基本データ
概要
京都市北区にある桟敷ヶ岳と魚谷山を水源とする、京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川。
しきたりや礼儀への意識が強い京都の中で、地元の人々と観光客の心を潤す開放的な水の景勝地として名高い。川岸には散歩する人や自転車乗り、カップル、喫煙者、ナンパ師、酔っぱらい、カモやヌートリアに餌をやるオバサン、瞑想するオジサンなどが集う。
主に「鴨」と「賀茂」、さらに上流の一部地域で「加茂」の三種類の表記がある。京都では下鴨神社糺の森周辺の高野川との合流点を境に、上流を賀茂川、下流を鴨川と区別しているが、これも明確な根拠に基づくものではない。国土地理院では「鴨川」で統一されており、本記事もこれに準拠する。
上賀茂神社の北方を南東に向かって流れ、下鴨神社の南の出町で高野川と合流する。その後、南に真っ直ぐ流れ、四条を越えると少し西に行き、八条を超えたあたりで急激に向きを南西に変えて桂川に入る。
上賀茂から出町柳、また、出町柳から四条までの川筋が非常に真っ直ぐなため、かつて、平安京以前の鴨川は現在の堀川通辺りを流れていたとも考えられていた。今現在この説は否定されているが、平安京造営の時に大きな改修があったことは確実視されている。
都市河川としては豊富な生き物が住み着いており、中には絶滅が危惧されるものも少なくない。川の上空にはトンビがスタンバイしていることがあり、食べ物を持っていると飛来してきて奪われることも。
主な歴史
『平家物語』が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河天皇の嘆きを伝えるように、古くから氾濫の多い暴れ川だったものの、それでも京都に欠かせない川であった。
川沿いに神社が置かれるなど、当初は禊や祓いの場だった。また、死体の水葬や単なる捨て場にもなった。
1156年、保元の乱によって死刑が復活すると、処刑場としても利用された。すると河原は一般市民から忌避され、貧困者や差別を受ける者、わけあって流れ着いた者の居住区となった。政治的な観点から完全に開放されたため、室町時代にはよそ者との交流の場なった。四条河原から阿国の歌舞伎が生まれるなど、自由に人が集まれる土壌だったことが窺える。
また、河原は人と物資が行き交う場でもあり、大坂や若狭、東海道へのターミナルも兼ねていた。
1614年、角倉了以(すみのくら りょうい)と角倉素庵(すみのくら そあん)の親子によって高瀬川が開鑿されると、京都と大坂を結ぶ水路として利用された。1890年には琵琶湖疏水によって琵琶湖とも結ばれたが、20世紀に入ると、鉄道の開通により水運は急激に衰退した。
納涼床
5月から9月の間、老舗が軒を連ねる二条大橋から五条大橋にかけての鴨川西岸の料理店では、川辺にせり出す木組みの床で座敷を設ける。これが京の夏の風物詩となっている。
客はのどかな鴨川の景色を望み、涼しい風を感じながら料理に舌鼓を打つ。
店内に席が用意されているので雨でも濡れない。むしろ情緒が増すだろう。
注意点としては、畳の上に運んできた料理を置く店が多いので素足は遠慮した方がいい。また、納涼床は隣の店と隣接されているため、馬鹿騒ぎはNG。京都らしく上品に楽しむのが推奨される。
等間隔の法則
三条大橋~四条大橋間や出町柳の合流点付近(俗に鴨川デルタ)周辺といった人が集まりやすいエリアの川畔では、いちゃつく川の流れを楽しむカップルが等間隔に並ぶ光景が目に入る。
これを「鴨川等間隔の法則」と呼び、真面目に研究した論文も存在する。
実際は等間隔という訳ではなく、単純に隣のカップルの存在が気にならない程度の間、且つあまり間を空けすぎても歩く量が増えて面倒、といった理由で概ね5m程度の間隔に収束していくものだと思われる。
なお繁忙期にはカップルの密度が高まるため間隔は短くなっていく。
関連動画
関連静画
関連リンク
- 鴨川/京都府ホームページ
- 鴨川 納涼床のある夏景色 8K / Kamo River / 京都いいとこ動画 - YouTube
- 京の風物詩 京都鴨川納涼床への誘い
- 京の風物詩 呼び名に違い(とことんサーチ) 鴨川は床(ゆか) 江戸期起源、現代は高床 - 日本経済新聞
関連項目
親記事
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兄弟記事
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