カール大帝(シャルルマーニュ、742~814)とはヨーロッパの父と呼ばれるフランク王国の君主である。
概要
数々の戦争によって、イギリスを除く現在のEUに当たる地域のほとんどを支配したカロリング朝フランク王国の王である。
彼の征服によってギリシャ・ローマ文化が当時ガリアやゲルマンと呼ばれていた現在の西欧に当たる地域に広まることになり、今のヨーロッパの礎となった。
即位まで
カール大帝の産まれたカロリング家は8世紀に中ピピンやその息子カール・マルテル(カール大帝の祖父にあたる)を輩出するなど元々名門であった。カールマルテルの子、小ピピン(ピピン三世、カール大帝の父)はフランク王国のメロヴィング朝から王位を簒奪しカロリング朝が始まっている。
カール大帝の幼少期のことは史料が少なく、一説には出生に関して何らかの不義があったとも言われるが詳細は分からない。小ピピンが没するとフランク王国はカールと弟によって分割された(当時の社会では土地は一子相伝のものではなかった)。カールはアウストラシアの中央やネウストリアの沿岸などを。弟のカールマンはブルゴーニュなどを相続したが、弟が継承から三年後に死んだためカールはフランク王国の単独王となった。
征服
カール大帝の軍団の要になったのは騎馬兵団である。モンゴル兵しかり源義経しかり近代戦争が始まるまで、騎馬兵団を上手く運用できた軍隊は強い。カール・マルテルの代に起こったvsイスラームのトゥール・ポワティエ間の戦いで騎馬兵団の強さを肌で知っていたカロリング朝は騎馬兵団を起用し、カールもその軍団を受け継いでいた。即位から以後47年間、カールはこの騎馬軍団を用いてほぼ毎年のように遠征に明け暮れた。
カール大帝の最初の本格的な侵略先はイタリア半島の中央に位置するランゴバルド王国であった。そのきっかけはランゴバルド王国が教皇領を不法占拠し、時の教皇ハドリアヌス一世がカールに救援を求めたことにあった。773年、カールはアルプスをこえてランゴバルド王国の首都パヴィアを包囲した。ランゴバルド王のデシデリウスは虜にされ、息子のアデルキスはコンスタンティノープルに亡命した。
続けてカールはザクセン人の討伐にとりかかった。以後カールは30年にわたってザクセン遠征をくり返し、時に見せしめに大量虐殺も行ったが、宗教も政治システムも異質なザクセン世界で上手くいかず、785年にザクセン王ヴィドギンドを屈服させた後もその統治には苦戦させられていた。最終的にザクセン人をフランク王国内に強制分散移住させることによって反乱を収束させた。
778年にはイスラーム系のコルドバ君主国を支配下におさめるためにイベリア半島(現在のスペインのある半島)に大軍を送るも、サラゴーサ城の提督アルフセインに徹底抗戦され撤退を余儀なくされている。この帰途の途中で軍はバスク人の襲撃に会い、殿(しんがり)のブルターニュ伯ローランが戦死する。この出来事は10世紀に『ローランの歌』として欧州文学史に名前を残すことになった。
失敗に終わったカールのヒスパニア遠征であったが、カールはバルセロナを中心としたヒスパニア辺境領を創設し、イスラーム勢力との戦いで離散した地域へ植民する政策をとっている。
787年にはカールはバイエルンにも侵攻している。バイエルン大公のタシロ三世はカールに恭順したが、翌年には忠誠違反の嫌疑を受けて修道院へ幽閉されてしまった。タシロのアギロルフィング家は6世紀から名を残す名門であったが、その威勢は失してしまった。
788年からはモンゴル系遊牧民族のアヴァール人との戦いが始まっていた。北イタリアでの戦いをきっかけに、791年にはカールの方からアヴァール領への侵攻を開始する。フン族には及ばないまでも、かつて強大であったアヴァール軍団であったが、カールの時代には既に弱体化しており、大した反撃もないままカールは大勝利をおさめて多くの戦果を得た。
またカール大帝は戦争だけでなく文化振興政策も進め、フランク王国はカールの治世下でカロリング・ルネサンスが発生した。
戴冠と死
西暦800年、カール大帝はローマの聖ペテロ大聖堂にて教皇レオ三世から西ローマ皇帝の戴冠を受ける。むろんこれは476年に滅んだ西ローマ帝国の復活を意味しないが、それでもカール戴冠は国際政治的にも意義の大きいものであった。
東ローマ(ビザンツ)皇帝ニケフォロス一世はカールの皇帝号を認めず、806年にヴェネツィアを巡りフランク王国と武力衝突する。フランクは陸上では勝利したものの海では敗北を喫し、812年にミカエル一世の使節が訪れて和議が結ばれた。しかしそれでもなおビザンツはカールを皇帝として認めることはなかった。
814年、カール大帝はアーヘン宮廷で死去。享年72歳。遺体は葬儀を経ることもなく、その日のうちにアーヘンの宮廷内に埋葬されるというスピード葬送であった。約200年後に発掘されたカールの遺骸は玉座に座ったままであり、装飾品は首にあったペンダント一つだけであったという。
カールの死後フランク王国はルイ敬虔王を経て、カールの孫によって3つに分割される。その3つの国はカールのカロリング朝は断絶したものの後のフランス、イタリア、ドイツの元となった。その意味でやはりカール大帝はヨーロッパの礎となった人物であると言える。
関連項目
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