美濃国諸国系譜』によれば、母・深芳野は身長187cmと当時としてもかなりの長身だったため、母の遺伝子を強く受け継いでいるとも考えられる。)
道三と義龍の美濃国統治の違い
まず、斎藤道三は美濃国を下剋上で取ったお陰で反対勢力も多かったため、独断専行型のかなり強引な統治をしていた。
- ただし、土岐氏を完全に追い出して美濃統治が本格的に始まったのが1552年。それから4年も経たずに道三は義龍に殺されているので、統治能力云々は評価のし辛い部分があるが、とにかく領国経営はうまくいってなかったご様子。
一方の斎藤義龍の美濃国の統治はというと、父・道三のせいで色々と荒れた美濃国を復興する為、貫高制に基づいた安堵状を発行して所領問題を解決し、道三の独断政治と違い宿老による合議制の導入等をする事で、一気に戦国大名としての斎藤氏を築き上げて美濃国を安定に導いた。ただし息子が龍興だ。
こうした統治を評価されてか、あるいは義龍の外交活動の成果か、将軍・足利義輝から足利氏の支族である名門・一色氏を名乗ることを許され、斎藤から一色に改名。足利幕府相伴衆にも列せられた。
既存権力(守護土岐氏)を徹底的にブッ壊した道三、という過激でダークなイメージを和らげる事で、美濃国内のみならず、周辺諸大名への影響力も変化したと考えられる。事実この時期、名門守護大名・六角氏と同盟を結んでいる。
斎藤義龍と織田信長の関係
斎藤道三の娘の濃姫(帰蝶)が信長に嫁いでいるので親戚(義弟)なのだが、そんなのは関係ないとばかりに戦をやっている。悲しいけどこれ戦国時代なのよね。ただ、織田家の方は東に今川家という大きすぎる脅威があったため、斎藤家との戦いは義龍の生前は本格的なものには至らなかった(というかそんな余裕ない)。
義龍自身の戦国大名としての器量は、活動期間が短いとはいえ高いものであったと思われる。なにより道三時代より家中の統率がとれていることは大きかっただろう。父・道三も長良川の戦いで、これまで義龍を無能としていた評価は誤りであったと死の間際に認めたとされている。
またあまり知られていないが、義龍は信長が1559年に初めて上洛した時、火縄銃装備の手勢を派遣し、信長を狙撃して暗殺しようとしている。ただし失敗した模様。これは記録に残る日本初の火縄銃による狙撃である。
こうした状況が大きく変化するのは、1560年の桶狭間の戦いの後である。
東の今川の脅威が激減し、その直後の1561年に義龍は不幸にも急死してしまう。更に続く1562年には清洲同盟が結ばれて、織田家は東を気にすることなく、対斎藤家に集中する事が出来るようになった。そして1564年には浅井家と婚姻同盟を結ぶ念の入れよう。そんな訳でご存知の通り、1567年に信長によって美濃国は制圧された。
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補足
基本的に道三より戦闘能力は上。知略もそこまで低くはない。今のところ革新・天道が全盛期で、騎馬適正がS、織田の兵をガンガン溶かしまくる脅威のヒゲダルマ。しかし、やはり活動時間が短すぎるのが最大のネックである……。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 83 | 政治 | 73 | 魅力 | 88 | 野望 | 78 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 86 | 政治 | 70 | 魅力 | 79 | 野望 | 82 | 教養 | 66 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 88 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 71 | 政治 | 65 | 野望 | 82 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 168(A) | 智才 | 134(B) | 政才 | 140(B) | 魅力 | 85 | 野望 | 85 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 88 | 智謀 | 76 | 政治 | 65 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 69 | 政治 | 60 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 78 | 智謀 | 62 | 政治 | 52 | 野望 | 64 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 81 | 知略 | 67 | 政治 | 55 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 81 | 知略 | 67 | 政治 | 54 | 教養 | 58 | ||||||||
革新 | 統率 | 91 | 武勇 | 93 | 知略 | 75 | 政治 | 60 | ||||||||
天道 | 統率 | 91 | 武勇 | 93 | 知略 | 75 | 政治 | 60 | ||||||||
創造 | 統率 | 78 | 武勇 | 80 | 知略 | 69 | 政治 | 59 | ||||||||
大志 | 統率 | 77 | 武将 | 76 | 知略 | 69 | 内政 | 58 | 外政 | 65 |
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