祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
概要
治承・寿永の乱を題材にした、日本で一二を争うほど有名な軍記物語、というか、古典の中でも五本の指に入るレベルで知名度の高い存在。教科書的な理解では、中世初期には芽生えていた無常観を基本テーゼとした、軍記物語というジャンルを確立させた存在であるのだが、多分中世後期も近世も近現代も娯楽として消費されるのがもっぱらだった気がする。
多くの軍記同様読み物と語りものとして面白おかしくするために盛りまくっており、あることないこと書かれているのが特徴である。なので、文学史学の両分野から、史料批判されてこのテクストの在り方そのものをどう受け取るか、みたいな方向で最近は使われている。
成立と写本
平家物語は、かつては『徒然草』の記述から、承久の乱以前の成立と考えられてきた。また『玉蘂』にも平家という本が出てくるため、これが平家物語と昔は言われていた。しかし、この平家は平家記という公家平氏の日記であることがわかり、『徒然草』も素直に読めば信濃前司行長の出家くらいしかわからないため、結局証拠が特にないという結論になっている。
客観的に成立を示すのは『兵範記』紙背文書の仁治元年(1240年)に藤原定家が治承物語をもらった記述、正元元年(1259年)に深賢が平家物語を受け取った旨の書状で、1230年代に『保元物語』、『平治物語』、『承久記』といった軍記物語が成立する中で、『平家物語』もまた産声を上げた、ということらしい。
なお、作者の信濃前司行長という記述は、『徒然草』で兼好法師が言っているだけである。信濃守・藤原行長の実在は分かりつつあるのであるが、本当に彼が書いたかどうかは別問題である。この人物の父親は藤原行隆、つまり平清盛の懐刀の一人であり、平時忠にも近い人物である。というわけで、この葉室家に属する藤原行長が、平家に近い存在として物語を書いた、とこれまで言われてきた。
とはいえ、正直平家物語の記述が本当に平家に近い存在だったか怪しい。というのも、作中の描写は平家の縁故関係もおぼつかなく、そもそも滅亡前提の物語仕立てを近い人物が書くか、というのも割とクリティカルな指摘である。さらに言えば、承久の乱で壊滅的な打撃を受けていた葉室家が、この頃こんな事業をする余裕はあったのか、といったことから、ぶっちゃけ書いた人物は闇の中である。
ただし、これらの軍記物語が生まれたのは、後堀河天皇と四条天皇の時代、つまり平家の縁戚がそれなりに王家内で復権しつつあった時代なのである。また、承久の乱以後の平和の時であり、要するに過去を振り返る余裕がある時代だったのだ。
というわけで、こうしてふんわりと成立した『平家物語』には、現在さまざまなバリエーションがある。それらを見ていこう。
- 覚一本:1370年頃に、琵琶法師の覚一が弟子に伝えるために作ったとされるもので、一番オーソドックスな写本。
- 延慶本:1310年前後に根来寺で書かれたとされる写本で、古い形態を残すともされているが、部分部分で覚一本を取り込んでいるため、留保する必要がある
- 源平闘諍録:部分しか残っていないが、14世紀以後に東国で成立されたとされるもの、講談社学術文庫はこれ
- 四部合戦本:2巻と8巻を欠いているが、本来保元・平治・平家・承久でセットだったらしいことを伝える本
- 屋代本:江戸時代の屋代弘賢が持っていたもので、4巻と9巻を欠いているが、建礼門院徳子の最後を残した灌頂巻成立前の、平家滅亡で終わっている断絶平家型とされる
なお、この断絶平家型は覚一本系統の一方系に対して、八坂系(城方系)と言われる一群もある - 源平盛衰記:延慶本をモデルにした、いろはの48巻仕立てのもので、異説などを多く書き加えた内容が豊富
平家物語のあらすじ
一部の本を除くと、基本的には十二巻仕立てであり、覚一本の系統はそれに前述した平徳子の最後を描く灌頂巻を付け加えている。基本的には、平家物語は鹿ヶ谷の陰謀から始まり、平家の滅亡で終わっているため、実は源義経の死などは、意外なことに描かれていない。
各巻のあらすじは、以下である。
- 鹿ヶ谷事件の発端
- 藤原成親の捕縛と断罪
- 俊寛の悲劇などの後、平重盛の死と治承3年のクーデター
- 以仁王事件
- 福原遷都と源頼朝挙兵、富士川の戦いから東大寺・興福寺の焼き討ち
- 高倉天皇の死と平清盛の死
- 俱利伽羅峠の戦いと平家の都落ち
- 平家の九州からの追い落としと源義仲・後白河院の対立
- 源義経らによる源義仲討伐と、一の谷の合戦
- 平重衡と平維盛の悲劇
- 屋島の戦いと壇ノ浦の戦い、平宗盛や平重衡らの処刑
- 平時忠の流罪、源義経の都落ち、平維盛の息子・六代の処刑
- 建礼門院徳子の最後を描いた、灌頂巻
文学作品としての平家物語
題材のメジャーさもさることながら、漢語、和語、仏語、俗語などを交えた和漢混交文の、明快で洗練された文体であることもあって、語り物としての評価も高い。特に合戦場面は漢文体、王朝的で哀調を伴う部分は和文体を用いる場面に応じた使い分け、中世語、擬態語、擬声語といった効果的な演出、七五調を基本にしつつも修辞を凝らした文体のため、早い話読み物として完成度が高いのである。
そして、概要にも記したのだが、平家物語といえば栄枯盛衰の物語であり、諸行無常・盛者必衰・因果応報といった、仏教的道理が基盤となっているのである。
琵琶法師と平家物語
一般的に、平家物語は琵琶法師によって語り継がれた文学と言われる。しかし、実際のところ彼らの語る物語に平家物語があったというのが正しく、彼らの語った平家物語がこの平家物語とどれだけ一致していたか、定かではなかった。
琵琶法師は、源氏物語などにも描かれるように、少なくとも平安時代には誕生していた存在である。この両者が出会った経緯は不明だが、鎌倉時代の執権・北条貞顕の書状には、琵琶法師が平家物語を語っていたとするものがある。なので、少なくとも14世紀には東国に至るまで、琵琶法師の語る平家物語が広まっていたのは事実である。
琵琶法師はやがて当道という座を形成し、これを大成したのが覚一本の覚一検校である。彼らは当初は村上源氏と関係があったのだが、やがてイデオロギー政策を盛んに行っていた足利将軍家と出会い、彼らの自身への権威付けのために源氏物語や平家物語を使う、という政策の一環として、こうした琵琶法師たちは庇護されていった。
15世紀には盛んに琵琶法師の平家物語の語りが行われていったが、先にも言った通り、これは琵琶法師の芸能の一部である。朝廷の日記などには物語はうまいが平家は下手だなと言われる琵琶法師が出てくるなど、様々な享受がされていったのである。
史実と平家物語
何度も言っているが、この物語は史実ではなく、史実をもとにしたフィクションである。平盛子の死が全く描かれない、源義仲を討ち取った人物がそもそも違う、といった様々なレベルの差異があるのである。
また、実は平家物語そのものには、源義経や武蔵坊弁慶一行はあまり出てこない(何度も言ってるけど作中で死なないし…)。なので、この辺は、平家物語が受容されていくうちに広まった諸芸能の賜物であるのだ。
関連商品
関連項目
- 9
- 0pt