シュピヘルン(補給艦) 単語

シュピヘルン

4.8千文字の記事

シュピヘルン(補給艦)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が拿捕した元ノルウェークロスフォンを、1940年9月18日海軍補給艦へと改装したものである。ベルリン作戦ライン演習作戦などに従事した。1944年8月31日ブレスト閉塞として自沈。

概要

前身はノルウェークロスフォン(Krossfonn)。名の由来はノルウェーローガラン県北東端スルダルから。

戦前は産地で積み込んだ石油西ヨーロッパに輸送する仕事をしていた。第二次世界大戦中の1940年6月26日に西インドドイツ仮装巡洋艦ウィダーに拿捕され、海軍補給へ改装されるとともにシュピヘルンと改名。ベルリン作戦ライン演習作戦支援として活躍する。また封鎖突破定されて日本へ向かおうとしたが2回失敗したため取り止めとなっている。1944年8月9日襲で大破し、8月31日ブレスト閉塞として自沈した。

戦後に残骸を引き揚げられ、ノルウェーに復帰。1964年3月に解体されるまで運用され続けた。

排水量9323トン、全長146.46m、全幅19.81m、出力4700力、最大速力12.5ノット。

船歴

クロスフォン時代

ノルウェー運会社スキブスA/Sダルフォン社は、デンマークのオーデンセにあるオーデンセ・スタールスキブスヴェルフト社に本の建造を発注。ヤード番号56の仮称を与えられて起工、1935年5月16日に進してクロスフォンと命名され、同年8月工した。

1939年9月3日第二次世界大戦が勃発した時、クロスフォンはフランス石油輸入するチャーターであり、中東やカリブエクアドルの産地から得られた石油西ヨーロッパまで輸送していた。中の大西洋では既に戦端が開かれていたが、当時ノルウェー中立だったため護衛なしで航行してもUボートに襲われる心配はかった。

1940年4月9日ドイツ軍ヴェーゼル演習作戦を発動してノルウェーへの侵攻を開始。この時クロスフォンはマルセイユ付近のポール・ド・ブークからガルベストンに向かってフロリを航行中だった。本が侵攻を受けたとの報告が入ると、予定を変更して最寄りのイギリスの港であるキングトン港へ向かい、4月14日に到着。更なる示を待つ。4月22日ドイツの手に落ちていない1000隻以上の船舶を管理・統括するノルウェー運貿易使節団がロンドンに設立され、クロスフォンもその揮下へ入る。シモン・ズウェンセン船長によるとハリファックスで武装を施す話があったようだが、実行には移されなかった。4月24日キングトンを出港してガルベストンへ向かい、4月29日事入港。現地のドックへ入渠してオーバーホールを受ける。5月13日ガルベストンを出た後、ヒューストンにて貨物を積み込み、5月21日にバミューダへと回航される。

5月23日北大西洋を東進するHX-45団へ加入してバミューダを出港。クロスフォン以外にも数隻のノルウェー船舶が参加していた。6月7日午前8時的地であるフランス西部ブレストへ到着するも、フランスもまたドイツ軍の侵攻を受けての息となっていたため、フランスからパナマへの脱出命を受けた。シモン船長は単独でパナマへと向かいたいと考えていたが、護送団に加入しないと保険がかけられず、またパナマ行きの団が一つもかったので渋々第50 BF団に加入して翌日緊急脱出、カサブランカへと避難している。6月17日カサブランカへ到着。ここで「ノルウェーフランスの港を避けてイギリスの港へ向かえ」との命ロンドンから受領した。

6月19日に単独でカサブランカを出港し、フォール・ド・フランス経由でクリスバルに向かう。だがクロスフォンが的地に辿り着く事は永遠にかった。出港から数日後、線通信士がミラノへ向けて放たれているイタリア電報を何本か傍受。既にイタリア枢軸国として参戦していたため近くに敵がいる事になる。シモン船長は一時針路変更を考えたが取りやめた。

1940年6月26日夕刻、西インドで約9000トン貨物船が右舷側より接近してきて、首を左舷に向けて横切った。の側面やマストにはスウェーデン国旗が確認出来る。2マイルほど離れたところで突然方向転換してクロスフォンに発の正体はスウェーデンナルヴィクに偽装したドイツ海軍仮装巡洋艦ウィダーだったのだ。2発弾がクロスフォンの首付近に着弾した時、ウィダーから線を使用しないように合図が送られてきた。抵抗を諦めたクロスフォンは停。ウィダーは低速で接近してきて右舷側に横付けし、スウェーデン国旗を外してドイツ国旗を掲揚。その間にクロスフォンの乗組員が機密文書、手紙、航示書、お金などをが入った袋に突っ込んで外へ投棄した。やがて10~12人の武装した兵で構成された乗隊が乗り込んでクロスフォンを支配下に置いた。ちなみにウィダー側はスティクレスタッドを拿捕したと思い込んでおり、相手がスティクレスタッドではなくクロスフォンだと分かると、スヴェンセン船長ど怒ったような態度を取ったという。

機関銃を持ったドイツ兵があちこちに配備され、乗組員はの中央部に集まるよう命じられた。そして乗隊はかなりの時間をかけて内を底的に捜索。その後、クロスフォンはフランスに回航される事が決まり、シモン船長機関長は捕虜としてウィダーへ移乗、回航要員のシャルベルク中尉やルニング中尉ドイツ兵11名がクロスフォンに残ってフランスへと向かう。この時、ウィダーから大量のが支給され、あたかも物資を満載したタンカーヨーロッパに向かっているかのように見せかけていたという。

7月7日クロスフォンはドイツ占領下ロリアンへ到着。港内にはクロスフォン同様拿捕された船舶が数隻停泊していた。ドイツ軍に協力する形で7月11日ディーゼル燃料8バレルタグボートに運び、8月30日には燃料13トンをはしけに運んだ。地はイギリス軍のしい襲を受けていたため乗組員はクロスフォンに留まって耐えぐ。

9月3日午後にブレストを出港、翌日サン・ナゼールへ回航され、現地で潜水艦補給への改装工事に着手。名をシュピヘルに変更した。9月8日員のノルウェー人36名は解放列車オスロをし、中立ち寄ったハンブルク連合軍の爆撃に巻き込まれながらもザスニッツでフェリーに乗ってトレレボリに移動、ヨーデボリを経て10月8日事帰り着いた。

補給艦シュピヘルン

1941年1月14日仮装巡洋艦ピングィンが北極で3隻の捕鯨と11隻の捕鯨からなるノルウェー捕鯨団をまるごと拿捕する大戦果を挙げた。この団をボルドーに回航するためタンカーユーロフェルトアルスターローファーが付き添っていたが、シュピヘルンも給油任務を手伝った(その甲斐あって捕鯨団は3月20日ボルドーへ到着している)。続いてシュピヘルンはベルリン作戦支援に参加。大西洋で通商破壊中の巡洋戦艦シャルンホルストと合流し、給油を行おうとしたが送ホースが損傷してしまい、結局フリードリヒ・ブレーメが3000トンの燃料を補給した。2月4日から10日にかけてアゾレス中の重巡アドミラル・ヒッパーに数回の燃料補給を実施。4月末にシュピヘルンはサン・ナゼールへ帰投。

5月18日ドイツの新戦艦ビスマルク重巡プリンツ・オイゲンがゴーテンハーフェンを出撃。大西洋での通商破壊を企図したライン演習作戦を開始する。これを支援するため、5月19日午前11時にシュピヘルンはサン・ナゼールを出港、ゴンツェンハイムとコタ・ピナンが配備されている西グループへ向かった。ビスマルクデンマーク戦で巡洋戦艦フッドを撃沈する戦果を挙げたものの、それが原因でイギリス海軍逆鱗に触れてしまい、しい追撃を受ける羽になる。先の戦で傷だったプリンツ・オイゲン作戦を続行するためビスマルクから分離。5月25日、西グループプリンツ・オイゲンへの燃料補給が最優先事項と命を受け、合流地点であるアゾレス北東460里で待機する。5月26日午前9時6分、燃料が1日分にも満たない160トンにまで減少していたプリンツ・オイゲンが現れ、シュピヘルンから燃料2660トンを供給した。しかし機関に深刻な問題が発生したためプリンツ・オイゲンは結局作戦を断念。6月1日ブレストまで戻っている。ちなみにシュピヘルンが最初に港へ帰投するよう示を受けただったようで、そのおかげでイギリス艦隊による底的な支援狩りから逃れる事が出来た。

1942年9月12日、極東の同盟日本派遣される封鎖突破として出港準備をしていた時にイギリス軍機が投下した爆弾が直撃。急遽出港は取り止めとなった。

10月12日、シュピヘルンは日本に向かうべくビスケー湾を通過していたところイギリス軍機の攻撃を受けて損傷、反転帰投を強いられる。翌13日午前8時45分、のシュピヘルンの左舷約2000mに巨大な柱が築かれると同時に大きな音がいた。同じ方向から魚雷の航跡が見えたため艦長は左舷急進を命じ、魚雷は艦の左舷50m横を貫いていった。中に潜む敵潜水艦に対して10.5cmと37mmによる反撃を開始。雷撃から10分後、爆雷のような音が聞こえてきたのと同時に今度は左舷後方3000mから2本の雷跡が伸びてくる。幸い魚雷は左舷70mをすり抜けた。午前10時45分、味方の掃海艇M24M32、M152が現れて護衛を開始。彼らに守られながら10月14日午前0時31分にサン・ナゼールへ入港した。ちなみにシュピヘルンを雷撃したのは潜水艦ユニークで、雷撃中に魚雷の発射事故を起こして沈没したとされる。

11月8日修理を終えたシュピヘルンはサン・ナゼールを出港。翌9日から11月11日にかけて魚雷艇T19、T13、T22、ファルコンの4隻が護衛につき、危険なビスケー湾を突破するまで付き添ってくれた。ところが魚雷艇が引き揚げた後にイギリス空軍機が襲い掛かり、シュピヘルンは損傷を負ってしまう。辛くも中立スペインエル・フェロルに退避したものの日本行きを断念。ボルドーへと引き返し、1943年1月13日に何とか帰投した。修理に時間を要した事、1943年に入ってからは封鎖突破の成功率が著しく低下した事から、シュピヘルンは封鎖突破任務から外された。

最期と戦後の活躍

1944年8月9日ブレスト停泊中に連合軍の襲を受けて大破。その後も連合軍の執拗な爆撃毎日のように続き、港内の掃海艇やタンカーが次々に撃沈されていく中、もはや脱出もわないシュピヘルンは8月31日に撤退準備中ドイツ軍守備隊によって閉塞として自沈した。

戦後1947年西ドイツのホヴァルツヴェルAG社によってブレスト軍港内に沈んでいたシュピヘルンの残骸が2つに分割されて引き揚げられ、航先のキールで組み立て・修復された。1948年2月リングルス・レデリA/S社が買い取り、1949年5月リングフィエルと改名してノルウェーに復帰。

1955年フランスルーアン造所で5つのハッチと5つの貨物スペースを持ったばら積み貨物船改造される。1960年12月トンベルグのサミート・リングイカー社に売却、名をリングケースに変更する。1962年10月よりフリーフィヨルデンの貯蔵としてノルスハイドロ社に譲渡。1964年2月ブレーメン船舶解体業者エックハルト商会に売却され、翌スクラップとなる。ノルウェードイツを行き来した歴であった。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/10(水) 16:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/10(水) 15:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP