マリア・テレジア(マリーア・テレーズィア、Maria Theresia)は、ドイツ語の女性名である。特にトスカーナ系ハプスブルク家(ハープスブルク=ロートリンゲン家、Haus Habsburg-Lothringen)の男系長女に洗礼名として付けられ、以来周辺諸侯の女性にも付けられている。イタリア語およびポルトガル語ではマリーア・テレーザ(Maria Teresa)、スペイン語ではマリア・テレサ(María Teresa)、フランス語ではマリー・テレーズ(Marie Thérèse)。
ここでは、オーストリアおよび神聖ローマ帝国の「女帝」(正式には皇帝にはなっていないが、実質オーストリアの君主として振る舞った)であり、トスカーナ系ハプスブルク家の偉大な始祖となったマリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ(Maria Theresia Walburga Amalia Christina von Österreich, 1717年~1780年)について記述する。
オーストリアを支配していた神聖ローマ皇帝カール6世の長女。カール6世の男子は早世しており、オーストリア系ハプスブルク本家の男系は彼の代で絶えることが明確になっていたため、なんとか娘のマリア・テレジアがハプスブルク家の領土を継承できるように取り計らった。
カール6世は、首都ウィーンに留学に来ていたロレーヌ公子フランツ・シュテファンを気に入り、娘のマリア・テレジアも彼に愛情を抱きやがて両者は結婚する。当時のヨーロッパの王族において、恋愛結婚はまさに奇跡であった。
※ この格の違う結婚には他のヨーロッパ諸国が反発し、ロレーヌ公国はフランスに譲渡、代わりに君主位が空白になったイタリアのトスカーナ大公国をフランツは得ることになった。
オーストリア継承戦争の記事も参照。
1740年にカール6世が崩御し、マリア・テレジアはハプスブルク家の領土を継承、夫のフランツが共同統治者になる。しかしヨーロッパ各国はこの即位に異を唱え、かくしてオーストリア継承戦争が始まる。
最初に攻めてきたのはプロイセン王(兼ブランデンブルク選帝侯)フリードリヒ2世で、シュレージエン地方の領有権を主張し、これが拒否されるや瞬く間にシュレージエンはプロイセンに占領される。軍隊の近代化を進めていたプロイセン軍にオーストリア軍は各地で連敗、この有様を見たフランスなど他のヨーロッパ諸国もハプスブルク領に侵攻、神聖ローマ皇帝位はバイエルン選帝侯のカール7世に奪われることになる。
この戦争ではフランスと対立していたイギリスがオーストリアに味方したが金しかくれないイギリスはあまり頼りにならず、また夫のフランツや宮廷の重臣達は気弱で役立たずだった。
土壇場に追い込まれたマリア・テレジアはハンガリーのポジョニ(洪: Pozsony, 独: Preßburg (プレスブルク)、現在のスロヴァキア共和国の首都ブラチスラヴァ (Bratislava))に赴き、それまでオーストリアに非協力的だったハンガリー貴族に救援を要請する。長い交渉の上なんとかハンガリーの援助を取り付けたマリア・テレジアは反撃に出てフランス、バイエルン等を撃退。カール7世が病死したこともあり神聖ローマ皇帝位に夫のフランツ(1世)を就けることができた。
その後も戦争は続くが1748年にアーヘンの和約で一応終結した。
※ 『ヘタリア』だとハンガリーのエリザベータ・ヘーデルヴァーリたんとオーストリアとは相思相愛だが、実際はハンガリーは18世紀初めに独立戦争を起こすなどハプスブルク家の支配に反抗的で、半年かけてやっとハンガリーの援助を取り付けたマリア・テレジアはその意味でまさに凄腕だったといえる。
だが、シュレージエンはプロイセン領になったままで、マリア・テレジアはシュレージエンの奪回を目論んでいた。内政や軍事において大きな改革を断行し、外交では長年ハプスブルク家と対立してきたフランスと同盟、さらにロシアとも同盟を結び「外交革命」を実現する。「三枚のペチコート」と揶揄されるプロイセン包囲網である。
一方、フランスの敵対国イギリスはプロイセンと同盟を結んだ。
1756年、自国の包囲網に脅威を感じたプロイセンの先制攻撃でオーストリアとプロイセンは再び戦争になる(七年戦争)。プロイセンは各地で奮戦するが、今度はイギリス以外のヨーロッパ中の各国を味方に付け万全の態勢を敷いたオーストリアが戦争を優位に進めることができた…はずだった。
しかし実際は同盟国側は足並みが揃わず、フランスはイギリスとの植民地戦争でプロイセンどころでなく、オーストリアは戦争の長期化で財政が悪化し、他のドイツ諸国は大して頼りにならず、ロシアはエリザヴェータ女帝が急死して跡を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世の信奉者だったためプロイセンに寝返ったため戦況は逆転、1763年にパリ条約、フベルトゥスブルク条約でこの戦争は終結し、マリア・テレジアは結局シュレージエンを奪回することは叶わなかった。
1765年に夫フランツ1世が死去すると、マリア・テレジアは第一線から退いたがその後も息子ヨーゼフ2世の政治に介入する。息子の急進的な啓蒙主義やフリードリヒ2世を信奉する態度にマリア・テレジアは憂慮し、ポーランド分割やバイエルン継承戦争の時など、しばしば意見が対立した。
また、フランスに嫁いだ末娘のマリー・アントワネットを心配し、たびたび書簡を送りその軽率で奔放な性格に警告をたびたび発している。
1780年に死去。名目上は女帝ではなかったがまさに18世紀のオーストリアを牽引しその存在感を強烈に知らしめたという点で彼女は「女帝」としてのイメージを確立させることとなった。
ハプスブルク家の伝統にもれず5男11女の子沢山だった。よく「オーストリアの慈母」というイメージがつけられるマリア・テレジアだが、実際は子供達に対し美醜や性格でえこひいきをしており、本当の意味で慈母だったかは判断し難い。
また、「外交革命」でフランスとの同盟関係を強調する関係でフランス、スペイン、イタリア等のブルボン家との縁組を子供たちに何重にも強いた。このことはドイツ諸侯のオーストリア離れを起こし、後にプロイセン主導でドイツ統一が行われる遠因になったといわれる。
掲示板
44 ななしのよっしん
2023/05/15(月) 19:28:52 ID: DUVznl4YY6
それなりに鬱憤や劣等感はあったらしいけど、それを嫁さんにぶつけたり下剋上したりせずに浮気とか趣味で発散してたのも偉いよな
45 ななしのよっしん
2023/05/22(月) 04:10:35 ID: XyUF51/Fej
フランツは娘のマリアアンナと木登りして、のけものにされた会議を覗いてたんだよなw
46 ななしのよっしん
2023/12/16(土) 12:18:48 ID: DUVznl4YY6
覗いてるだけだったら劣等感とか怒りとかドロドロしたものを感じるけど、幼い娘とワンセットで描かれる辺り完全な善人ではないけど絶対に悪い人じゃないと思われてたんだろうね
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最終更新:2024/12/02(月) 17:00
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