波勝(標的艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した波勝型標的艦1番艦である。1943年11月18日竣工。これまで標的艦を務めていた老朽戦艦摂津よりも優れた性能を持っていたが、低い復元性が問題視されて量産には至らなかった。終戦まで生き残った後は復員輸送に就く。1946年11月23日に藤永田造船所に引き渡されて解体。
艦名は伊豆半島南西にある波勝(はかち)岬から。標的艦として建造された最初の艦でもある。
大日本帝國海軍は老朽化した河内型戦艦摂津を標的艦に使用していたが、旧式化した艦自体はともかく乗組員ごと攻撃する訳にはいかなかった。そこでドイツから遠隔操縦の技術を入手して1929年より研究を開始、1935年に実用化の目途が立って摂津に導入した事で、砲撃技量や航空隊の技量向上に繋がる好成績を出した。しかし1939年になると海軍航空隊から摂津の低速に対する不満の声が上がるようになり(実際列強各国の戦闘艦は高性能化が著しく、摂津の速力は民間客船レベルにまで後退していた)、また無線操縦の不自然な回避運動では練習にならないという声もあったため、帝國海軍は運用実績を基に新たな標的艦の開発に着手。そうして生み出されたのが波勝型であった。
船型には船首楼甲板型を採用。船体後部上甲板の上に船首楼甲板から続く防御甲板が支柱を介して設置されており、その防御甲板には高度4000mから投下された10kg演習爆弾に耐えられるだけの22mmDS鋼板を張り、一層下の上甲板との間を艦載艇収容スペースとした。標的艦に転用された旧式駆逐艦矢風は装甲の薄さから1kg爆弾にしか耐えられなかったので大きな改善点である。船体は小さかったものの防御甲板両舷に折り畳み式の幕的展張ブームがあり、これを広げる事で大型艦に似せるという工夫も盛り込まれている。投下された爆弾が煙突内に入り込まぬよう口にはキャップを被せ、艦橋にも同様の目的で帽蓋やカバーを装着。甲板上には必要最低限の艦橋、煙突、マストしかなかったため見た目は小型空母のように見え、甲板上に装備されている13mm連装機銃も演習時は撤去された。摂津よりも速力が高く、運動性能にも優れていたが、復元性能に不安を残していた上、アメリカ軍の駆逐艦は30ノット以上で航行していたため標的艦にも更なる速力が求められ、波勝型の生産は1隻のみで中止。後に改良型の大浜(標的艦)が新たに建造されている。
要目は排水量1641トン、全長92m、全幅11.3m、喫水3.81m、出力4400馬力、最大速力19.3ノット、重油積載量330トン、乗組員148名。兵装は九三式13mm連装機銃2基。
1941年11月に策定されたマル追計画において標的艦第660号艦の仮称で建造が決定。ちなみにマル追計画は潜水艦の緊急増産が目的であり、波勝以外は潜水艦の建造の予定で埋め尽くされていた。1943年2月1日に播磨造船所で起工、5月25日に特務艦波勝と命名されて爆撃標的艦に指定、6月27日に進水し、11月18日に竣工を果たした。艦長には元夕張の航海長だった仁藤仁之助中佐が着任。連合艦隊付属になるとともに呉鎮守府在役特務艦となる。11月から12月中旬まで瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事。
1943年12月24日、トラック諸島で爆撃訓練の標的を務めるべく呉を出港。環礁内で航空隊の訓練に協力する。
1944年2月17日、米第58任務部隊所属の正規空母5隻と軽空母4隻によるトラック大空襲が発生。波勝は逃げ場の少ない環礁内で機銃掃射を浴びながら決死の回避運動を取る。空襲の間隙を縫い、20時17分、航空魚雷を喰らって浸水被害が甚大な駆逐艦文月から第22駆逐隊司令以下重傷者7名を収容。その後も駆逐艦松風とともに文月の救難作業を行っていたが、努力むなしく文月は沈没した。敵機は環礁内の艦船、地上施設、飛行場などを片端から攻撃し、10万トンに及ぶ輸送船31隻と海軍艦艇10隻が撃沈、航空機約200機が破壊される大損害をこうむった。この壊滅的な破壊の中で波勝は大破したものの奇跡的に生き残る。2月21日午前4時、パラオへ避難する工作艦明石、駆逐艦秋風、藤波とともに廃墟と化したトラックを脱出し、午前8時に駆逐艦春雨が護衛に加わった。2月24日にパラオへ入港すると伴走者の明石から応急修理を受ける。
3月18日、インドネシア方面で海軍航空隊の標的艦を務めるためパラオを出港。幸運にもこの移動のおかげで後のパラオ大空襲に巻き込まれずに済んだ。3月下旬頃にリンガ泊地へ回航され、第1機動部隊の大鳳、翔鶴、瑞鶴の標的艦となる。4月16日、シンガポールに停泊中の給油艦神威の右舷側に横付け。左舷側には軽巡洋艦北上が横付けしていた。4月28日、錨地沖で第601航空隊の爆撃標的を担い、ある程度の練度に達したと評価される。5月24日、リンガを出港してミンダナオ島ダバオへ移動し、ダバオ航空隊の標的艦を務める。6月10日、二代目艦長に津田武彦予備少佐が着任。やがてダバオも頻繁に空襲を受けるようになってきたため、6月下旬にルソン島マニラへ退避、現地で日本陸軍航空隊の爆撃訓練に協力する。7月下旬には南方軍総司令官・寺内寿一元帥が波勝に乗艦して直接訓練を視察した。9月22日、米機動部隊の接近に伴ってマニラを脱出、台湾北東部の基隆まで退避する。
9月27日17時、第3号、第7号海防艦、特設砲艦長白山丸等とともに、10隻の輸送船で構成されたタモ26船団を護衛して高雄を出発。翌28日午前2時5分に左栄泊地から出発してきた第1号海防艦が護衛に加わり、同日正午に基隆へ寄港。10月1日午前7時30分にタモ26船団と基隆を出発するが、主冷却水管が損傷したため長白山丸は基隆へと引き返し、10月3日には長崎へ向かうため第1号海防艦が船団より離脱、護衛艦艇の減少により波勝も護衛の役割を担ったが、さすがに無理があると判断されたのか10月5日午前6時に船団から離脱して先行、幸い何事も無く10月6日に門司へ到着した。呉へ回航された波勝は本土決戦に備えて対空兵装を強化すると同時に呉海軍工廠と交渉して全乗組員分の軍刀を確保。以降は瀬戸内海西部で標的任務に従事する。
1945年4月6日夕刻、別府湾で停泊中に豊後水道を南下する戦艦大和以下第1遊撃部隊を目撃し、津田艦長の命令により「武運長久」の旗を掲げてその勇姿を見送った。空襲と機雷敷設が激しい瀬戸内海西部に留まり、大分方面で商船改造空母海鷹や駆逐艦夕風とともに回天の標的艦を務めた。無傷で8月15日の終戦を迎えて生き残る。
1945年11月25日に第二復員官の高根嘉根次少佐が着任し、11月30日除籍。無傷で生き残った波勝は12月1日に特別輸送船に指定され、連合国の管理下に置かれるとともに、外地に取り残されている約600万もの邦人を帰国させる一大事業に臨む事となる。
1946年1月19日に鹿児島を出港して最初の復員輸送に従事。当初はグアムやサイパン等の遠方まで長駆していたが、それらが終わると上海からの引き揚げを重点的に行うようになり、収容した復員兵や邦人を佐世保まで連れ帰った。12月11日に最後の復員輸送を終えて佐世保へ帰投し、12月23日に復員輸送艦の指定を解除。藤永田造船所に引き渡されて1947年6月に解体された。
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