構造主義的マルクス主義とは、フランス人哲学者ルイ・アルチュセールが構造主義を元にマルクス主義を再構築した現代思想である。
アルチュセールは1965年にマルクス研究の金字塔である『マルクスのために』と共著で『資本論を読む』を著し、構造主義とマルクス主義を融合した構造主義的マルクス主義を打ち立てた。
当時のフランスのマルクス主義は初期の著作に重点がおかれ、人間中心主義(ヒューマニズム)、歴史主義(歴史は連続しているという考え)的マルクス解釈が席巻していた。アルチュセールはそれらの要素を断絶し、反人間中心主義、反歴史主義的、すなわち科学的マルクス主義を唱えたのである。
認識論的切断とは『マルクス自身の思想が人間主義から科学主義へ転換した転換点』のことである。
アルチュセールはマルクスの思想的生涯を四つの時期に分類した。
青年期ー1840~44年
切断期ー1845年
成熟期ー1845~57年
円熟期ー1857~83年
ここで注目して欲しいのは二つ目の切断期。認識論的切断とは、マルクスの思想のプロブレマティック(仏語のプロブレム)をヒントにして発見した『マルクス思想の分岐点』のことである。当時の欧州はサルトルも含めたヒューマニズム的な西欧マルクス主義が権勢を誇っていたのだが、アルチュセールによればマルクス自身の考えが途中で人間中心主義を離れていたのだ。
プロブレマティックとは日本語で「問いの構造」や「問いの設定」と訳され、「思考の構造」とも読み替えることが出来る哲学用語。この言葉はアルチュセールのマルクス論を理解するために重要な用語であるので覚えておこう。哲学の議論において、一見別の概念を論じていてもプロブレマティック(問いの構造)が同じであれば同じと見なすことができるのだ。このプロブレマティックのような、問題深層に潜む構造を暴きだすことは構造主義の特徴である。
アルチュセールはマルクス思想のプロブレマティックに注目し、1845年付近の著作『フォイエルバッハに関するテーゼ』と『ドイツ・イデオロギー』をきっかけにプロブレマティックが変化し、思想が切断されたことを発見した。すなわち切断以前のマルクスは、ヘーゲルとフォイエルバッハのプロブレマティックを借りて自分の主張をしており、それはマルクスの皮を被ったヘーゲル、フォイエルバッハに他ならなかった。しかし切断以後はマルクス独自のプロブレマティックを用いて、『経済学批判』や『資本論』を執筆している。
こうしてアルチュセールは、『ヘーゲルやフォイエルバッハの疎外論(ヒューマニズム)を中心とした初期マルクス』と、『構造因果性理論(『科学』と読み替えよう)の立ち場に立った後期マルクス』を見事に切断したのである。
重層的決定とは『物事は一つの因子によってではなく、複合的な因子によって重層的に決定されている』とする考え方である。
元々は精神分析の大家フロイトの用語。アルチュセールは「歴史は経済のみをきっかけにして動いていく」と経済一元論として解釈されていたマルクスの唯物史観の中にこの重層的決定を発見したのである。
通常の唯物史観は下部構造(経済)と上部構造(政治や思想)のように建物の比喩で説明されるが、この重層的決定においては、
①積み木のようにそれぞれの因子(例えば政治や文化)が積み重なってそれぞれの審級に影響を与えている(垂直的相互作用)
だけではなく、それに加えて
②一つの因子が内的に融合したり、凝縮したり、越境してたりして様々な場所にある審級に影響を与えている(水平的相互作用)
という二重に重層の構造を持っている。
アルチュセールは文化領域や経済領域、政治領域のようなそれぞれの因子のことを審級と呼び、特に社会の最も下から垂直的に他の審級に働きかける土台となる審級のことをを最終審級と位置づけた。最終審級は構造の秩序を決定づける決定因になる。最終審級による決定は各審級において可視的には存在しないが、それぞれの審級が社会においてどのような立ち位置を持つかの社会構造を設定する役割を持つ。
最終審級の決定において目に見える形で各審級に影響を与える役割を持たされた審級を支配因と呼ぶ。マルクス主義では決定因は常に「経済」ということになるのだが、この重層的決定の考え方の場合では経済一元論のように必ずしも経済審級が直接各審級に顔を出して影響を与えるというものではなくなっている。経済審級はあくまで支配因を決定する役割を持つだけである。とはいえ、決定因と支配因が同じということもあり、事実、近代資本主義社会においては支配因と決定因は共に「経済」で一致している。しかし支配因は時代と場所によって様々に変化し、例えば中世では「宗教」が、近世では「政治」が支配因であった。
重層的決定は歴史的出来事をはじめとして経済や政治、イデオロギーといった社会形成の審級の内部に存在し、それらの要素が更に組合わさった複合体(構造)こそが社会的全体を構成する。この社会的全体をマルクスは社会形成体と名付けている。
アルチュセールは重層的決定を提唱することによりヘーゲルの単層的弁証法とマルクスの重層的弁証法の差異を指摘した。ヘーゲルの本質論によれば「モノには本質があり、その本質がモノ全体に行き渡っている」。モノが一つの本質に影響されるヘーゲルの考えは、つまり単層的であった。一方で重層的決定によればモノは複合的な決定因子によって決まるのでモノ全体を貫き通す本質は存在しえない。こうしてアルチュセールはヘーゲルとマルクスの違い、すなわち認識論的切断を発見したのである。
この重層的決定を因果論に組み入れたものが、次の構造的因果性である。
そもそも因果性とは何かというと、原因と結果の関係性のこと。因果関係とも言い換えられるだろう。その中でも特に「全体の構造(原因)が部分(結果)に、影響しながらも構造それ自体は存在しないという因果関係」のことを構造的因果性と呼ぶ。これだけでは難しいので、専門用語を踏まえながら見ていこう。アルチュセールによれば、原因と結果の関係は三つのタイプに分けられる。
第一のタイプは、時間軸の上で先に起こった原因が、後から起こる結果を直接的に決定すると見なす因果論。この考え方は原因から結果へと一直線に推移していくので分かりやすいだろう。アルチュセールはこの第一の因果論を、原因と結果が線形的に推移していくという意味で推移的因果性と呼んだ。推移的因果性は、「部分」と「部分」の関係しか考慮しないので、機械論的世界像(世界を一つの機械と捉える世界観)に特有の思想である。というのは機械は「部分」がたくさん集まって出来ている存在からだ。そのため推移的因果性は機械論的因果性とも呼ばれる。
推移的因果性
部分(原因)→部分(結果)
ex)転んだ(原因)。だから血が出た(結果)
先に起こった単一の出来事が、後から起こった同じく単一の出来事の原因になっている。
第二のタイプは、部分と全体の関係を考える因果論である。これは、全体が原因で部分が結果であるという考え方。全体の本質から、部分という結果を表出するという意味でこの因果論は表出的因果性と呼ばれる。この表象的因果性の中では、各部分はそれぞれの位置や視点から全体の本質を体現しているのだから、全ての部分は互いに質的に等しい存在である。更に、どこの部分を切り取ってみても、全体の本質がそこには存在する。
全体(原因)→部分(結果)
ex)彼は人間だ(原因)。だからご飯を食べる(結果)
「彼が人間であること」は単一の出来事ではない。しかし人間である限り必ず食事はする。また、全ての食事をしている人間の中に「人間は食事をしなければ生きていけない」という種族としての本質が存在している。
通常マルクスの用いる因果性はヘーゲルから継承したこの表象的因果性だとされるが、アルチュセールによればそれは違うのだ。アルチュセールは以上の2つの因果論はあやふやなイデオロギー・神話的思考であると批判し、次の第三のタイプこそが真に科学的因果論だと述べる。
第三のタイプは、表象的因果性と同じく、部分と全体の関係を示す因果論であるのだが、今回の場合は全体の本質が部分に表れるという考えを捨てる。このタイプでは、全体の本質ではなく、全体の構造が原因となり、それぞれの部分(結果)に影響を与えながらも、構造自体は部分から存在を消してしまう。この構造不在の関係性をアルチュセールは構造の不在的現前と呼んだ。『現前』とは『存在する』の意味。構造が影響を与えつつ、存在を消すこの特別な因果関係こそが構造的因果性と呼ばれる。全体が持つたった一つの本質が全ての場所の部分に存在し影響を与えるという表象的因果性とは違い、構造的因果性には単一の原因は存在せず、多元的な原因同士が全体の構造の影響を受けつつ互いに因果関係を結んで結果を生み出している。また、部分を切り取ってみても、全体の本質なるものは痕跡を残しつつも目には見えない。
構造的因果性
全体(原因)→部分(結果)
しかし部分に全体は痕跡だけ残してそれ自体は存在しない。
ex)は重層的決定の項を見返そう。
推移性因果性は仏哲学者デカルトと英哲学者ベーコン式の因果論。表象的因果性はヘーゲルに加え独哲学者ライプニッツ式の因果論である。アルチュセールは、それら二つの神話的因果性を揚棄し、マルクスが構造因果性を発見したことによって科学認識の世界に理論的革新が起きたと主張する。
徴候的読解とは『テキストの深層にある問題構造(プロブレマティック)を見いだすことによって、イデオロギーから脱却した読み方』である。
アルチュセールはマルクスの著作を読むこと自体にも認識論的切断を発見した。当時マルクスの著作の周りには政治的情勢やイデオロギー、主義思想が纏わり付いており、アルチュセールはそれらを切断することによって科学的な視点からマルクスを読みとこうとした。それが徴候的読解である。
アルチュセールによれば、書物を読む時には二種類の読み方がある。
外面的読み方とは、テキストを自分を通して読み取る読解法である。例えばあなたがある思想家の本を読んだ時、その思想家のテキストはあなた自身の思想によって解釈される。その思想家が考えたこと、考えなかったこと。見えたこと、見えなかったものはあなたを通してのみ表出されることとなる。マルクスはアダムスミスの著作を引用し、その賢智を認めつつスミスが発見できなかった「労働力の価値の概念」を発見した。第一の読み方に頼る場合、マルクスはより広い視野をもったスミスとして、スミスの著作を読むことになる。
二つ目の内面的読み方。これがすなわち徴候的読解である。内面的読み方とは、その思想家の考えなかったこと、見えなかったものを、テキストの深層に内在する『空白』と見なし、読者個人の思想による解釈ではなく、その空白を埋めようとするのが徴候的読解だ。「空白」を発見し、その穴埋めをするのは読者自身であるが、それを見いだすことができるのはテキスト自体なのである。先の例でいえば、マルクスはスミスの著作の深層にある問題の構造を汲み取ることによって、「労働力の価値の概念」をその著作の中に発見したと言える。
徴候とは元々精神分析の用語で、アルチュセールはフランスの精神分析医者のラカンから影響を受けている。徴候的読解において、読者は不可視である『空白』を見つけるためにテキストの中から手がかりを下がることになるのだが、この『手がかり』と『空白』のことをアルチュセールは徴候と呼んだのだ。徴候的読解は筆者が意図していない。テキストに書かれていない、その深層にある構造を読み解こうとする試みなので、ともすれば恣意的な読解に繋がりかねないとの批判もある。
国家イデオロギー諸装置とは『国民の精神に働きかけ資本主義支配を維持するための諸々の社会機構』のことである。
マルクスによって資本主義のもとでは資本家と労働者は搾取の関係にあることが明らかにされた。この搾取の関係を生産諸関係、または生産諸条件と呼ぶのだが、それらは一体どのようにして維持(これを生産諸関係の再生産と呼ぶ)されているのだろうか? 労働者は自分たちが搾取されているとするなら暴動でも起こして拒否してしまえばいいのにだ。
しかし、ほとんどの先進資本主義国では暴動は成功しないようになっている。というのも、どの国にも警察があるし暴動が大規模になれば軍隊も出張ってくるだろう。このように国家によって独占された直接的な暴力によって押さえつけて支配を維持するための警察や軍隊のことを国家抑圧装置と呼ぶ。それでは私たち労働者は警察や軍隊に力に怯えて仕方なく被支配を受けているのかというと、これも感覚的に違うことが何となく分かるはずだ。そこで出てくるのが国家イデオロギー諸装置である。
国家イデオロギー諸装置とは国民の精神に働きかける様々な施設、システム、企業のことである。国家イデオロギー諸装置は社会のいたるところに存在し、国民を説得することによって支配されることを合意させる。つまり支配されることが当然であるという常識や雰囲気、すなわちイデオロギーを社会に作ってしまうのである。イデオロギー諸装置は大小を含めると数多く存在するが、アルチュセールが特に列挙したものを言うと以下のようにうる。
労働者が搾取支配され、それが社会の合意を得ているのは、けして搾取関係が正当なものだからという訳ではない。資本によって操作されるイデオロギー諸装置によって社会の精神に影響を与え、さもそれが当然というイデオロギーを作りだしているからである。こうして労働者は搾取支配されることに自ら合意し、搾取の関係(生産諸関係)は、維持(再生産)されるのだ。
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