トウケイニセイとは、1987年生まれの競走馬。1990年代の岩手競馬最強馬として君臨し「岩手の魔王」と謳われた名馬である。
主な勝ち鞍
1993年:みちのく大賞典、東北サラ大賞典、北上川大賞典、北日本マイルチャンピオンシップ南部杯、桐花賞
1994年:シアンモア記念、東北サラ大賞典、北日本マイルチャンピオンシップ南部杯、北上川大賞典、フレンドリーカップ、桐花賞
1995年:シアンモア記念、東北サラ大賞典、フレンドリーカップ、桐花賞
父のトウケイホープは岩手競馬で活躍後、種牡馬となったが、僅か数頭の産駒を残し急死。唯一残された牡馬がトウケイ「二世」であった。
小さい頃から病弱だったトウケイニセイ。2歳9月のデビュー戦を楽勝するのだが、直後に左前に屈腱炎を発症。いきなり一年七ヶ月の長期休養を余儀なくされる。この屈腱炎は結局完治せず、運動したらすぐに氷で冷やさなければならないような状況は現役生活を通して続いた。
復帰して、屈腱炎をだましだましのレース生活がスタートする。すると相手関係の軽いところを選んでいるとはいえ連勝がスタートするのである。
勝つわ勝つわの18連勝。これは当時の日本記録であった。しかしながら、一度も重賞には使わない上、強い調教も掛けられていない。連勝が止まって、陣営はようやく重賞を目指してトウケイニセイを鍛え始める。
そして迎えたみちのく大賞典。トウケイニセイは4歳。ここには「岩手の怪物」と言われたスイフトセイダイとグレートホープ、後に生涯のライバルとなるモリユウプリンスが出走してきていた。
しかしレースは圧勝。レコード勝ち。トウケイニセイはここに来てようやく岩手競馬の頂点に上り詰めるのである。
それからはもう「岩手競馬=トウケイニセイ」といった感じであった。みちのく大賞典以来18戦して負けたのは二着が二回あるのみ(勝ったのはモリユウプリンス)。正に無敵。「魔王」トウケイニセイの名は東北中に鳴り響いたのであった。
しかし、全国的知名度はまったく無かった。なにしろトウケイニセイは遠征をほとんどしなかったのである。東北サラブレッド大賞典のために新潟と上山に行ったのみである。足元に爆弾を抱えた馬であるので、慣れない馬場を走らせたくなかったということ、環境の変化に敏感な馬であったということが理由としてはあったらしい。
しかし、1995年。いわゆる交流元年。水沢のマイルチャンピオンシップ南部杯が交流競争になり、そこに当時の中央ダート王ライブリマウントが出走してきたのである。当然、トウケイニセイも迎え撃つ。中央の王者と地元の英雄の対決に岩手県中が沸きかえり、水沢競馬場には大観衆が押し寄せた。
しかしレースでは、直線で抜け出すライブリマウントと高崎のヨシノキングにトウケイニセイは付いて行けない。完敗の3着。ゴールの瞬間、水沢競馬場は異様な沈黙に包まれ、勝ったライブリマウントには拍手一つ飛ばない有様。菅原勲騎手は「トウケイニセイが後一歳若い頃にこのレースがあれば」と悔しがった。なにしろこの時トウケイニセイは8歳だったのである。
連対記録は41でストップ。この時、一つの伝説が終わりを告げたのであった。
トウケイニセイはこの後、引退レースの桐花賞を勝って有終の美を飾った。通算39勝。岩手競馬初の三億円ホース。日本記録の連勝記録、連対記録を手土産に種牡馬入りした。
全盛期のレースは水沢のダートの深さをものともしない力強いフットワークで一気に抜け出す磐石のものであった。レコード勝ちも3度記録。全盛期の強さは確かに破格のものがあった。
しかしながらなにしろほとんど岩手でしか走っていないので、当時の岩手以外の競馬ファンはほとんど彼のレースを見る事が出来ず(競馬チャンネルや動画サイトなんて無いからね)名前は聞こえてくるけどもどんな馬なのかはさっぱり分からない存在であった。その辺が惜しまれる。
しかし、1999年。同じ水沢競馬場所属のメイセイオペラが中央GIのフェブラリーステークスで圧勝。鞍上は菅原騎手であった。この時、菅原騎手がインタビューに答えて曰く「オペラも強くなったが、全盛期のトウケイニセイに比べればまだまだです」とか言ったのであった。この充分に強いメイセイオペラよりも強かったのか、トウケイニセイとやらは!とその時初めて中央周りの競馬ファンは彼の偉大さを知ったのであった。
種牡馬入りしたトウケイニセイではあったが、何しろ岩手競馬の馬であるし、血統的に強調出来るところも無かったので残念ながら成功出来なかった。種牡馬引退後、岩手の馬っこパークに引き取られて余生を過ごしていたのだが、これは全面的に馬主の好意によるものだったらしい(中央じゃないので助成金なんて無い)。
ところが、2011年3月、東北大震災が起こり、馬主も被災。トウケイニセイの飼育が不可能になってしまう。このままではトウケイニセイが危うい。菅原騎手や生産者、調教師などが発起人となり「トウケイニセイ基金」が発足。すると全国から続々支援が集まり、トウケイニセイは廃馬の危機を脱したのであった。
2012年3月6日。東北大震災からおよそ一年後、トウケイニセイは心不全で死亡。25歳。くしくも菅原騎手が騎手引退を発表する直前の事であった。
岩手競馬全盛期を支え、岩手の人々に最後まで愛されたトウケイニセイ。その生涯は、地方競馬の競走馬として理想的なものであったと思えるのである。
トウケイホープ 1976 鹿毛 |
*イースタンフリート 1968 鹿毛 |
Fleet Nasrullah | Nasrullah |
Happy Go Fleet | |||
Amoret | Bull Lea | ||
Mar-Kell | |||
エリモグレース 1972 鹿毛 |
Sassafras | Sheshoon | |
Ruta | |||
*フゼッタ | Ribot | ||
Noblesse | |||
エースツバキ 1975 栗毛 FNo.1-w |
Reform 1964 鹿毛 |
Pall Mall | Palestine |
Malapert | |||
Country House | Vieux Manoir | ||
Miss Coventry | |||
*ヴエスタルファイア 1965 鹿毛 |
Match | Tantieme | |
Relance | |||
Refreshed | Hyperion | ||
Monsoon | |||
競走馬の4代血統表 |
掲示板
9 ななしのよっしん
2022/05/21(土) 01:39:01 ID: ISWwAcwq4b
>>7
遠征適正はお客さん視点だとわかりづらいんだよね、めちゃくちゃ重要なのは当たり前だし、そこは逆説的にトウケイニセイが証明してると言っても良い。
10 ななしのよっしん
2022/08/14(日) 13:30:23 ID: vo4AaO+0Ae
>血統的に強調できるところも~
「なのにこれだけ走った」とはならないのが現実のままならないところだなあ
彼を最後に日本で牡系(フリートナスルーラ系)が一つ消えたとかとか知ると尚更もったいないと思ってしまうのは外野の無責任ゆえか
11 ななしのよっしん
2023/06/18(日) 17:40:14 ID: soV1Gv/65M
https://
自分がきっかけで引退馬支援をする人が増えるのはトウケイニセイも草葉の陰でニッコリ
>>10
これ程の馬をつけない生産者はカスであるとか言わず、悔しいだろうが仕方ないんだ惜しむならいいんジャマイカ?
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最終更新:2024/12/27(金) 08:00
最終更新:2024/12/27(金) 08:00
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