マイク・ライトナー(Mike Leitner)
とは、オーストリア出身の元・MotoGPライダーで、KTMワークスの関係者である。
ダニ・ペドロサのクルーチーフを長年務めたことで知られている。
「マイク・レイトナー」と表記する日本語記事も多く、表記揺れが起こっている。
1962年9月28日に、オーストリアのバート・イシュル
で生まれた。ここはザルツブルグに近く、レッドブルの本社やKTMの本社からも近い。
若い頃はバイクレーサーで、1986年(24歳)にはヨーロッパ選手権125ccクラスでランキング3位になった。翌年からMotoGP125ccクラスに参戦しており、1987年(25歳)はランキング10位になっている。
1987年(25歳)の成績は以下の通り。
使っていたマシンは2種類で、第2戦と第4戦はBartolというマシンを使っていて、それ以外はMBAというモルビデリ
(イタリアのバイクメーカー)のマシンを使っていた。
Bartolというのはオーストリアの名物技術者ハラルド・バートル
が作ったマシンである。ハラルド・バートルは宇井陽一
のチームの開発責任者を務めていたので日本人ファンにはおなじみの名前だろう。2003年から2009年までKTMに在籍して、テクニカルディレクターを務め、こんな感じの人相で
インタビューに答えていた。KTMは2007~2009年にマルク・マルケスへマシンを供給していたのだが、そのときの責任者がやはりバートルで、この本
の65ページ以降に名前が出てくる。
1988年(26歳)と1989年(27歳)と1990年(28歳)は大きく成績を落とした。1988年の最高成績はオーストリア・ザルツブルクリンクの5位で、それ以外は1度もポイントを取れなかった。1989年の最高成績はスウェーデン・アンデルストープサーキットの12位で、それ以外は1度もポイントを取れなかった。1990年の最高成績はスペイン・ヘレスサーキットの19位。
1991年からはMotoGPのメカニックとして働いた。1992~1993年は250ccクラスのTeam Baumanでクルーチーフとして働いた。
1994~1997年はHB and Marlboro teamというホンダ系の格の高いチームで働くようになった。このときはラルフ・ウォルドマン
というドイツ人ライダーがいて、1994年から1997年までのランキングは5位・3位・2位・2位であり、まさしく一流の成績だった。特に1996年はチャンピオンのマックス・ビアッジとの差が僅か2ポイントだった。このときのメカニックがマイク・ライトナーである。
1998年にラルフ・ワルドマンが他のチームに移籍するのに伴い、マイク・ライトナーもチームを離れ、Team Stappertというホンダ系チームに移籍してステファノ・ペルジーニ
とともに働いた。ペルジーニは3位表彰台を2回獲得している。このチームはオーストリアのディーター・スタッパート
という人が作ったチームで、マイク・ライトナーにとっては同郷の人に誘われたという形となる。
1999年以降のTeam StappertはTeam Aprilia Germanyと名前を変えて、アプリリア系のチームになった。マイク・ライトナーは引き続き残留し、500ccクラスから出戻りしてきたラルフ・ウォルドマンと再び組んだ。2000年のラルフ・ウォルドマンはスペインGPとイギリスGPで優勝している。2001年はジェレミー・マクウィリアムス
と組み、マクウィリアムスのオランダGP優勝に貢献している。
2002年と2003年はオーリンズ
(スウェーデンのサスペンション企業。金色~黄色の塗装が目印
)に就職し、MotoGPの各チームに出向してスタッフになっていた。125ccクラスの名門であるチームアスパーや、最大排気量クラスのヤマハサテライトであるTech3に出向していた。
2004年からダニ・ペドロサのクルーチーフになった。2003年のダニは18歳で125ccクラスのチャンピオンになっており、2004年からは250ccクラスへ移ろうとしていた。
マイク・ライトナーは250ccクラスのホンダのマシンに詳しく、腕も非常に良いので、ダニ・ペドロサの指導者であるアルベルト・プーチに誘われたのである。
期待通りに手腕を発揮し、ダニ・ペドロサの快進撃を支えた。2004年と2005年は250cクラスで2年連続のチャンピオンに輝いている。
2006年にダニ・ペドロサが最大排気量クラスのレプソルホンダに移ったときも、マイク・ライトナーは一緒について行き、クルーチーフとしてダニを支え続けた。
2014年の暮れに、ダニ・ペドロサのクルーチーフの座を退き、さらにはホンダを退職した。
2015年1月、生まれ故郷のオーストリアに本社があるKTMに就職したことが発表された。
2017年からKTMワークスがMotoGP最大排気量クラスに参戦し始めたが、マイク・ライトナーがチーム監督を務めることになった。
2018年7月12日に、ダニ・ペドロサが引退を表明した(記事
)。ダニの元にはテストライダーとしての勧誘がすぐに集まっていたが、その中にはKTMワークスからのものも含まれていた(記事
)。
2018年10月18日、ダニ・ペドロサがKTMワークスのテストライダーに就任することが発表された(記事
)。
2017年の時点のKTMのマシンは相当に悪いものだったとポル・エスパルガロが語っている(記事1
、記事2
)。マイク・ライトナーや技術者たちはそうしたマシンを改善していき、2020年になってKTMのマシンが3勝を挙げ、2021年はKTMのマシンが2勝を挙げるようになった。
ただ、マイク・ライトナー自身も2021年秋の時点で59歳になっていた。そろそろチーム監督を交代させるべきだということになり、2022年からフランチェスコ・グイドッティ
がKTMワークスのチーム監督になり、マイク・ライトナーは「レース・マネージャー」という肩書きになって相談役といった感じの立ち位置になり、閑職になった。
ちなみに、2021年11月頃になってフランチェスコ・グイドッティにKTMワークス入りを奨めたのはマイク・ライトナー自身である(記事
)。
マイク・ライトナー自身はだいぶ技術的に詳しい人物で「技術者の一員」といった感があり、「チーム監督らしいチーム監督」というわけではなかった(記事
)。ライダーにとっては、技術的に詳しい話をせずにライダー心理を重視する「チーム監督らしいチーム監督」がいた方が気が楽である。後任のフランチェスコ・グイドッティは「チーム監督らしいチーム監督」といえるので、この交代でKTMワークスの雰囲気がやや変化すると思われる。
マイク・ライトナーとKTMの間の契約は2022年までである。
2014年のMotoGP最大排気量クラスパドックには、ある流行が起こっていた。
ヴァレンティーノ・ロッシは14年間連れ添ったクルーチーフのジェレミー・バージェスを2013年11月に解任し(記事
)、後任にシルヴァーノ・ガルブゼラを起用した。するとその起用がズバリ当たったのか、2014年シーズンのロッシは大方の予想を覆して2013年より成績を良化させた。
これを見たホルヘ・ロレンソとダニ・ペドロサは、ロッシの行動に影響されたらしく、長年連れ添ったクルーチーフを解任して新しいクルーチーフを雇おう、と考え始めた。
ホルヘ・ロレンソには2008年から6年連続で組んでいるラモン・フォルカダというクルーチーフがいたが、当時ホンダで働いていたクリスチャン・ガバッリーニに熱心に声をかけた(記事
)。ところがガバッリーニには丁重に断られてしまい、結局ホルヘはラモン・フォルカダを続任させた。
ダニ・ペドロサの方はというと、ファン・マルチネス
(ドゥカティワークスでニッキー・ヘイデンのクルーチーフを務めていた。スペイン人)や、アントニオ・ヒメネス
(グレッシーニレーシングのベテランクルーチーフ。スペイン人)に声をかけていたらしい(記事1
、記事2
、ライディングスポーツ2014年11月号)
良さげな人物を一通り探し回ってみたものの、なかなか理想の人物を捕まえられない。ダニの心は「やっぱり、マイク・ライトナーと一緒に続けた方がいいかな・・・」という風に変わり、結局、2014年10月には、ホンダと連名でサインをして、マイク・ライトナーに正式に続任を要請した。
するとなんと、苦渋の表情を浮かべながらマイク・ライトナーが「有難いことですが・・・休養をとりたいと思います・・・」と言い出した(記事
)。レプソルホンダからのオファーを断るなんてただ事ではない。レプソルホンダは給料が高いとされているし、職場環境も非常によい。
このことは即座にパドックの間を駆け巡り、「生まれ故郷のKTMに移籍するのでは」と噂された。
2015年1月、案の定、マイク・ライトナーがKTMワークスの監督に就任することが発表された(記事
)。
下世話な表現をしてダニには申し訳ないのだが、「浮気しようとしていたら彼女に逃げられた」としか言いようのないことになってしまった。
この痛ましい事件から3年半後、ダニ・ペドロサはレプソルホンダのアルベルト・プーチ監督から「2019年のライダー契約を結ばない」と通告されてしまう(記事
)。
それから1ヶ月後、ダニは現役引退を発表した(記事
)。
それと同時にKTMワークスのマイク・ライトナー監督からダニに連絡が来るようになり、10月にダニはKTMワークスのテストライダーに就任することを発表した(記事
)。
まさしく「捨てる神あれば拾う神あり」という表現がぴったりの移籍劇となった。
マイク・ライトナーを慕って、数人のスタッフがレプソルホンダからKTMワークスへ移籍していった(記事
、ライディングスポーツ2018年1月号)。「KTMのマシンはエンジン音やら何やらホンダのマシンによく似ている」とG+解説者の宮城光さんが述べているが、そこにはマイク・ライトナーの影響があるのだろう。
2015年1月から2021年12月までの7年間で、ピット・バイラーとともに人脈を活かし、40~50人ほどを引き抜いたという(記事
)。ドゥカティにいたファビアーノ・ステルラッキーニ
やアプリリアにいたマルコ・ベルトラッティ
といった名物技術者を引き抜いたことにも深く関与した(記事
)。
Leitnerはドイツ語圏だとライトナーと読む。eiをアイと読むのがドイツ風。Heinrich(ハインリッヒ)、Schneider(シュナイダー)など。
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最終更新:2025/12/06(土) 04:00
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