第二次世界大戦末期に運用された大日本帝国海軍の一等駆逐艦。艦隊駆逐艦としてははじめて戦時量産を強く意識した艦形である。なお、本型の改良型である「橘型」についても本項で少し触れる。
昭和17年は後に太平洋戦争の山場として扱われる年となるのだが、この年に日本が直面したのはミッドウェーとガダルカナル、2つの島を巡る戦いにおいて発生した膨大な艦艇の損失であった。ミッドウェーにおいて正規空母4隻を、ガダルカナルにおいて大量の駆逐艦を。そもそも開戦時の正面戦力ですらよく言って四分六分、そして生産力までを加味した潜在的な戦力比は一対十とも一対二十とも言われる日米戦力比。仮に無傷で勝ちづづけても勝利はおぼつかないこの戦争において、開戦1年ではやくも日本海軍は決定的な損失を被ってしまったのである。
とはいえ、この状況は実のところある程度までは想定されており、空母に関しては建造時から改装を想定されていた水上機母艦「千歳」「千代田」の空母改装の決定、そして既に建造計画が動き出していた戦時急増型空母「雲龍型」の建造数増加等の手が打たれている。
では、駆逐艦はどうかというと、これが惨憺たる状況としか言いようがない状態であった。 次世代型駆逐艦として設計された「島風型駆逐艦」はタービン回りの製造が極度に困難であることや戦局の変化により増産どころか「島風」一隻で建造計画が中止。現行生産タイプの主力水雷戦用駆逐艦「夕雲型駆逐艦」も一隻の建造に一年弱かかる複雑な構造。艦隊防空に目を向けた新機軸艦「秋月型駆逐艦」に至っては一隻二年弱、できる限り簡素化しても一年はどうしてもかかるのである。
駆逐艦がかつての「艦隊決戦における水雷戦オンリーの艦種」ならこの程度の生産性でも良かったのかもしれないが、いまや駆逐艦はあらゆるタイプの海戦において戦場を支える海軍のワークホースである(皮肉にも、駆逐艦がそうした役割を担うきっかけとなったのはとうの日本海軍の「特型駆逐艦」なのだが……)。その駆逐艦を大量に喪失し、補充しようにも一隻一年ペースでしか建造できない複雑な駆逐艦型しか手元にないため建造ペースも上げられない。日本海軍の駆逐艦戦力の整備・維持計画は破綻の危機に直面していたのであった。
そこで「戦時量産に向いた新規設計の駆逐艦を建造しよう」という決定がくだされたのである。なんか悪いもんでも食ったのかと茶化したくなるくらいにまともな決定であるが、それだけヤバい事態だと海軍の中の人たちも痛感していた証である。「歩のない将棋は負け将棋」の格言もあることだし。
基準排水量は「夕雲型」の2000トン強、「秋月型」の2700トン強から大きく低下して1300トン前後。さながらかつての一等駆逐艦と二等駆逐艦(大正時代くらいまで、日本の駆逐艦は大型の一等駆逐艦とより簡素で小型な二等駆逐艦のハイ・ローミックス配備が行われていた)を想起させる立ち位置であり、実際本型の命名基準は二等駆逐艦に傚った樹木名である。故に別名が「雑木林型」。 しかし、このぞんざいなアダ名に反して設計は様々な新機軸と合理性に貫かれたものになっている。
ボイラー・タービン・減速機からなる機関部の集中配置は、軽量化・建造工数の削減・艦形の縮小による高速化等のメリットがあるためにこれまで日本艦艇の標準的な手法だった。しかし実戦において一発の被弾で浸水→航行不能となるケースが相次いだため、ボイラー・タービン・減速機を2系統に分け、一撃で航行不能になるケースをなくす「シフト配置」を採用した。
工数削減・生産性の確保とそれに反する内容が入り交じっていることにお気づきだろうか? 本型は単なる安物というわけではなく「戦局に対応するために」必要なところにしっかりリソースをつぎ込み、削れるところは削る、という設計者の意志がはっきり読み取れる設計なのである。 あえていうなら、日露戦争と日本海海戦がもたらした「個艦優越主義」「漸減戦略」の2つの呪縛から日本海軍がようやく目覚め、概念上の海戦ではなく現実に繰り広げられている戦闘にようやく真正面から向きあおうとしたことの証なのかもしれない。まあ既存の水雷戦に長けた駆逐艦のイメージを強く意識してた将校らに言わせると「駆逐艦のようなもの」だったのだが。
松型は性能を抑えて数を揃えることを優先していたため、艦隊型駆逐艦として航続距離などの性能が不足していると判断されることもあった。一説には松型の数がそろって戦局が落ち着いてからは、より高性能な駆逐艦の建造を行う計画もあったとされる。
19番艦以降はさらに設計の合理化を図った「橘型」に移行。ソロモン戦以後、潜水艦の跳梁によって駆逐艦の戦没が続きさらなる建造速度の増加が求められたため、「橘型」の建造においては海防艦の建造で培われた量産技術がさらに徹底的に取り入れられ、建造期間の目標は松型の6ヶ月から3ヶ月とされた。 改良点は大雑把にいうと以下の通り。
建造は当初計画としては「松型」「橘型」あわせて74隻が予定されていたが、戦況の変化による計画の見直し、そして1945年4月以降のどん詰まり戦局において水上戦闘艦艇の建造が無駄とされたことによる建造打ち切り等で、完成したのは「松型」18隻、「橘型」14隻にとどまった。
「松型」は昭和18年8月8日から続々と起工。昭和19年4月28日にネームシップの「松」が竣工し、6月には「竹」、「梅」、「桃」の3隻が竣工。急速に数を増やして戦力化が行われ始めた。
ところが、いきなり19年8月にネームシップである「松」が戦没の憂き目にあう。小笠原諸島の防衛準備を進めるための輸送船団の護衛についていた「松」だが、米側も小笠原近辺での艦艇襲撃・基地爆撃作戦を展開しており、その攻撃目標になってしまったのである。「松」は船団の生き残りである輸送船と海防艦が逃げるための時間を稼ぐべく、軽巡3・駆逐艦12という圧倒的な米艦隊に単艦で立ち向かうという壮絶な最期を遂げた(輸送船は結局逃げきれなかったが、海防艦「第四号海防艦」はなんとか逃げ延びることに成功した)。
1944年秋のフィリピン戦においては「松型」も参戦。特にレイテ島オルモック湾への強襲輸送作戦「多号作戦」にはたびたび投入されている。その中でも名高いのは第七次作戦の第三梯団に参加した「竹」「桑」の奮闘である。高速重武装の新鋭駆逐艦、アレン・M・サムナー級3隻と魚雷艇からなる迎撃艦隊は警戒にあたっていた「桑」を沈めるが、「桑」からの連絡で迎撃態勢を整えた「竹」により米側は駆逐艦1轟沈・駆逐艦1損傷の損害を被って撤退、輸送作戦を完遂させた。なおこの際に米駆逐艦の砲撃によって「竹」は機械室に被弾・浸水したがシフト配置が功を奏して航行力を保ち、無事にマニラ港に戻ることができた。ちなみにこの戦いが日本駆逐艦の最後の魚雷による撃沈スコアとなっている。 また、12月のミンドロ島上陸部隊への水上奇襲作戦「礼号作戦」にも「榧」、「杉」、「樫」の松型3隻が参加、作戦成功に寄与している。
フィリピン戦の後は日本海軍は組織的な戦闘能力を失い、「松型」、そして昭和20年春から次々と完成した「橘型」も主に日本沿岸部での戦闘・護衛に従事。また小発を「回天」発射装備に換装し機銃を増設するなどの改装も受けている。しかし大戦末期には日本沿岸も米側艦船が遊弋する危険な海域となっており、空襲・触雷等で戦没する艦も多く、8月15日時点で残存していたのは「松型」11隻、「橘型」12隻であった。 その後航行可能な艦は復員艦として運用され、その後連合国へ賠償艦として引き渡される、解体される等の道をたどり、1960年代までにはその全てがスクラップもしくは標的艦として最期を遂げた。
……のだが、この32隻の姉妹たちのうち、1隻だけ極めて数奇な運命をたどった艦が存在する。 橘型10番艦「梨」である。1945年7月28日に山口県沖の瀬戸内海で米軍機により撃沈された「梨」だが、1954年にスクラップとして払い下げをうけた民間業者によって引き揚げられたところ、状態が予想外に良好であり、修理すれば再度使用可能であるという判定を受けたのである。海上自衛隊によって再度買い上げられた「梨」は入念なレストアと艦橋部の作り変えをうけ、1956年に警備艦「わかば」、後に「DE-261 わかば」としてふたたび日本を守る艦船としての生命を得ることになったのだった。同型艦はむろん存在しないため実験艦として新装備のテストベッドに使われ、また1962年の三宅島噴火の際には島民の救助に貢献。そして1971年に除籍・解体され、その数奇な生涯を終えた。
松型駆逐艦の名の多くは、アメリカ海軍からの貸与艦である「タコマ級フリゲート」にして海上自衛隊創設組でもある「くす型護衛艦」に引き継がれた。
排水量 | 基準:1260t 公試:1530t |
全長 | 100.0m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.3m |
機関 | ロ号艦本式缶2基 艦本式タービン2基2軸 19000馬力 |
速力 | 27.8kt |
航続距離 | 18ktで3500海里 |
燃料 | 重油:370t |
乗員 | 211名 |
兵装 | 八九式 12.7cm(40口径)高角砲単装1基&連装1基 九六式 25mm機銃 3連装 4基、単装 8基 九三式 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 二式爆雷36発 |
排水量 | 基準:1350t 公試:1640t |
全長 | 100.0m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.41m |
機関 | ロ号艦本式缶2基 艦本式タービン2基2軸 19000馬力 |
速力 | 27.3kt |
航続距離 | 18ktで3500海里 |
燃料 | 重油:370t |
乗員 | 211名 |
兵装 | 八九式 12.7cm(40口径)高角砲単装1基&連装1基 九六式 25mm機銃 3連装 4基、単装 12基 九三式 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 二式爆雷36発 |
大日本帝国海軍 一等駆逐艦 艦級一覧 | |
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戦間期 | 海風型 - 浦風型 - 磯風型 - 江風型 |
峯風型 - 神風型[II] - 睦月型 - 吹雪型(特型) - 初春型 - 白露型 - 朝潮型 - 陽炎型(甲型) | |
戦中 | 夕雲型(甲型) - 秋月型(乙型) - 島風(丙型) - 松型(丁型) |
掲示板
89 ななしのよっしん
2020/06/30(火) 00:41:54 ID: YnvVlSIe2z
ナルヴィク海戦後のドイツ海軍とかなんかは駆逐艦の大半を失ったせいでその後の作戦に支障が出てるから、駆逐艦は海軍の中で損耗をする確率が高い艦種であるけれど沈めてなんぼで作られてなんか無いだろ。シフト配置等で日本海軍の中では生存性も上げようとしてるし、最低限の能力に抑えられたのは本スレに書かれているように戦局に間に合わせる為に限りあるリソースを配分した結果でしょ。
90 ななしのよっしん
2020/07/05(日) 12:16:31 ID: BVdWXBZ8sq
93式61cm(III型)4本って雷装は到底自衛用とは言えないよ
そもそも自衛目的ならより有利と言える53cm6連装を却下してるあたり大型艦食うつもり満々ではあったり
予備魚雷の放棄は丙型(島風)からの流れとも言えなくもない
主砲もわざわざ12.7cm採用してるし、機関も手間とコストと容積の嵩むシフト配置、と対艦戦闘頑張るのが前提の装備で固めてある
むしろ対空の方が高射装置の製造が進まないとはいえ簡易版だったりしていまひとつな面があるし、対潜なんか他の駆逐艦と同じレベル
まあ船体と機関は我慢するけど装備は我慢しないってのは
日本というより他国的な雰囲気で
そういう意味では日本海軍らしからぬ異色のフネではあるよね
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最終更新:2024/10/07(月) 23:00
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