松(松型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造した松型駆逐艦1番艦である。1944年4月28日竣工。硫黄島方面への輸送任務に従事し、傷ついた僚艦を逃がすために単身15隻の敵艦に挑んで撃沈された勇猛な艦。1944年8月4日、父島北西で沈没。
昭和17年度戦時建造補充計画(通称改マル五)の追加計画にて、丁型一等駆逐艦第5481号艦として建造が決定。ガダルカナル島争奪戦で優秀な駆逐艦を14隻も失った帝國海軍は、戦時急造に適した簡易型駆逐艦を新規に設計。工事簡略化のため、従来の駆逐艦にあった曲面を省略し、なるべく直線的になるよう工夫されている。このため艦首部のフレアが小さく、カットアップも簡易化された。甲板のキャンバーは廃止、艦尾をスケグ方式に変更。工期削減の狙いでブロック工法や電気溶接を多用。それに伴ってDS鋼材を廃止し、代わりに普通鋼やHT鋼を用いた。機関は鴻型の主機を流用しているが、速力と航続距離の低さが難点だった。機関室と缶室は日本海軍初のシフト配置を採用。航行不能の危険性を分散している。ソロモン戦線の戦訓を活かし、主砲として高角砲を採用。高角測距儀と四式射撃装置の組み合わせで高い対空能力を持つ。対潜性能も考慮され、水中聴音機と水中探信儀を装備。戦況に即した能力と生産性を両立した。
要目は全長100m、排水量1262トン、出力1万9000馬力、速力27.8ノット、航続距離は18ノットで3500海里、乗員211名。武装は12.7cm連装高角砲1基、12.7cm単装高角砲1基、25mm三連装機銃4基、25mm単装機銃8門、61cm四連装魚雷発射管1基、爆雷投下軌条2条、爆雷36発、小発動艇2隻。
1943年8月8日、舞鶴工廠で起工。12月22日に松型駆逐艦松と命名され、1944年2月3日に進水。同年4月28日に竣工した。戦時急造型だけあって起工から僅か8ヶ月強で完成という驚異的な速さだった。舞鶴鎮守府に編入され、第11水雷戦隊に所属。第11水雷戦隊は瀬戸内海西部を訓練地にしているため、合流するべく舞鶴を出港。5月2日に呉へ入港し、5月8日に柱島泊地に回航。別府湾や宿毛湾を巡航したのち、5月21日に八島泊地へ到着。慣熟訓練を行う。6月1日、整備のため呉に寄港。6月5日に出港し、訓練のため室積港に向かった。
6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸。これを受けて6月18日、戦隊旗艦の軽巡長良等とともに徳山を出港。翌日横須賀に到着した。現地にはサイパンへ送られる予定だった陸軍部隊が行き場を失っており、彼らを小笠原諸島や硫黄島へ輸送する伊号輸送に参加。これに伴って第11水雷戦隊から第2護衛船団に転属した。硫黄島には揚陸施設が無く、自前の小発を持っている松は例外だったが、他の艦艇は父島で機帆船に物資を移すか、松に物資を移すという面倒な手間が必要だった。更に出撃準備中の6月19日に生起したマリアナ沖海戦で小沢艦隊が敗北。海での戦いには敗れたが、サイパンでは未だ守備隊が奮闘していた。6月24日、駆逐艦冬月に護送された第4号輸送艦が横須賀に到着。6月27日に伊号輸送部隊第1輸送隊に編入された。
6月28日、軽巡長良や駆逐艦冬月とともに第4号輸送艦を護衛して出港。父島に向かう。7月1日に二見港へ到着し、物資を揚陸。翌2日に横須賀に帰投して1回目の輸送任務を成功させた。7月3日、連合艦隊電令作第224号により伊号輸送部隊の編成が解かれ、松と第4号輸送艦は横須賀鎮守府長官の指揮を受けて南方諸島への輸送及び護衛を命じられた。7月6日、第4号輸送艦を護衛して出発。今度は硫黄島に向かう。父島を経由し、7月8日に硫黄島へ到着した。今回も無事輸送任務を果たしたが、帰り道に兄島へ向かうよう命令される。遡ること7月4日、兄島に退避していた第153号特設輸送艦が敵艦爆200機以上に襲われ、自力航行不能の状態に陥っていた。同じく救援に派遣された駆逐艦旗風が曳航し、松がその護衛にあたった。護衛兵力が少ないとして旗風は横須賀鎮守府に応援を要請したが、聞き入れられなかった。サイパンが陥落して以来、小笠原方面にも敵の影が見え隠れし始めており、旗風の心配は尤もであった。7月10日に父島へ寄港しつつ、7月12日に横須賀へ入港。死の淵に立たされていた第153号特設輸送艦を救った。
7月15日、梅、桃、竹とともに第43駆逐隊を編成。しかし僚艦と一緒に行動する事は一度も無かった。この日、横鎮電令作第548号により第3718船団を編成。硫黄島行きのこの船団は重要視されており、連合艦隊から航空母艦の瑞鳳が派遣。対潜哨戒を引き受けてくれる事に。松には第2護衛船団司令部の高橋一松少将が座乗。旗艦となる。7月18日17時、駆逐艦旗風、海防艦3隻、駆潜艇1隻とともに横須賀を出港。第3718船団は甲乙に分けられており、松は旗風と第4号、第104号、第152号輸送艦の3隻を護衛しつつ中継点の父島を目指す。道中で敵潜水艦を探知する一幕があったが、8月1日に父島へ到着。ここで父島に残るグループと硫黄島を目指すグループに別れ、松は第109師団を乗せた船団を護衛して硫黄島に向かった。ところが父島を出港してすぐにアメリカ軍接近の警報が発令。付近の艦船に父島へ留まるよう命令が下った。これに従い、松は8月3日に二見港へ帰投。翌4日午前9時30分、空襲警報発令。残っていた輸送船とともに横須賀への帰路についた。
8月4日午前10時30分、アメリカ艦隊の小笠原諸島空襲に巻き込まれる。船団は足が遅く、9ノットまでしか上げられない。敵機を襲撃を捌きながら、対空砲火で5機を撃墜。しかし第51号駆潜艇が大破させられた。2回目の空襲で陸軍輸送船延寿丸が撃沈。16時頃、父島北方にて3回目の空襲を受ける。船団の両側から雷撃を受け、第七雲海丸、昌元丸、龍江丸が被雷・沈没。また混乱により旗風、第12号海防艦、第51号駆潜艇が行方不明になってしまった。生き残っている船は松、利根川丸、第4号海防艦だけで、利根川丸に至ってはいつ沈んでもおかしくない深手を負っていた。西日が差す中、松たちは3隻の輸送船から投げ出された生存者を救助。マーク・ミッチャー中将は松、第4号海防艦、利根川丸を殲滅すべくデュボース少将率いる第13巡洋艦隊を派遣。大型軽巡3隻と駆逐艦12隻からなる大戦力だった。18時28分、救助活動に専念している松のもとへ突如水柱が築かれた。砲撃を意味する閃光が闇の中で明滅し、敵襲を知った3隻は北西への逃走を図る。砲撃は松と利根川丸に集中し、彼我の距離がどんどん縮められていく。松の最高速力は27ノットに対し、敵は30ノット出す事が出来た。逃げ切る事は不可能と言えた。18時37分、やむなく松は12.7cm連装高角砲を旋回させて応戦。第4号海防艦や利根川丸も反撃に転じる。しかし敵は計15隻、その中には新鋭のクリーブランド級軽巡洋艦まで含まれていた。まともに戦っては勝ち目は無く、全滅は時間の問題である。ここで松は、ある決断をした。
第2護衛船団司令部の高橋少将は、第4海防艦に「利根川丸を護衛して戦場を離脱せよ」と命令。同時に松は反転、たった1隻で15隻の敵艦に挑みかかった。駆逐艦と巡洋艦の両方から集中砲火を浴びる中、猛然と反撃する松。互いに命中弾は出なかった。アメリカ側の資料によると、19時10分に松が魚雷を発射したとしている。19時15分に「巡洋艦及び駆逐艦10隻と交戦中」と入電、19時40分頃に「我、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す」との電文が第4号海防艦に届いた。この直後に敵弾を浴びて炎上するも、朱色の炎を纏いながら突撃していく松が確認された。そして、その姿を最後に松との交信が途絶した。
松の突撃はデュポース艦隊に相応の混乱を与えたようで、追撃の手が一時的に止まった。19時44分、隙を突いて松は反転離脱を図る。しかし混乱から立ち直った敵艦隊は米駆逐艦コグスウェル、インガーソル、ナップを派遣。被弾により松の速力は15ノットに低下していて、とても逃げ切れる状態ではなかった。19時56分、艦後部への被弾で大爆発が発生。艦尾が水没するほどの致命傷を負う。瀕死状態に陥った松だったが、1.8kmまで接近してきた米駆逐艦3隻に向けて前部砲塔で攻撃。最期の瞬間まで敵に喰らいついた。父島の北西50海里で、艦首を空に掲げて沈没。20時42分頃、アメリカ軍のレーダーから消えた。生存者は6名でアメリカ軍に救助されたが、うち1名が死亡した。
松が命がけで稼いだ時間によって、利根川丸と第4号海防艦は海域から離脱。暗闇に紛れて逃避行を続けていた。しかし21時27分、B-24爆撃機の攻撃で利根川丸が撃沈されてしまった(米巡洋艦の砲撃とする異説もある)。デュポース艦隊はこれ以上の追撃を断念し、南へ変針。本来の砲撃任務に戻った。松のおかげで第4号海防艦だけは生還。第4号海防艦の艦長は、松の勇敢な行動を上層部に報告している。
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