鳥取砂丘(とっとりさきゅう)とは、以下のものを指す。
概要
鳥取砂丘 | |
「鳥取県といえば?」と聞かれれば、多くの人がまず連想するであろう(というか他に連想できるものがない?)全国的にも有名な鳥取県の観光地である。
鳥取県鳥取市の日本海に面する海岸の南北2.4km、東西16kmにわたって砂丘が広がっている。東から福部砂丘、浜坂砂丘、湖山砂丘、末恒砂丘という4つの砂丘からなっており、一般に観光地として知られる「鳥取砂丘」はそのうちの浜坂砂丘のことを指す。
『鳥取県は県内全部が砂丘(砂漠)になっている』などと言われることもあるが、上記のとおり砂丘は海岸沿いに広がるだけで当然そんなことはない。また、砂漠と砂丘は異なるものであり、鳥取にあるのは砂丘のほうである。
日本一の広さを持つ砂丘として知られているが、この表記は正確ではなく「観光可能なものとしては」日本一の広さというのが正しい。大きさだけで言えば、日本一は青森県の猿ヶ森砂丘(防衛省の敷地で一般の観光客は立ち入り不可能)で、鳥取砂丘はそれに次ぐ2番目である。
砂丘の一部は山陰海岸国立公園の特別保護地区であり、国の天然記念物にも指定されている。
アクセス
なぜ鳥取砂丘は「日本一の砂丘」なのか
※この節はブラタモリ #111 鳥取砂丘 ~なぜ鳥取砂丘は人をひきつける?~を参考にしています。
日本で「砂丘」と言えば「鳥取砂丘」であり鳥取砂丘は「日本一の砂丘」と言っても過言ではない。しかし鳥取砂丘は面積や高さといった数値が「日本一の砂丘」という訳ではない。それではどうして鳥取砂丘は多くの観光客が訪れる「日本一の砂丘」となったのだろうか?
第一に砂丘の間隔が近いということが挙げられる。一般に砂丘は風によって運ばれた砂が堆積することで形成されるのだが大きな砂丘となった後も風によって砂丘全体が少しずつ風下側に移動している。複数の砂丘が有る場合もそれらの砂丘は同時に移動するため砂丘同士は近付きにくい。ところが鳥取砂丘の場合、約5万年前に当時存在していた砂丘(古砂丘)に直線距離にして約60㎞の近距離にある大山の噴火により火山噴出物が1m以上降り積もった(大山倉吉軽石層/DKP)。この大山倉吉軽石層が砂丘への「パック」となり古砂丘は風で移動しにくくなった。そしてその後に新しい砂丘(新砂丘)が形成されると次第に新砂丘は風下に移動し始めるが「パック」された古砂丘は移動しないため砂丘同士の間隔が近くなった。砂丘の間隔が近いことで観光客は砂丘を下ったと思ったらすぐに砂丘がそびえるというダイナミックな起伏を感じることができるのだ。
第二に湧き水が豊富であることが挙げられる。鳥取砂丘の年間降水量は約1800㎜と全国平均と遜色ないのだが砂丘の土壌はイメージ通り保水性が著しく低く、砂のみであれば水が溜まることはない。しかし鳥取砂丘では砂丘層内の火山灰質土壌(大山倉吉軽石層など)が水を通しにくく地表付近にこの火山灰質土壌が存在すると降水が溜まり湧き水となり現れる。この湧き水のおかげで砂丘周辺に人々が生活を営むことを可能にし砂丘への訪問を容易にしたのだ。例えば近世に但馬往来という街道が鳥取砂丘を通っていたが当時の砂丘の湧水地では茶屋が営業していて今でも「柳茶屋」の地名が残る。[1]また観光砂丘内にも湧水地点が有り「オアシス」と呼ばれていて水棲昆虫や稀にカエルも観察されるという豊かな生態系を提供している。
第三に近代の開発を免れたことが挙げられる。今でこそ鳥取砂丘は天然記念物や国立公園の特別保護地区として保護されているが、かつては周辺住民にとっては克服するべき自然であり江戸時代から開発が試みられていた。明治以降には砂丘地の植林法が確立され鳥取砂丘でも千代川より西の砂丘(末恒砂丘・湖山砂丘)では戦前までに開発が進み現在では砂丘の面影は残っていない。一方で現在も観光砂丘として残っている浜坂砂丘は明治に砂丘地形を利用した陸軍演習場とされたため戦前の開発を免れることができた。そして戦後に陸軍演習地が払い下げられると昭和30年には浜坂砂丘の中心部が天然記念物に指定、同じ年に国定公園にも指定(後に国立公園に格上げ)されるなど本来の砂丘の景観が残されることになった。
このように面積などは日本一でないながら他に類を見ない特徴を持つ鳥取砂丘は人をひきつける「日本一の砂丘」となったのだ。
ギャラリー
夕陽と鳥取砂丘 |
雪が積もった鳥取砂丘 |
鳥取砂丘を登る人達 |
関連動画
関連商品
関連項目
外部リンク
脚注
- 2
- 0pt