朝鮮人待日本人六条は、明治八年(1875年)に朝鮮(いわゆる「李氏朝鮮」)に駐在していた日本公館の職員が耳にし、文を入手したという、「朝鮮人が日本人を扱う際の秘訣とされる6条の心得」というものである。この日本公館が残した公文書として記録に残っている[1] 。
この文章には署名が無いため、誰が記録したものなのかは明らかでない。しかし記録集の別ページに筆跡から明らかに同一人物が記載したと思われる文章が載っており、そちらは「五等書記生 山ノ城祐長」「同 浦瀬裕(「裕」の字の旁にはウかんむりあり)」と署名がある。(誰かに代筆させたものでなければ)この二名のどちらかが記録したものと思われる。
なお、その職員らがこの6条をどこから耳にし、どこから文を手に入れたのか、という情報ソースは明確には記されていない。ちなみに「文を手に入れて見せてくれた」として言及されている「住永友輔」という人物は同年の公文書に「七等書記生」として名が載っている。対馬藩の朝鮮通事出身で、明治五年(1872年)に対馬の厳原に開設された「厳原韓語学所」で助教をつとめた経験がある人物のようだ。
この部分を記録した人物は他にも伝聞による内容を記録しているが、明らかな誤りも含まれている。たとえば、4月16日に「清の皇帝が崩御されたため新帝が13歳で即位し、光緒と改元されたようだ。だが清から我が国への勅使の船は急に引き返したという。その理由は、新帝もまた崩御されたためと聞く」との内容が記載されている。こういったことを踏まえると、この6条についても正確性・信憑性については評価は難しい。
「現在もこの六条は韓国に伝えられていて日本人に対する態度の基本になっているのだ」という論調で、反韓・嫌韓の立場から引用されることもある。
現代語訳
4月12日 晴れ 51度(※訳註:華氏での気温か。摂氏では約11℃に相当)
かつて、朝鮮人が我々を扱う際に6条の秘訣があると耳にした。たまたま住永友輔が以下の文を入手して見せてくれたが、やはり聞いたとおりのものであった。
右元禄年
(※訳註:この部分の意味は不詳。「以上は元禄時代に記された」と言う意味か?
しかし朝鮮に伝わっていた文章であれば「元禄時代」と記されているのは不自然である。)
原文
四月十二日晴 五十一度 曽テ韓人我ヲ待ニ六條ノ秘訣アリト聞ケリ偶住永友輔左ノ文ヲ得テ出セリ果シテ其聞所ノモノナラン
朝鮮人待日本人六條
右元禄年
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関連項目
脚注
- *外務省. 公文別録・朝鮮始末・第三巻・明治六年~明治八年, p. 91. 国立公文書館アジア歴史資料センター, A03023629600.
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