町村信孝とは、北海道江別市出身(出生は静岡県沼津市)の政治家である。自由民主党所属。
衆議院議員(北海道5区・当選12回)、清和政策研究会(細田派)前会長、元・通産省官僚である。
経歴・役職等
- 1969年6月 東京大学経済学部卒業
- 1969年7月 通商産業省入省
- 1982年4月 通商産業省・資源エネルギー庁石油部石油企画官を最後に同省を退職
- 1983年12月 第37回衆議院議員総選挙にて旧・北海道1区より初当選
- 1989年6月 宇野内閣において文部政務次官に就任
- 1997年9月 第2次橋本改造内閣において文部大臣に就任
- 2000年12月 第2次森改造内閣において文部大臣・科学技術庁長官に就任
- 2001年1月 中央省庁再編により、初代・文部科学大臣に就任
- 2004年9月 第2次小泉改造内閣において外務大臣に就任 →第3次小泉改造内閣でも再任
- 2006年10月 清和政策研究会会長に就任 (森派→町村派)
- 2007年8月 安倍改造内閣において外務大臣に就任
- 2007年9月 福田内閣において内閣官房長官に就任 →福田改造内閣でも再任
- 2008年9月 太田誠一農林水産大臣辞任に伴い、臨時代理を兼務
- 2009年2月 清和政策研究会会長に復帰
- 2012年9月 自民党総裁選に出馬 →入院・体調不安もあって4位に敗れる
- 2014年12月 衆議院議長に就任。清和会会長職を細田博之に譲る。
- 2015年4月 体調不良による療養のため衆議院議長辞職願を提出。
- 2015年6月1日 都内の病院で脳梗塞により死去。享年70歳。
政策・主張
被災地復興
「(我々政治家は、)被災地の方々が“もう一度がんばろう”という気持ちを応援しなければなりません」と述べ、被災地の道路や鉄道の復旧、防波堤の早期建設を訴えた[1]。
日本国民の安全
脳梗塞で倒れる最期の最期まで「日本国民の命を、守る為の機関」の設立を強く訴えていた[2]。
日本人
著書において、以下の様な考えを示している。
私は、日本人は平和的で優しい民族だと考えています。闘争的でなければ凛としていないということではありません。
元来日本人には、理想とすべき「ただずまい」というものがありました。私はもう一度、日本人が持っていた「ただずまい」を取り戻さねばならないと考えます。
人物
- 官房長官・外相経験のある自民党の重鎮であり、最大派閥・清和政策研究会を率いる大物政治家である。
- インターネット上では「マッチー」の愛称で呼ばれる事も多い。本人もこの事を把握しており、満更でもないようである。(J-NSC公式オフ会IN札幌
13:55からのコメント参照)
- 媚びへつらうような真似はせず、飾らない性格だった[3]。
- 若い時から政策立案能力を評価され、党内で存在感を発揮。意思が強く、筋の通らないことはしないタイプだった[4]。
親族
- 実家の町村家は北海道の名士であり、祖父は「北海道酪農の父」と呼ばれた町村金弥。
- 父・町村金五は元自治大臣・元北海道知事・元衆議院議員・元参議院議員。
- 伯父・町村敬貴は、「まちむら農場」(北海道江別市)の創設者・元貴族院議員・元参議院議員
その他
- 選挙区にて北教組から不正献金を受け取っていた民主党・小林千代美議員と対立してきた事もあり、北教組・日教組に対して厳しく批判する意見が多い
- 2010年10月に小林千代美の議員辞職に伴う北海道5区の補欠選挙が行われた。比例復活で当選していた町村はあえて議員辞職をしてこの補選に出馬し、見事当選を勝ち取った。
←1996年の小選挙区制導入以後で、比例復活した現職衆院議員が、議員辞職して補選に臨むのは初であった。
後継者
関連動画
関連商品
「まちむら農場」の関連商品
町村信孝の親族が経営する「まちむら農場」の製品。正直、牛乳とアイスはかなり美味い。
関連項目
外部リンク
脚注
- *自由民主2011.6.21 「町村信孝 震災後経済戦略特命委員長に聞く」
- *産経新聞2015.6.4 「町村信孝前議長 国憂う“最期の肉声” 省庁縄張り争いに「ダメ」出し 対外情報機関創設へ執念」
- *NEWSポストセブン2015.6.8 「故・町村信孝氏 紋切り型でなくその言が楽しみな政治家だった」
- *日本経済新聞2015.7.17 「町村信孝さん(前衆議院議長)貫いた政策通の論客」
- *苫小牧民報2015.7.14 「自民道5区支部 後継候補は和田義明氏
」
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