ポール・エルデシュ(Paul Erdős, 1913-1996)とは数学界の妖精さんである。
ハンガリー語による本名はエルドェーシュ・パール(Erdős Pál)。
オーストリア=ハンガリー帝国の片割れであるハンガリー王国の都ブダペシュトで、ユダヤ系の高校数学教師夫妻の間に生まれ、幼少時から数学の英才教育を受ける。幼少時から神童として有名であり、当人によればまだ小さいころに「ママ、負の数をみつけたよ」というのが初の数学的発見らしい。4歳の頃には家族がこれまで何秒間生きてきたか計算できたという。
ブダペシュト大学でかつてフォン・ノイマンらを指導したフェイェール・リポート(Fejér Lipót, 1880~1959)に師事し、21歳で数学博士号を取得、英国のマンチェスター大学で客員講師に就く。4年後には米国のプリンストン大学の奨学生となり、この頃から客員講義と研究のために世界各地の大学や研究所を転々とするようになるのだが、プリンストン高等研究所で働いている間に家族はホロコーストに遭い、隠れて難を逃れた母を除く肉親全てを失ってしまう。
39歳ごろに彼自身の説明不足から米国でのビザ更新が出来なくなったことを切っ掛けに、一旦ワルシャワ条約機構下の母国ハンガリーに戻る。しかしソビエト政府は彼の学術的価値に目をつけ、4年後には一般市民には認められていない自由な出入国を特権的に許可するなど、彼を優遇した。失策に気付いた米国移民局がビザの再取得を許可したのはそれから7年も後のことで、エルデシュが再び米国に拠点を移したのはちょうど還暦を迎えた年であった。
専門は一応数論、組み合わせ論、グラフ理論なのだが、基本的には何でもあり。とにかく面白そうと思った問題にぶつかっては、片っ端から解いていくという人間定理生産機で、生涯関係した論文は約1500を数える。数学史でこれより数が多いのはオイラーだけである(ツッコんだら負け)。
「数学者は変人」というステレオタイプを地で行くド変人であり、とにかく山のように伝説があるが、その一端を紹介すると:
まさしく数学バカ一代であるが、人の心が分からないかというとそうでもなく、むしろ「子供が真似するといけない」と心配するほどの子供好きで、基本的には良識のある大人であった。イプシロンと呼んだり、難問をふっかけたりと、ちょっとばかりやり方が独特なだけで。
上のエルデシュ語からも明らかなように生涯未被捕獲であり、彼のイプシロンもいない。「身体にちょっと問題があって・・・・・・」とは本人の弁である。が、いちおう共同研究者の中には支配人もいるので、支配人が苦手だったというわけでもなかっただろうが、少なくとも夫婦生活向きの人物とも想えないので、致し方無いところであろう。
最期はポーランドのワルシャワでの学会の最中に心臓発作で倒れ、そのまま逝去。享年83。数学と旅に生きた男の締めくくりに相応しい幕引きであった。ブダペシュトの両親の隣で眠る彼の墓碑には「口の回らぬほど愚かになりゆく自分を、やっと止められた」(Végre nem butulok tovább)と刻まれている。・・・・・・願わくはSFの下に参りし彼に真理の至福の有らんことを。
掲示板
20 ななしのよっしん
2020/03/20(金) 03:14:59 ID: UHiZ+ONIOn
件の女史が奢り昂った数学者共に一泡吹かせた事が痛快であったとしても、功績が色褪せることはない。数学という学問の構造上、この世に数学がある間は、ずっと価値がある。
21 ななしのよっしん
2021/02/01(月) 13:51:55 ID: qEJZz9ob86
ミスだろうから報告しておくけど
記事中に「エルドシュ」と書いている箇所があるので
「エルデシュ」に修正よろしくお願いします。
22 k
2021/11/17(水) 15:56:17 ID: AMQrklN3rO
モンティ・ホール問題について、エルデシュの場合は、同僚の数学者が彼に問題を出してひっかかった、というだけ。同僚の数学者がそれを書いたから有名になったんだよ。例えばここに書いてある:
https://
雑誌で反論してた数学者は、エルデシュではなくて別の人だったと思う。
論争の元になったコラムは読んだことあるけど、ざっくりした書き方だから、テレビ番組を知らない人は条件読み取れないぞ。
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最終更新:2025/12/06(土) 16:00
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