の2つある。
時は、帝国主義が隆盛を迎えた19世紀。ヨーロッパ各国はアフリカの権益を狙い、我先に大陸を切り取っていた。そんな中、独立を保っていたのは東アフリカの国エチオピア帝国だけだった。1889年3月25日、メネリク二世がエチオピア皇帝に即位。北方ではイタリアが勢力拡大を狙っていたが、彼は南方の征服を優先。イタリアと条約を結び、エリトリアを割譲する代わりに武器の供与を受けられるようにした。だが、これが遺恨の始まりだった。条約にはイタリア語版とアムハラ語版(エチオピアの公用語)の二種類があったが、イタリア語版にこっそりとエチオピアの主権を否定する文面を紛れ込ませていたのである。これを理由にイタリアはエチオピアの宗主国を名乗り、条約で定められた境界線を越えて軍を進駐させてきた。勝手に植民地にされたメネリク二世は当然ブチ切れ、条約の無効を宣言してエチオピア軍を出撃させた。こうして同年6月より第一次エチオピア戦争が勃発した。
イタリア軍エリトリア駐留軍は、近接するティグレ地方に侵攻。対するエチオピア軍は結束して立ち向かった。「エチオピアは未開の土人による国」というのがイタリア軍の認識で、簡単に踏み潰せると考えていた。実際序盤の戦況はイタリア優位に進んでおり、アドワを占領するなどエチオピア軍を押していた。しかしエチオピア軍はイタリア以外にもイギリス、フランス、ロシアなどからも武器を購入しており、そのスペックは列強に迫るほどだった。1896年3月1日に発生したアドワの戦いでは、両軍ともに約1万の死傷者を出す大出血となった。この敗北によりイタリア本国では厭戦気分が広がり、エチオピアとの間でアディスアベバ条約を締結。エリトリアの割譲とエチオピアの独立承認が確約され、エチオピアはしばらく独立を維持する事になる。一方、アフリカの国に敗れたイタリアは一流の列強から二流に転落してしまった。こうして第一次エチオピア戦争は終結したが…。
1925年にイタリア首相となったムッソリーニは、エチオピアと友好関係を結んだ。1928年には不可侵条約を締結している。しかしイタリアに未曾有の国難が襲う。世界恐慌の襲来である。失業率が急速に高まり国民が塗炭の苦しみに喘ぎ始めると、再び海外植民地の獲得を望む声が高まり始めた。
イタリアが持つ植民地はリビア、エリトリア、ソマリランドと不毛の地しかなく、豊かなエチオピアに目を向けられるのは時間の問題だった。1934年12月、ムッソリーニ総統は国際社会の出方を窺うべく、領土問題で揉めているエチオピア国境に近いワルワルにイタリア軍を派遣。迎撃に出たエチオピア軍と武力衝突が発生する。エチオピアは12月14日と翌1935年1月15日に国際連盟へ、イタリアの侵略行為を提訴。しかし1月19日、国連は「当事国同士でまず交渉すべし」と提訴の正式採択を見送った。やむなくエチオピアはイタリアと交渉したが、進展せず。3月29日に三度目となる提訴を行った。だが返ってきたのは「交渉を続行せよ」というイタリアの主張が認められた返答だった。イギリスとフランスはイタリアとの関係悪化を恐れて何もせず、フランスに至っては4月1日に武器の輸出を止めてエチオピアを怒らせている。そんな中、唯一助け舟を出したのがソ連だった。公然と武器を輸出し、外交関係の樹立も考えていたという。また遠く離れた日本もエチオピアの窮乏を憂慮し、1000万発の弾薬を売った。当時日本は反イタリア・親エチオピアであり、国内の新聞は連日イタリアや欧米各国を非難していた。
その後もエチオピアは提訴し続け、国連はようやく重い腰を上げて調査したものの同年9月に「偶発的なので双方に責任なし」と裁定された。国連の弱腰姿勢を見たムッソリーニ総統はエチオピア侵攻に踏み切り、エリトリアとソマリランドの軍をエチオピア国境に集結させてエミリオ・デ・ボーノ将軍を総司令に据えた。対するエチオピアも兵力の集結に奔走した。
1935年10月2日、ローマでムッソリーニ総統はエチオピアへの侵攻を宣言。ラジオ放送で全土に伝えられた。精鋭部隊「黒シャツ師団」を加えた約18万の兵力と航空機126機が投入され、翌3日に宣戦布告も無しに侵攻を開始した。10月9日、国際連盟の総会で50ヶ国がイタリアの行動を「侵略行為」と見なし、連盟規約第16条違反と認めた。さっそく経済制裁案が練られ、武器の禁輸、信用供与の停止、アルミニウムやゴムといった軍需品の禁輸が挙げられた。ところがムッソリーニ総統は「禁輸品に石油を含めるのは戦争を発生させる敵対行為である」と脅しをかけ、縮こまった英仏の反対で石油の禁輸だけは実行されなかった。つまり英仏はエチオピア侵略を黙認した訳である。国連は和平案をイタリアとエチオピアに提示したが、あまりにもイタリア寄りの不平等なものだったため当然エチオピア側が拒否。第二次エチオピア戦争は、満州事変と並んで国連の無能と形骸化を晒す結果となってしまった。またムッソリーニ総統は経済封鎖による悪影響が出る前に雌雄を決しようと、短期決戦を命じた。
イタリア軍は、エリトリアとソマリランドの二方向からエチオピア領内に侵攻。手始めにアドワとアクスムを占領した。数の上ではエチオピア軍が優位だったが、扱う兵器はイタリア軍の方が上だった。しかしエミリオ将軍は慎重派で、遅々として進撃が進まなかった。短期決戦を望むムッソリーニ総統はエミリオ将軍を罷免し、後釜にはピエトロ・バドリオ参謀総長を配置した。軍事に明るいバドリオ総司令は積極的な攻勢をかけ、エチオピア軍を粉砕。次々に要所を占領した。11月18日、国際社会はイタリアに対し経済封鎖を発動。だがイタリアは既に国連を抜けていた上、ドイツが武器や戦略物資の輸出を行ったためエチオピアの助けにはならなかった。1936年3月からイタリア軍は空襲を激化させ、総兵力も23万に増強するなどエチオピア軍は窮地に陥る。しかし同時期にドイツがラインラント進駐を行っており、欧米諸国の関心はそちらに移って窮するエチオピアは放置された。それでもエチオピア軍は奮戦し、何度もイタリア軍を押しのけた。頑強に抵抗する敵を見て、イタリア軍はハーグ協定を無視してマスタードガスを投入。強引に戦線を押し戻した。3月31日、アシェンゲン湖畔の戦いでエチオピア軍が敗北。もはや敗勢を覆す力は無かった。
首都アディスアベバに突き進んでいく。そして5月5日にイタリア軍がアジスアベバに入城し、ハイレ・セラシエ一世は退位してイギリスに亡命。すかさずエチオピアを併合し、エリトリアとソマリランドを合わせてイタリア領東アフリカの樹立を宣言した。
イタリア領東アフリカの皇帝にはイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世が兼業。副王にはバドリオ参謀総長がついた。エチオピア時代の首都アディスアベバをそのまま首都にし、イタリア人の入植や軽工業の推進を行った。しかし侵略行為同然だったため現地人からの反発が強く、植民地経営はなかなか上手くいかなかった。
第二次世界大戦では周囲のイギリス植民地へ攻撃をかけたが、本国からあまりにも遠かった事もあり次第に劣勢となる。そして1941年11月28日にエチオピア国内のイタリア軍は降伏し、イギリスへ亡命していたハイレ・セラシエ一世が入城。再び独立を取り戻した。生き残ったイタリア兵はゲリラ戦に移行し、ドイツアフリカ軍団の救援を信じて本国の降伏まで戦い抜いた。
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