第4号輸送艦 単語

ダイヨンゴウユソウカン

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第4号輸送艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した一等輸送艦4番艦である。1944年6月15日工。父島硫黄島方面で輸送任務に従事し、8月5日父島航空攻撃を受けて沈没

概要

一号輸送艦とは帝国海軍初の一等輸送艦である。特務艦特とも。正式名称は第一号輸送艦なのだが、他に分類された艦がかった事から、艦種名の一等輸送艦とも呼ばれていた。

今まで輸送任務は駆逐艦水上機母艦民間から接収した輸送「」が担っていたが、1942年8月より始まったガダルカナル島争奪戦にて、多くの駆逐艦や輸送を強行輸送の末に失った事により、1943年中期に軍部から2種類の輸送艦の計画要が出された。この計画案から誕生したのが一等輸送艦と二等輸送艦だった。

一号輸送艦は最初から輸送任務を念頭に置いて設計。生産性を高めるため、丙型海防艦丁型海防艦に用いられている簡易線図を流用し、ブロック工法と電気溶接を採用して工期を大幅に短縮、およそ1ヶ程度の工事で完成出来るようしている。敵勢力圏内での強行輸送を視野に入れ、12.7cm連装高、25mm対(艦によって数と位置が変動)、爆雷投下軌1条、九三式探信儀、九三式水中聴音機、22号水上電探を装備。電探装備に限れば駆逐艦並みもしくはそれ以上の充実が図られた。一等輸送艦駆逐艦そっくりの見たをしていたためアメリカ軍から駆逐艦と誤認される事もたびたびあったという。

肝心な輸送力は補給物件260トンを積載可辺への緊急輸送を可とする大発4隻を持ち、これらの舟艇は艦尾に設置されたスロープからそのままへ発進出来るため、洋上停止せずとも補給任務が可だった。戻って来た舟艇は3基のデリックで回収する。

戦歴

1944年2月1日海軍で起工、3月15日の達第70号により第4号輸送艦と命名され、3月20日に進5月10日装員長として河原政頼少佐が着任し、6月15日工を果たした。河原少佐が艦長に就任するとともに戦時編制で連合艦隊附属となる。数字の上では第4号だが、実は第2号や第3号よりも完成く、第1号輸送艦(5月10日)の次に就役している。

アメリカ軍マリアナ諸上陸を受け、次にマリアナと本土の間にある硫黄島が敵の標的になると考えた日本軍は、硫黄島を中心とした小笠原諸島の防備強化を図るべく、釜山待機中のサイパン増援部隊を送り込む号輸送の発・実行を命じた。

6月20日連合艦隊駆逐艦冬月、第104号及び第153輸送艦、第4号輸送艦に横須賀へ向かうよう示を出し、まともな訓練期間を与えられないまま6月22日を出港、6月24日号輸送の策横須賀に入港する。翌25日、連合艦隊作第206号により号輸送部隊に編入、この部隊軽巡洋艦長良木曾多摩駆逐艦8隻、輸送艦5隻、特設輸送能登丸で編成されていた。輸送側がいずれも優秀船舶で占められ、護衛も充実しているところを見るに、如何に海軍号輸送を重視していたかがえる。

6月26日には栗林中将を兵団長とする小笠原兵団が組織され、号輸送の重要性が増した。6月27日に第4号は第1輸送隊に部署。


6月29日午前2時、第1輸送隊陸軍部隊を乗せて東京湾を出港。本土東方域には潜水艦の出現が認められ、父島硫黄島には常に潜2~3隻が遊父島90里で福丸が、硫黄島南方では第24号海防艦が撃沈される損が発生していた。6月30日午前4時父島零式三座水上偵察機、二式水上偵察機からなる対潜部隊が援護に現れ、17時父島二見へ入港するまで上援護してくれた。到着後、第1輸送隊は人員物件を揚陸。7月1日午前0時にまず長良先発、続いて午前2時冬月と第4号輸送艦が出発し、7月3日21時横須賀へと帰投して号輸送任務を了させた。

第4号輸送艦が横須賀に帰投した後の3日から4日にかけて、機動部隊硫黄島父島襲を仕掛け、同方面の航空兵力及び所在は大打撃を受けた。もし予定が1日遅れていれば航空攻撃の餌食になっていたであろう。ひとまず号輸送は成功したものの、引き続き小笠原諸島への輸送は続ける事とし、3日15時15分発のGF電作224号によって駆逐艦ともども横須賀鎮守府直卒になる。

7月6日駆逐艦の護衛を伴って横須賀を出港。航行中は揮を受けた。硫黄島には揚陸施設がく、通常の輸送の場合、父島に物資を集約してそこから機帆船などに移し替えて270km先の硫黄島に運ぶという面倒なプロセスを挟む必要があった。しかし小発動艇を持つ松型駆逐艦や艦尾スロープによる直接揚陸が可な一等輸送艦硫黄島に直接物資を届けられる強みを持つ。

7月8日横須賀鎮守府硫黄島への物資揚陸が済み次第、襲を受けて航行不能に陥った第153輸送艦とそれを航する駆逐艦の援護を命じ、第4号に駆け付けた。7月10日に旗と第153輸送艦を護衛して出発。周辺域では潜水艦跳梁跋扈し、旗横須賀鎮守府に対し駆逐艦2隻の増めるほどだったが、運が味方して雷撃を受けず、父島、館山を経由して、7月14日横須賀まで送り届けた。この功績で第4号、旗には横須賀鎮守府長官より労いの電報が送られている。

7月16日も休む間もなく第4号輸送艦は硫黄島行きの第3718団への加入を命じられる。団は第4号、第104号、第152号輸送艦江丸、九州丸、弥生丸、敦賀丸で編成され、これらを駆逐艦、旗雷艇千鳥、第52号駆潜艇、第6玉丸、慶南丸の6隻が護衛するのだが、本団は甲の2つに分けられ、快速を誇る輸送艦3隻、、旗は危険な硫黄島行きの甲団、低速千鳥揮する父島行きの団となった。

7月18日17時、第3718甲団とともに横須賀を出港。先発した第3714団は潜水艦の雷撃で2隻が撃沈されたが、甲団は雷撃される事なく、7月21日14時硫黄島へと到着して人員・物資を揚陸、そして7月23日横須賀に帰投した。


7月26日横須賀鎮守府陸軍小笠原緊急輸送を成功させるべく、陸軍2隻(元丸、利根川丸)、海軍4隻(北海丸、第7丸、延寿丸、九州丸)、輸送艦3隻(第2号、第4号、第133号)で第3729団を編成するとともに、元からあった護衛兵力に加え、第3航空戦隊から空母瑞鳳第61駆逐隊から秋月型駆逐艦2隻(秋月初月)、第4駆逐隊から山雲野分を借りて直接護衛部隊を準備。臨時で横須賀鎮守府長官が揮を執るという気合いの入れよう。本団も高速硫黄島行き、低速父島行きとなっていた。

7月29日に第3729団は横須賀を出発。館山で仮泊したのち外洋へと繰り出した。小笠原諸島へ向かう中、輸送団は何度も潜水艦が発したと思われる電波を傍受していたものの、別働の瑞鳳隊や父島特別根拠地隊の支援を受け、父島まで来たところで輸送艦3隻は第4号海防艦を伴って団から分離し、8月2日的地の硫黄島まで到着。瑞鳳隊は団の父島到着を以って任務了とし、内地に帰投していった。しかし瑞鳳と入れ替わるように機動部隊の接近警報が発される。度重なる襲で父島硫黄島も防戦闘機に乏しく、長居は明らかに危険であった。

硫黄島への揚陸作業を了させた第4号、第2号、第133輸送艦は、第4号ならびに第12号海防艦を護衛を受けて父島に向かっていた。

最期

1944年8月4日父島レーダーが接近する敵艦上機の大群を捕捉。瑞鳳の撃沈を狙い、空母ホーネットフランクリン、キャボットから飛び立った敵機が父島方面に向かってきたのである。警報に伴って第4号は第2号輸送艦とともに父島を緊急脱出して洋上退避、第4804団(元第3729団)も急いで父島を発ち北上する。

敵機は洋上退避した艦を見つけると地上施設よりも優先して攻撃を仕掛け、午前10時20分、父島西方にいた第4号輸送艦はキャボット艦載機35機と交戦。午前11時30分に艦が被弾・大破炎上沈没を避けるべく、警を鳴らしながら二見湾扇の波止場付近に自ら乗り上げて擱座し、消火した上で一部の兵器弾薬を揚陸した。全身まみれの負傷者は次々にボートで運ばれ、小曲の陸軍病院へ搬送されている。

第4号輸送艦の最期については諸説あり、8月5日バンカーヒル艦載機トドメを刺したとも、艦砲射撃を受けて18時に撃沈されたとも言われる。艦長を含む75名が戦死。生存者は父島特別根拠地隊に収容された。機密書類と暗号書類は全て焼失もしくは爆砕。

11月10日除籍。沈没した残骸は現在も形を留めており、ダイビングで実際に見られる。

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