サンティ・エルナンデス 単語

サンティエルナンデス

1.2万文字の記事

サンティ・エルナンデスexitとは、MotoGP車両整備員である。

レプソルホンダに所属し、マルク・マルケスチームクルーチーフを務めている。
  

風貌、本名

をたくわえている。このページexitで右から4番に位置している。


本名はサンティアゴ(Santiago)。サンティアゴはスペインで多く見られる男性名で、ヤコブという意味。Santo(なる)とIago(ヤコブ)が合体してできた。

ヤコブというのはキリスト教の守護聖人で、元・漁師である。9世紀頃に遺体スペイン北西のこの場所exitで偶然に見つかったとされる。このため「スペインの守護聖人」とされ、スペイン人に大人気である。
 

略歴

若い頃はバイクにあまり興味が無かった

1975年11月18日に、スペインカタルーニャ州バルセロナサンタ・クローマ・ダ・グラマネートexitで生まれた。

父親レースバイクメカニックで、バイクレーサーだった。アレックス・クリヴィーレexitと一緒に1980年代スペインレースに出場していた。まだ若かったサンティの付き添いでサーキットに行っていたのだが、そのときはバイクを積んだクルマの中で寝泊まりしていた。バイクに挟まれながら寝ていたらしい。

には多くのバイクがあったのだが、若い頃のサンティはあまりバイクを好まず、サッカーの方が好きだったという。

とはいえ、バイクレースをする機会を与えられ、スクーターでのレースをしたことがある。のそうした布教が功を奏したのか、サンティバイクレースに対する興味が湧いてきたようで、バイクレースメカニックになるためTechnical College(技術系の単科大学)に進学した。
 

サスペンション・スタッフとして働く

1996年、20歳のころからショーワexitの一員となって働き始めた。同社は埼玉県行田市に本社があるサスペンションメーカーで、ホンダと関係が深い。ショーワに所属しつつ、MotoGPなどのレース現場に出張し、チームの一員になりきるのである。このときにサンティと同じような仕事をしつつサンティ教育していたのは、ファン・マルチネスexitドゥカティワークスニッキーヘイデンクルーチーフを務めた)やアントニオ・ヒメネスexitグレッシーニレーシングベテランクルーチーフ)である。


1999年1月からレプソルホンダ入りして、アレックスクリヴィーレのサスペンションスタッフとなった。この年、アレックスは見事に最大排気量クラスチャンピオンを獲得している。サンティはまだ23~24歳の若手だったのだが、しっかりと大役を果たした。こちらの写真exitに、当時のサンティが映っている。アレックスクリヴィーレ(帽子を被ってマシンにまたがっている男)の後ろにいる。このときは、まだを生やしていなかった。

アレックスクリヴィーレは2001年シーズン限りでレプソルホンダを離れていった。2002年から2003年までのサンティは、同じレプソルホンダヴァレンティーノ・ロッシチームに入り、サスペンションスタッフとして働いている。

2004年2005年のサンティは複数のホンダチームに出入りして、様々なホンダライダー支援をした。マックス・ビアッジマルコメランドリ、セテ・ジベルナウ、コリン・エドワーズといった面々とともに仕事をした。
 

クルーチーフになり、色んなチームを渡り歩く

2006年2007年のサンティは、アルベルト・プーチに誘われて125ccクラスチームに入り、プーチの門下生であるブラッドリー・スミスexitクルーチーフとなった。

2008年125ccクラスKTMワークスに移り、ランディ・クルメナッハexitクルーチーフを務めた。

2009年は最大排気量クラスに復帰したセテ・ジベルナウexitクルーチーフとなった。ところが、このときはリーマンショック不景気まっただ中であった。セテの所属するオンデ2000exitというチームからスポンサーが撤退し、僅か6戦しただけででレース活動が中止になった。

2010年Moto2クラスに移り、フォワードレーシングexitジュール・クルーセルexitクルーチーフを務めた。この年のジュールクルーセル優勝1回・3位1回と、なかなかの好成績を残している。
 

マルク・マルケスと出会い、マルクの右腕となる

2010年マルク・マルケスマネージャーを務めるエミリオ・アルサモラexitに誘われた。

マルク・マルケス2010年125ccクラスチャンピオンになっていたのだが、そのときの所属チームアジョ・モータースポーツフィンランドに本拠地がある。チーム監督アキ・アジョexit)だった。

スペイン至宝マルク・マルケスは、スペインを本拠地とするチームで走らせたい」と思ったエミリオ・アルサモラは、一からMoto2クラスチームを作ることを決意した。エミリオ・アルサモラはサンティ・エルナンデスを呼んで「一緒にチームを作ろうじゃないか。初年度からチャンピオン争いをして、2年チャンピオンになるんだ」と誘った。

サンティは「正気の沙汰じゃないよ・・・ でも、正気の沙汰じゃないところが気に入った。手を貸そう」と言って、要請を承諾したという。この本exit101ページに、そのやりとりが書かれている。

一からチームを作るためには、色んなチームからメカニックを引き抜かねばならない。その引き抜きはサンティ力となって行ったらしい。サンティの人物観察眼は良好で、このとき集めたメンバーが、2019年マルク・マルケスチームに多く残っている。

ミリオ・アルサモラの言うとおりに、マルク・マルケス2011年Moto2クラスランキング2位になり、2012年Moto2クラスチャンピオンになった。

2013年マルク・マルケスは最大排気量クラスに移り、レプソルホンダに所属することになった。このとき、サンティ・エルナンデスも一緒にレプソルホンダへ移籍してクルーチーフとなった。2019年現在も、クルーチーフの座を揺るぎないものとしている。

マルク・マルケスからの信頼は絶大で、「サンティがいないと、物事は何も始まらない」と言っている(ライディンスポーツ2018年2月号)。


※この項の資料・・・記事1exit記事2exit記事3exit
 

部下

メカニック(マシンを組み立てる人)

1981年8月10日生まれのスペイン人。

カステーリャ(Castellá)は、スペイン語の「Castillo)」と同じ語

「ちょっとくせっ毛のある金髪」と覚えておくとわかりやすい。このページexitで左から3番に位置している。この画像exitの一番右、この画像exitマルク・マルケスの隣にいる。

マルク・マルケスからは「コメディアンのような人。チームムーメーカー」と評されている(ライディンスポーツ2018年2月号)

この記事exitマルク・マルケスから「ジョルディ・カステーリャとホセ・ルイス・マルチネスexitマルク練習相手になっているモトクロス選手)はチームで最もtardyだ」と評されている。tardyは「動作が遅い」という意味もあるが、ここでは「時間に遅れる、時間を守らない」という意味が文脈上正しいと思われる。ちょっと前の文章で「ロベルト・クレリッチは時間厳守だ」と書いてある。


モンラウ技術学校出身。同校はTeam Monlauの記事に詳細がある。

マルク・マルケスとは2006年カタルーニャ選手権参戦時以来の付き合いである。この本exitの62ページから登場している。

2007年マルク・マルケスCEV(スペイン選手権)の125ccクラスKTMマシンに乗って参戦したのだが、そのときのマルクの体重は僅か43kgだったので21kgの重りを積む必要があった。KTM技術者に「理だ」と言われたが、ジョルディたちはどうにかこうにか工夫して重りを積み込み、理矢理レースに出場していた。重たい重りを乗せて走るため、転倒したときはマシンが壊れやすい(慣性が増して、マシンが減速しにくくなる)。マルクが転倒するたびに、ジョルディたちが必死に修復していた。

2008年マルク・マルケスMotoGP125ccクラスに参戦した。ジョルディもマルクに同行し、「レプソルKTM」というチームに所属していた。

2009年2010年マルク・マルケスの元から離れている。2009年ポンスレーシングexit125ccクラス部門である「ジャックジョーンズチーム」に所属。2010年ポンスレシングMoto2クラス専門チームになったのでそのチームに所属。

2011年に、サンティ・エルナンデスに招集され、マルク・マルケスMoto2クラスチームに入った。2012年も所属し、マルクMoto2クラスチャンピオン獲得に貢献。

2013年マルク・マルケスは最大排気量クラスレプソルホンダに移籍した。ジョルディも移籍するはずだったが、レプソルホンダ側に「マルクは1年だし、最大排気量クラスマシンに習熟したスタッフが良いだろう」と断られた。マルクには「チャンピオンになったら好きなスタッフを呼んで良い、と中本修平HRC副社長に言われたんだ。すぐチャンピオンになるから、他のチームで待っていてくれ」と言われ、ジョルディはTeam Monlauにいき、アレックス・マルケスexitマルク・マルケス)のメカニックになった。

2013年ルーキーイヤーで最大排気量クラスチャンピオンになったマルク・マルケスはすぐにジョルディを呼んだ。2019年現在もジョルディはレプソルホンダに在籍している。
 

1986年7月19日生まれのスペイン人。

を生やしている。マルク・マルケスチームを生やしているのはサンティ・エルナンデスと彼だけなので、見分けやすい。このページexitで左から4番の位置に立っている。この画像exitではマルク・マルケスの右肩の後ろに位置している。この画像exitではパルフェルメの内側で座っている。

マルク・マルケスからは「チームで一番細かいところまでチェックする人。一度は完璧と判断しても、まだ何かを探している」と評されている(ライディンスポーツ2018年2月号)。

この記事exitマルク・マルケスから「サンティ・エルナンデスとハヴィエル・オルティスはチームで最も責任感が強い」と評されている。


モンラウ技術学校出身。同校はTeam Monlauの記事に詳細がある。

20082010年レッドブルルーキーズカップ(若手育成選手権)でメカニックをしていた。2011年にサンティ・エルナンデスに呼ばれ、マルク・マルケスチームに入った。

2013年マルク・マルケスレプソルホンダ入りするときはマルクに随伴できず、Team Monlauにいき、アレックス・マルケスexitマルク・マルケス)のメカニックになった。

2014年マルク・マルケスに呼ばれ、レプソルホンダ入りして、2019年現在も在籍している。
 

1974年5月15日スペインカタルーニャ州バルセロナで生まれた。

マルク・マルケスチームにはカルロス・リニャンを含めてメカニックマシンを組み立てる人)が5人いる。その5人の中でカルロス・リニャンがまとめ役になっている。メカニック班の班長、といった感じ。

このページexitで左端に立っている。この画像exitマルク・マルケスの左肩の後ろにいる。この画像exitで画面の左端にいる。この画像exitで左から2番にいる。


マルク・マルケスから「いっつも笑ってる。笑顔の人だね」と評されている(ライディンスポーツ2018年2月号)

この記事exitマルク・マルケスから「カルロス・リニャンはチームの中で最もcheeky」と評されている。cheekyとは「生意気な、図々しい、厚かましい」という意味。



モンラウ技術学校出身。同校はTeam Monlauの記事に詳細がある。学校が設立されたのが1997年だから、カルロス・リニャンが卒業したのは1997~2002年の中のどこかだろう。初期の卒業生ということになる。

2003年からMotoGPで働き始めた。

2003年125ccクラスのデルビワークスで、エミリオ・アルサモラexitメカニックを務めた。エミリオにとって2003年が現役最終年となった。2004年は同じチームアンヘル・ロドリゲスexitメカニック

2005年から2007年までは125ccクラスKTMワークスに在籍した。2005年2006年フリアン・シモンexitメカニック2007年小山知良exitメカニック

2008年MotoGPからすこし離れ、ヨナス・フォルガーexitの世話をした。

2009年MotoGPの最大排気量クラスに移り、オンデ2000exitというチームに所属してセテ・ジベルナウexitメカニックになったが、このときはリーマンショック不景気まっただ中であった。チームからスポンサーが撤退し、僅か6戦しただけででレース活動が中止になった。カルロス・リニャンはすることがなくなったので、出身校のモンラウ技術学校に戻り、同校のCEV(スペイン選手権)参戦チームメカニックになった。

この2009年オン2000在籍時に、サンティ・エルナンデスと出会って一緒に仕事をしている。

2010年もモンラウ技術学校CEV参戦チームで働いていたら、2010年にサンティ・エルナンデスから誘われて、マルク・マルケスMoto2クラスチームに参入することになった。

2013年マルク・マルケスが最大排気量クラスレプソルホンダに移籍するとき、一緒について行くことができたのはサンティ・エルナンデスとカルロス・リニャンの2人だけである。

2019年レプソルホンダに在籍している。
 

イタリア人。愛称ジネト(Ginetto)ジネトを画像検索するとワインの画像が少し出てくるexit

このページexitで左から2番の位置に立っている。ちょっと小柄であり、この画像exitでもそのことがわかる。この画像exitで、最前列に座っている。

マルク・マルケスから「チームハード。本当にいい人で、彼とは喧嘩ができないんだよ」と評されている(ライディンスポーツ2018年2月号) ※ハードとはハードウェアという意味だろう。

この記事exitマルク・マルケスから「ロベルト・クレリッチチームの中で最も時間厳守の人だ。ただし、職場に時間通り来るっていう意味じゃなく、職場から時間通り出て行くって意味だけどね」と評されている。


ドゥカティワークスに長年在籍していた。2006年終戦バレンシアGPでワイルドカード参戦のトロイ・ベイリスexit優勝したが、そのときにメカニックを務めている。

2007年からケーシー・ストーナーメカニックを務めた。2007年カタルーニャGPのこの動画exitでは、若いときのクレリッチの姿が映っている。

2011年にケーシーレプソルホンダへ加入するとき、ドゥカティワークスケーシー・ストーナーチーム全員引き連れて移籍した。「チームは、にとって家族のようなものだ。全員引き受けてくれないのなら、移籍しない」と言い、中本修平HRC副社長も仕方なく了承していた。その中に、ロベルト・クレリッチも含まれていた。

2012年をもってケーシー引退した後は、ケーシー・ストーナーチームがそのままマルク・マルケスチームになった。ロベルト・クレリッチマルク・マルケスメカニックとなった。

2013年マルク・マルケスが最大排気量クラスチャンピオンになり、中本修平HRC副社長に「Moto2クラス時代のスタッフを自分のチームに呼び寄せたい」と言い、中本修平HRC副社長も了承していた。このとき呼び寄せられたのがジョルディ・カステーリャ(メカニック)、ハヴィエル・オルティス(メカニック)、ゲラルド・ブッチャー(テレメトリースタッフ)の3人である。マルク・マルケスチームブルーノレオーニ(メカニック)、フィリッポ・ブルネッティメカニック)、ジュリオ・ナヴァ(テレメトリースタッフ)の3人は解雇され、ホンダ系のサテライトチームへ移籍していった。

ところが、ロベルト・クレリッチ解雇されずにすみ、2014年以降もマルク・マルケスチームに残留することになった。2019年現在レプソルホンダに在籍している。
 

イタリア人。

この画像exitで、マルク・マルケスの手前に座り込んでいる。

ロベルト・クレリッチと経歴が酷似している。ドゥカティワークスに在籍していて、セテ・ジベルナウやトロイ・ベイリスケーシー・ストーナーメカニックだった。ケーシー・ストーナーとともにレプソルホンダへ移籍して、ケーシー引退後はマルク・マルケスチームに入った。2014年スタッフ入れ替えの時も解雇されずにすんだ。

2015年を限りに、個人的な理由から(イタリア語per motivi personali これを訳するとfor personal reasons)、レプソルホンダを退職した。本人はレプソルホンダでの生活満足してしまい、決まり切った日常生活のようになってしまったから、とこの記事exitで語っている。

2016年スーパーバイク世界選手権のアルテアレーシングexitというイタリアチームに在籍した。2017年からはCIV(イタリア選手権)exitで働いている。
 

このページexitで右から2番の位置に立っている。この動画exitで、パルフェルメの内側にいてマルク・マルケスを抱擁している。集合写真にも映っていて、すぐにわかる(画像1exit画像2exit画像3exit

ドルナの国際中継映像にも頻繁に映っているexit

ホンダ制作のインタビュー動画に登場しているexit

マルク・マルケスから「彼は日本人として生まれたけれど、今はもうチームの力でスペイン人になっちゃったんだ」と評されている(ライディンスポーツ2018年2月号)


2004年ホンダに入社した。4輪のメカニックをしていた時期もある。2016年から、アンドレア・ブルネッティの代わりとして日本からマルク・マルケスチームに送りこまれた。

既婚者であり、2016年9月にパパとなったらしいexit
 

テクニカルスタッフ(ホンダから送り込まれる技術相談員)

  • 松原明(まつばら・てるあき)

ホンダからマルク・マルケスチームテクニカルスタッフとして送り込まれている。テクニカルスタッフとは、ライダーホンダ渡し役である。技術的に困ったときの相談窓口であり、マシンについて最も詳しい人と言ってよい。

このページexitで右端に位置している。集合写真にも映っている(画像1exit画像2exit

この動画exitにちょっと映っている。

マルク・マルケスから「いつもすべてを確認して、みんなを落ち着かせる。困難なときに冷静に考える人」と評されている(ライディンスポーツ2018年2月号)

2008年鈴鹿8耐におけるホンダ営のプロジェクトリーダーだった。このページexitに登場している。この年は見事にホンダ勢が優勝しているexit

2011年アンドレア・ドヴィツィオーゾテクニカルスタッフとして働いていた。

2013年マルク・マルケス最大排気量クラスルーキーイヤーのときから、マルク・マルケスチームに参加している。
 

テレメトリー(走行情報収集)

愛称はウゴ(Hugo)。ウゴ・ブッチャー(Hugo Bucher)exit検索しても画像がヒットする。

1963年1月1日生まれのドイツ人で、テレメトリースタッフ。テレメトリーとはマシンの走行情報を収集・分析することをいう。パソコンにらめっこする役割の人と言える。

このページexitで右から3番に位置している短の人。この画像exitで、ばっちり映っている。この画像exitマルク・マルケスの背後に立ち、レッドブルを持っている。

2018年ワールドカップロシア大会でスペインは決勝トーナメント1回戦でロシア対決PK戦までもつれ込んでいた(スペインの選手がPKを外し、スペインが敗退している)。そのときの動画はこちらなのだがexit、右端にゲラルドが映っている。


1993年MotoGP125ccクラスダーク・ラウディス(ドイツ人。1993年125ccクラスチャンピオン)exitメカニックマシン組み立て)を務めていた。このとき、ダーク・ラウディスから付けられた愛称イグナーツ(Ignaz)だった。

1994~1996年も引き続き125ccクラスメカニックを務めた。1997年からテレメトリースタッフに転じた。1997~1998年250ccクラス1999年以降は最大排気量クラスに在籍するようになった。

最大排気量クラスダンティーンというスペインを本拠地とするチームがあった。そのチームゲラルドは移籍したのだが、本名の「ゲラルド」や愛称の「イグナーツ」はスペイン人にとって発音しにくいものだった。チームオーナールイス・ダンティーンexitから、スペイン人にも発音しやすい「ウゴ(Hugo)」という愛称を与えられることになった。※この記事exitが資料

2003年も引き続きダンティーンに在籍していたのだが、その年に中野真矢がチームに加入してきた。そのためゲラルドは中野真矢のスタッフになった。ダンティーンは2003年をもって解散することになったので、2004年中野カワサキワークスへ移籍するとき、ゲラルドも一緒について行った。

中野真公式サイトこのページexitゲラルドの事が紹介されている。「仕事をしている時は必要以上にはあまり話さない人ですが、何かアドバイスをくれる時はとても的確で、時々自分でも『おっ』と気付かされることがあります。結構頑固なおじさんなので、皆によくからかわれていますが、彼を知れば知るほど魅力を感じます

中野真矢は2006年限りでカワサキワークスを退団したが、ゲラルドはカワサキワークスに残留した。カワサキは2009年1月9日、リーマンショックによる不景気を理由にMotoGPから撤退したのだがexit、そのときドルナが介入し、ハヤテ・レーシングexitというチームが作られた。このチームカワサキワークスの残党によって構成され、カワサキマシンを使っていた。ゲラルドもハヤテ・レーシングに在籍した。

2010年になるとハヤテ・レーシングフォワードレーシングexit名前を変え、Moto2クラスに参戦するようになった。このときクルーチーフとしてチームにやってきたのが、サンティ・エルナンデスである。

2011年にサンティ・エルナンデスがMoto2クラスマルク・マルケスチームを立ち上げるとき、ゲラルドもサンティに誘われたので参加した。2011年2012年の2年間はマルク・マルケス仕事をした。

2013年マルク・マルケスが最大排気量クラスレプソルホンダに移籍するとき、レプソルホンダに加入できなかったので、Team Monlauアレックス・マルケスexitマルク・マルケス)のチームに入った。

2014年マルク・マルケスに呼ばれてレプソルホンダ入りし、2019年現在も在籍している。
 

電子制御

イタリア出身の電子制御スタッフエンジンの出力をコンピュータで制限し、マシンが暴れることを防ぐのが彼の役である。パソコンにらめっこする係の人であり、ノートパソコンを持ってスターティンググリッドなどで立っている姿を多く見かける。(画像1exit画像2exit


このページexitで一番背が高い人。とにかく背が高いので集合写真でもすぐにわかる。(画像1exit画像2exit

この記事exitマルク・マルケスから「カルロルッツィはチームの中でも一番の大飯喰らいだ、よくご飯を食べる」と評されている。

2014年9月結婚している。(画像1exit画像2exit画像3exit


もともとヤマハワークスに所属する電子制御スタッフだった。2007年以前はコリン・エドワーズの電子制御スタッフとして働いている。

2008年2009年は、ヤマハワークスに移ってきた新人ホルヘ・ロレンソの電子制御スタッフ2009年カタルーニャGPの動画でexitノートパソコンを持ってホルヘ・ロレンソのそばにいる姿が映っている。

2009年シーズン末にホンダに引き抜かれた。2010年レプソルホンダアンドレア・ドヴィツィオーゾの電子制御スタッフとして働いている。

2011年からはケーシー・ストーナーチームに入った。ケーシー・ストーナーレプソルホンダにやってきたとき、大勢のスタッフを引き連れてチームまるごと移籍した。ケーシーは「チーム家族のようなものだ。チームごと受け入れてくれないなら移籍しない」と言っていて、これをレプソルホンダも許諾したのである。しかしながら数少ない例外の1人としてケーシーチームに入ったのが、カルロルッツィである。

2012年にケーシー引退したら、マルク・マルケスチームに入った。2019年現在レプソルホンダマルク・マルケスチームに在籍している。


カルロルッツィというと「2009年シーズン末のヤマハワークス電子制御スタッフ流出事件」の当事者である。この事件はMotoGP業界を震撼させ、現在もなお語りとなっている。

2009年シーズン末、レプソルホンダヤマハワークスの電子制御スタッフを3人引き抜いた。引き抜いたのはカルロルッツアンドレア・ズーニャ(Andrea Zugna)クリスチャンバッタリア(Cristian Battagliaである。

このうちアンドレア・ズーニャは電子制御の分野の天才だった。この本exit_nicoichibaの230ページジェレミー・バージェスが「2008年ヤマハが最大排気量クラスチャンピオンを獲得できたのは、古沢政生アンドレア・ズーニャを信頼したからだ」と言い、古沢政生も「アンドレア・ズーニャはじつに頭が良く、天才と言っていい。ヤマハマシンの電子制御開発は、彼のおかげと言っていい」と絶賛している。

クリスチャンバッタリアも電子制御に関して素晴らしいを持っていた。

アンドレア・ズーニャクリスチャンバッタリアは、特定チームに所属せず、ホンダの電子制御スタッフとして働くようになった。アンドレア・ズーニャ2019年現在ホンダで働いている。2017年のこの動画でexitホンダ所属として紹介されている。

クリスチャンバッタリアホンダを退職してプラマックレーシングに移籍し、ダニロ・ペトルッチの電子制御スタッフになった。2019年ダニロ・ペトルッチドゥカティワークスに移籍するとき、クリスチャンバッタリアも一緒にドゥカティワークスに移籍した。この記事exitでそのことが書かれている。


2018年のころは、ヴァレンティーノ・ロッシが「ヤマハは電子制御の分野で遅れている」と言していた。このため、約9年前の電子制御スタッフ流出事件のことを挙げて、「あのとき、アンドレア・ズーニャの流出を防いでおけば良かったのに」という論調で書く記事がちらほら見られた。
  

その他の雑記

2014年イギリスGPのとき、マルク・マルケスチームの面々が小芝居動画を作っている。この動画exitに、どこかで見た顔の人が次々と出てくる。一番最初はカルロス・リニャン、2番ロベルト・クレリッチ、3番にサンティ・エルナンデス。

マルク・マルケスは転倒が多い。この記事exitを見ても、マルク・マルケスの転倒の多さがわかる。転倒するたびにメカニックたちは必死に修復しており、場合によっては徹夜を強いられることがある。マルク・マルケスを1勝させるために、かなりの苦労をしている。

マルク・マルケス優勝するたびに、マルク・マルケスチームスタッフピットウォールスタンドのあたりで円を組んでお祭り騒ぎをする。

マルク・マルケス勝利すると、マルク・マルケスチームスタッフの手によって胴上げされる。そのときの胴上げはうつ伏せ胴上げであるexit。ライディンスポーツ2017年12月号で遠藤智さんが報ずるところによると、もともとはごく普通胴上げだったが、ホンダの心配性な人が「でも打ったら大変だ」と言いだした。その人の言うことも正論だったので、うつ伏せ胴上げに変更されたという。
 

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