エチオピア戦争 単語


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エチオピアセンソウ

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エチオピア戦争とは、イタリアvsエチオピア戦争

  1. 第一次エチオピア戦争(1889年~1896年)
  2. 二次エチオピア戦争(1935年1941年)

の2つある。

第一次エチオピア戦争

時は、帝国義が盛を迎えた19世紀。ヨーロッパアフリカの権益を狙い、先に大陸を切り取っていた。そんな中、独立を保っていたのは東アフリカエチオピア帝国だけだった。1889年3月25日、メネリク二世エチオピア皇帝に即位。北方ではイタリアが勢力拡大を狙っていたが、彼は南方の征を優先。イタリア条約を結び、エリトリアを割譲する代わりに武器の供与を受けられるようにした。だが、これが遺恨の始まりだった。条約にはイタリア語版とアムハラ語版(エチオピア公用語)の二種類があったが、イタリア語版にこっそりとエチオピア権を否定する文面を紛れ込ませていたのである。これを理由にイタリアエチオピアの宗名乗り条約で定められた界線を越えて軍を進駐させてきた。勝手に植民地にされたメネリク二世は当然ブチ切れ、条約効を宣言してエチオピア軍を出撃させた。こうして同年6月より第一次エチオピア戦争が勃発した。

イタリア軍エリトリア駐留軍は、近接するティグレ地方に侵攻。対するエチオピア軍は結束して立ち向かった。「エチオピアは未開の土人による」というのがイタリア軍の認識で、簡単に踏み潰せると考えていた。実際序盤の戦況はイタリア優位に進んでおり、アドワを占領するなどエチオピア軍を押していた。しかしエチオピア軍はイタリア以外にもイギリスフランスロシアなどからも武器を購入しており、そのスペックは列強に迫るほどだった。1896年3月1日に発生したアドワの戦いでは、両軍ともに約1万の死傷者を出す大出血となった。この敗北によりイタリアでは厭戦気分が広がり、エチオピアとの間でアディスアベバ条約を締結。エリトリアの割譲とエチオピア独立承認が確約され、エチオピアはしばらく独立を維持する事になる。一方、アフリカに敗れたイタリアは一流の列強から二流に転落してしまった。こうして第一次エチオピア戦争は終結したが…。

帝国主義の再燃

1925年イタリア首相となったムッソリーニは、エチオピアと友好関係を結んだ。1928年には不可侵条約を締結している。しかしイタリアに未曾有の国難が襲う。世界恐慌の襲来である。失業率が急速に高まり民が塗炭の苦しみに喘ぎ始めると、再び海外植民地の獲得を望むが高まり始めた。

イタリアが持つ植民地リビアエリトリアソマリランドと不毛の地しかなく、豊かなエチオピアを向けられるのは時間の問題だった。1934年12月ムッソリーニ総統社会の出方をうべく、領土問題で揉めているエチオピアに近いワルワルにイタリア軍派遣。迎撃に出たエチオピア軍と武力衝突が発生する。エチオピア12月14日と翌1935年1月15日国際連盟へ、イタリア侵略行為を提訴。しかし1月19日国連は「当事同士でまず交渉すべし」と提訴の正式採択を見送った。やむなくエチオピアイタリアと交渉したが、進展せず。3月29日三度となる提訴を行った。だが返ってきたのは「交渉を続行せよ」というイタリアが認められた返答だった。イギリスフランスイタリアとの関係悪化を恐れて何もせず、フランスに至っては4月1日武器輸出を止めてエチオピアを怒らせている。そんな中、一助け舟を出したのがソ連だった。然と武器輸出し、外交関係の立も考えていたという。また遠く離れた日本エチオピアの窮乏を憂慮し、1000万発の弾薬を売った。当時日本は反イタリアエチオピアであり、内の新聞は連日イタリアや欧を非難していた。

その後もエチオピアは提訴し続け、国連はようやく重いを上げて調したものの同年9月に「偶発的なので双方に責任なし」と裁定された。国連の弱姿勢を見たムッソリーニ総統エチオピア侵攻に踏み切りエリトリアソマリランドの軍をエチオピアに集結させてエミリオ・デ・ボーノ将軍を総に据えた。対するエチオピアも兵力の集結に奔走した。

第二次エチオピア戦争

1935年10月2日ローマムッソリーニ総統エチオピアへの侵攻を宣言。ラジオ放送で全土に伝えられた。精鋭部隊シャツ師団」を加えた約18万の兵力と航空機126機が投入され、翌3日に宣戦布告しに侵攻を開始した。10月9日国際連盟の総会で50ヶイタリア行動を「侵略行為」と見なし、連盟規約第16条違反と認めた。さっそく経済制裁案が練られ、武器の禁輸、信用供与の停止、アルミニウムゴムといった軍需品の禁輸が挙げられた。ところがムッソリーニ総統は「禁輸品石油を含めるのは戦争を発生させる敵対行為である」と脅しをかけ、縮こまったの反対で石油の禁輸だけは実行されなかった。つまりエチオピア侵略を黙認した訳である。国連は和案をイタリアエチオピアに提示したが、あまりにもイタリア寄りの不等なものだったため当然エチオピア側が拒否。第二次エチオピア戦争は、満州事変と並んで国連無能と形骸化をす結果となってしまった。またムッソリーニ総統経済封鎖による悪が出る前に雌雄を決しようと、短期決戦を命じた。

イタリア軍は、エリトリアソマリランドの二方向からエチオピア領内に侵攻。手始めにアドワとアクスムを占領した。数の上ではエチオピア軍が優位だったが、扱う兵器イタリア軍の方が上だった。しかしエミリ将軍は慎重で、遅々として進撃が進まなかった。短期決戦を望むムッソリーニ総統はエミリ将軍を罷免し、後釜にはピエトロ・バドリオ参謀総長を配置した。軍事に明るいバドリオは積極的な攻勢をかけ、エチオピア軍を粉砕。次々に要所を占領した。11月18日社会イタリアに対し経済封鎖を発動。だがイタリアは既に国連を抜けていた上、ドイツ武器戦略物資の輸出を行ったためエチオピアの助けにはならなかった。1936年3月からイタリア軍襲を化させ、総兵力も23万に増強するなどエチオピア軍は窮地に陥る。しかし同時期にドイツラインラント進駐を行っており、欧の関心はそちらに移って窮するエチオピアは放置された。それでもエチオピア軍は奮戦し、何度もイタリア軍を押しのけた。頑強に抵抗する敵を見て、イタリア軍はハーグ協定を無視してマスタードガスを投入。強引に戦線を押し戻した。3月31日アシェンゲン畔の戦いでエチオピア軍が敗北。もはや敗勢を覆す力はかった。

首都アディスアベバに突き進んでいく。そして5月5日イタリア軍アジスアベバに入し、ハイレ・セラシエ一世は退位してイギリス亡命。すかさずエチオピアを併合し、エリトリアソマリランドを合わせてイタリア領東アフリカ立を宣言した。

その後

イタリア領東アフリカ皇帝にはイタリア国王ヴィットリオエマヌエーレ三世が兼業。副王にはバドリオ参謀総長がついた。エチオピア時代の首都アディスアベバをそのまま首都にし、イタリア人の入植や軽工業の推進を行った。しかし侵略行為同然だったため現地人からの反発が強く、植民地経営はなかなか上手くいかなかった。

第二次世界大戦では周囲のイギリス植民地へ攻撃をかけたが、本からあまりにも遠かった事もあり次第に劣勢となる。そして1941年11月28日エチオピア内のイタリア軍は降し、イギリス亡命していたハイレ・セラシエ一世が入。再び独立を取り戻した。生き残ったイタリア兵はゲリラ戦に移行し、ドイツアフリカ軍団の救援を信じて本の降まで戦い抜いた。

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