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海鷹単語

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海鷹(かいよう)とは、大日本帝國海軍が保有した航空母艦の1隻である。

概要

あるぜんちな丸

海鷹の前身は、大阪商船が保有していた貨客船あるぜんちな丸。要排水量1万2755トン、全長155m、全幅21m、深さ12.6m、出1万6500、最大速21.48ノット。

1938年に「優秀船建造助成施設」という制度が始まった。これは建造費を軍が補助する代わりに、有事の際は軍に徴用される制度だった。この制度を使用して初めて建造されたのが、大阪商船のあるぜんちな丸とぶらじる丸だった。この2隻は大阪商船最大の船舶でもあった。

1938年2月5日、優秀船舶建造助成施設第118号として三菱重工業長崎造船所で起工。12月9日に進し、あるぜんちな丸と命名。1939年5月31日工し、船籍大阪に定めた。7月11日横浜を出港し、あるぜんちな丸は処女兼西回り世界一周を始める。しかし間もく、ドイツ軍ポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。そのドイツと同盟関係にあった日本は対日感情悪化を引き起こし、寄港先で苦労する羽になる。何だかんだありつつも世界一周を成し遂げ、1940年10月17日横浜へ辿り着いた。その後、ぶらじる丸ともども南航路に投入され、同航路の居住性と輸送が格段に善された。優美な船体は好評を呼んだとされる。しかし優秀船舶が外地に取り残される事を危惧した軍から航路変更の示を受け、内地に近い大連航路に就役した。

戦争の足音が近づいてくる1941年5月帝國海軍は既にあるぜんちな丸を徴用し、空母へと装する計画を立てていた。そして9月29日、正式に徴用されて横須賀鎮守府所管となる。開戦直前の12月6日横須賀鎮守府からの命で直卒補給部隊に編入された。

大東亜戦争

1941年12月8日大東亜戦争が生起。サイパン及びトラック向けの航空機材や航空3000缶、機弾425、信管95を積載し、12月17日横須賀を出発。翌18日に四日市に、23日にサイパンに、26日にトラックへ寄港した。帰路は大宮、多度、釜山に寄港し、1942年1月22日横須賀へ帰投した。

1942年1月28日、直卒補給部隊から除かれ、代わりに軍需品と人員の輸送に従事。2月1日横須賀を出港。サイパン、ボナペ、ウジラン、ブラウン、クェゼリン、ルオット、タロア、イミエジ、ウォッゼ等の各拠点を転々とした。3月13日横須賀へ帰着。同21日に横須賀を出発し、釜山、メレヨン、トラック、ミレ、ルオットに寄港し、4月4日横須賀へ戻った。5月1日、戦時編制によって連合艦隊に編入。特設運送船に変更された。これに伴って監督官の渡部中佐が乗船。5月5日にて諸試験を実施。更に軍需品や弾薬保品、第五陸戦隊向け食糧品を満載。続いてミッドウェーの占領を担当する第五陸戦隊員816名を便乗させる。

5月15日、ミッドウェー作戦に参加するためを出発。護衛隊に編入され、経由地のサイパンしたが、敵潜水艦の出現により入港中止。21日に急遽グアムへ寄港し、を供給した。その後サイパンに入港し、物資を降ろした。5月28日、他の船団や占領隊、航空隊とともに出港。サイパンを遊する敵潜水艦を欺くため、テニアの西側を南下する偽航路を使用。14時以降は厳重な線封鎖を行った。翌29日午前1時に北東へ変針し、6月1日に針路75度に変更。ミッドウェーに向かった。航空隊や駆逐隊支援を受けながら、敵潜水艦が潜む域を渡っていく船団。

6月4日午前6時15分、船団はカタリナ飛行艇に発見され、航空機5機による執拗な触接を約1時間に渡って受けた。防を担当する航空隊から迎撃機6機が上がったが、性差もあって捕捉できなかった。ミッドウェーまで約670里、ここはもう敵の庭だった。13時頃、B-17爆撃機9機が襲来。輸送船に向けて多数の爆弾を投下してきたが、いずれも被害かった。あるぜんちな丸は装備していた固定の機2基と陸戦隊の助で対戦闘。あるぜんちな丸は710発、陸戦隊2514発を発射して難を逃れた。になっても敵の航空攻撃が続き、23時に清澄丸が、23時54分にあけぼの丸が被。幸い致命傷にはならなかった。しかし6月6日午前0時47分、ミッドウェー作戦の中止命が下った。この戦に大敗した事で、あるぜんちな丸の運命が一変する。6月13日グアムに帰投。同21日に横須賀へ帰投した。一週間後、横須賀を出港。占領したばかりのキスカ島を輸送した。

8月1日、門から佐世保へ回航。物資と人員を積載し、東南アジア方面への輸送任務に従事する。香港シンガポールマカサル、ポマラに寄港して便乗者と物資を降ろした。9月8日午前4時25分、で敷設船と衝突事故を起こすが大事には至らず。事に佐世保へ到着した。

余談だが、二の姉妹船ぶらじる丸は8月4日潜水艦グリーンリング撃で沈没している。

空母化

ミッドウェー海戦の大敗により、空母の補充が急務となった帝國海軍装案を具体化し、優秀な大船舶を次々に装し始めた。あるぜんちな丸も例外ではなく、6月30日装が決定。

12月10日軍が船体を買い取り、同20日から長崎造船所で装工事が始まった。小なので飛行甲はなるべく長くするよう計画していたが、それでも搭載機の発艦には速が足りないと判断された。速不足を補うべく機関ディーゼルエンジンから陽炎型機関に変更。速23.1ノットに向上した。しかし今度は船体中央部の重量が減少し、重心の上昇を招いたため船倉にバラストを搭載。缶4基を二区画に収め、機関室の両側に縦を設けて重油タンクとし、燃料の搭載量を増やしつつ復元を強化した。右舷の湾曲煙突には熱煙冷却装置を装備。低い波性を考慮し、高を後方に集めた。160mの飛行甲を設置し、九七式艦攻12機を常用搭載。194311月8日と15日に全試を実施し、11月23日に工事了。軍艦海鷹と命名され、横須賀鎮守府に編入。帝國海軍最小空母として生まれ変わった。

排水量1万3600トン、全長165.55m、全幅23m、線幅21.9m、最大速23ノット、出5万2000、航続距離7000里(18ノット時)、搭載機数24機、乗員587名。

元が大客船なので船体が安定しており、航空機の発着艦が容易に行えた。洗面所や調度品は客船時代のものを流用しており、帝國海軍の艦船にしては居住性に優れていた。瑞鳳から転任してきた士官は、あてがわけた私室のさに驚いたという。

小さな巨人、海鷹

1943~1944年

こうして誕生した海鷹は11月24日徳島を出港してに回航された。12月15日に大等とともに上護衛隊に編入され、1944年1月4日を出港。瀬戸内海西部相方神鷹と合流し、第23航空隊の九七式艦攻12機、九九式艦爆、月光を積載。駆逐艦、電、薄に護衛されながら1月8日に出発した。ところが神鷹機関不調を訴え、佐伯湾に仮泊。結局神鷹へ引き返す事になり、と電を伴って1月12日に再出発。空母になってから初めての外洋航行に臨んだ。

1月16日に経由地のマニラへ到着。2日後に出港し、同21日にシンガポール到着。運んできた航空機を降ろし、代わりに第551航空隊の21機を積載して1月21日に出港。スラバヤを経由し、トラックに向かった。中の2月10日、敵潜水艦から撃を受けたが幸運にも命中せず。翌11日、トラックに入港。山を降ろした。この時、トラックには大襲の兆があったが、本格的な襲が始まる前に海鷹は出港。難を逃れた。しかしせっかく運んだ山は、2月17日トラック襲で破壊されてしまった。帰路はサイパンに寄港しつつ、2月20日へ帰投。日立造船工場に回航され、入渠整備を受けた。3月2日出渠。

3月頃、マーシャルに停泊するアメリカ艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける雄作戦が立案された。この計画に海鷹も投入され、第一航空艦隊の艦載機を搭載する予定になっていた。ところが事件で古賀長官が殉職したため作戦は立ち消えとなってしまった。もし実行されていれば、艦隊決戦に参加していたと思われる。

内地の海鷹は第931航空隊を乗せ、自前の航空隊を持つ。3月10日から発着艦訓練を始めるが、事故により殉職者を出す。翌11日、海防艦が訓練の支援に参加。訓練は16日に了。4月3日午前6時、大連から出港してきたヒ57船団の護衛に参加。南方航路には潜水艦跋扈しており、少しでも危険を回避すべく大陸沿いの航路が選択された。大陸沿いであれば片側だけの警で済む利点もあった。経由地の高雄に寄港し、三日間荷物の積み下ろしを行った。船体が大きいので揺れ幅が少なく、船酔いは起きなかったという。幸いにも敵に遭遇する事はく、シンガポールまで送り届けた。4月21日、今度はヒ58船団を護衛して出港。中の24日、サイゴンで上援護中の九七式艦攻が潜水艦ロバロを発見。ロバロは急速潜航したが、深度16mで投下された爆弾が左舷前部の至近で炸裂。深度調整機が一時的に失われ、多くの機器が不調に陥った。小破したロバロは慌てて撤退した。5月3日に到着し、護衛成功。続くヒ65船団、ヒ66船団の護衛にも参加し、いずれも損く成功させた。7月2日から5日にかけてに入渠。

マリアナ沖海戦での敗北により、軍はフィリピンの防御を固める方針を打ち出した。7月13日、大神鷹とともにヒ69船団へ参加。このうち対潜機を持っていたのは神鷹だけだった。中で潜水艦の襲撃を受けて第17号海防艦が中破したものの喪失艦はく、零戦55機と彗星10機をマニラに輸送した。ここで神鷹や大と別れ、帰り道は単身マモ01船団を護衛して7月5日出港。高雄を経由して門に護送。危険な域を何度も往来して輸送船団を援護した。8月3日へ回航されたが、機関の故障により急遽修理を余儀なくされる。10月1日に出渠し、さっそく輸送任務に復帰。台湾沖航空戦で損耗した物資と航空機を補給するため、龍鳳とともに緊急輸送に臨む。10月17日連合艦隊へ編入。

10月25日高雄航空の機材を輸送する龍鳳を、駆逐艦、樅、榧とともに九七式艦攻で支援した。ところが入港先の台湾襲を受けたため、船団は一時避難。何とか同27日に基港へ辿り着き、物資を降ろした。帰路はアルコール砂糖を積載し、11月2日へ帰港。今回も護衛を成功させた。その後、軍工に入渠。11月21日まで整備を行った。

11月25日、六連を出港。最後の船団護衛に従事する。陸軍第10師団を乗せたマニラ行きの輸送船5隻とシンガポール行きの輸送船3隻からなるヒ83船団の護衛についた。この頃にはレイテ沖海戦に大敗し、制権を失って南方航路が閉ざされつつあった。経由地の高雄を出港した後の12月3日潜水艦4隻からなるウルフパックに捕まってしまう。護衛の第64海防艦パイプフィッシュに撃沈され、心丸が損傷した。非常に危険な域を辛くも突破し、12月12日シンガポールへ到着。帰路では大規模なヒ84船団を護衛するという重大かつ過酷な任務を課された。敵艦載機の襲撃を警して大陸側の航路を取り、サンジャック、キノン、香港、舟山列を経由して本土をした。12月31日、ヒ84船団が潜水艦イスに発見される。デイスは海鷹に狙いを定めたが、上には第931航空隊の艦載機がらせていて終始デイスの動きを妨。やっとの思いで攻撃位置について魚雷3本を発射したが、全て海鷹に回避された。デイスは海鷹の事を「千歳航空母艦」として報告、補給のためサイパンに後退した。

1945年

1945年1月13日17時25分、何とか門へ帰投。しかしこれ以降は深刻な燃料不足と南方航路の遮断により二度と外洋へ出る事はかった。去年12月桜花フィリピンに運んでいた雲龍が撃沈されたため、海鷹と龍鳳台湾に再度輸送する計画が立てられたが、実行には移されなかった。翌14日に軍港へ回航され、1月17日より修理と整備が行われた。同時に噴進4門と25mm単装機10丁が搭載された。3月18日、第1上護衛隊から除かれ、呉鎮守府部隊に転属する。海鷹は空母天城葛城の近くで投錨した。

3月19日中部部より敵艦載機120機が松山を通過したとの情報が入った。間もなく「総員戦闘配置」のラッパが鳴りき、慌しくなる。見り員がヶ峰上を西へ向かうグラマンの編隊を発見。そのまま広島市へ向かうかと思われたが、先頭が突如反転して襲い掛かってきた。艦長が撃を命じ、海鷹の火が一斉に解放された。周囲の僚艦も射撃を開始する。敵機は四方八方から襲来し、で機掃射や投弾を仕掛けてくる。至近弾で築かれた柱が、飛行甲より高く伸びる。やがて海鷹に爆弾が直撃するが、甲を貫通しの中で炸裂したため被害は少なかった。次に第二波の100機が襲撃してきた。再び全対火を解放するが、右舷から突っ込んできた敵機がロケット弾を発射。左舷中央部をかすめて至近弾となった。この余波で撃中の乗員1名が死亡。左機関室と14番タンクに浸が始まった。その影で左舷への傾斜が始まったが、幸い16度で停止した。辛くも襲を乗り切った海鷹だったが港内に留まるのは危険と判断。宵闇の中、右舷機関だけで出港し、江田島西へ避難。排作業が行われ、400トンを排して傾斜を元に戻した。

3月21日へ戻り、修理28日には呉鎮守府へ転籍となっている。4月13日江田島で擬装を行い係留。飛行甲上に植物が設置され、の一部であるかのように見せかけた。その後、第三船渠で緑色塗装し、別府湾へ回航。そこで発着艦訓練の練習艦となる。5月5日で入渠中にB-29爆撃に遭遇するが被害なし。同20日に修理を終え、別府湾で飛行訓練に協6月1日から29日まで大分県日出町で訓練を実施。食糧や飲料別府市内から供給してもらい、燃料は油槽船から補給している。7月からは大神基地と協し、特攻兵器回天の標的艦を務めた。搭乗訓練を修了した特攻隊員の卒業訓練で標的艦となり、重な経験を与えた。他にも海鷹に特攻隊員を招き、空母が取る回避運動教授した。

7月18日19時38分、佐田岬灯台合いで触し小破。翌19日に豊山沖駆逐艦風と一緒に避難し、の枝などで擬装を行った。しかし海鷹の存在はすぐに把握され、それから毎日のように襲された。アメリカ軍空母を最重要標に定めていたからだった。

最期

終戦直前の1945年7月24日正午別府湾が第38及び第57任務部隊の襲を受ける。海鷹にはエセックス艦載機5機が襲い掛かり損傷。16時30分、山口県へ退避するが、18時30分に大分県関崎の合いでB-29が敷設した磁気機に触して大破航行不能。発信号で駆逐艦を呼び寄せ、協議を行った。その結果、夕別府湾まで回航する事になった。もし航に失敗し船体が漂流していれば犠牲が多くなっただろうから、海鷹乗員は夕感謝した。余談だが、山を海鷹と誤認して攻撃した米軍機もいたとか。

7月25日午前8時頃、夕航された海鷹が日出に到達した。沈没を避けるため、夕に押し出してもらう形で意図的に座礁。の枝で陸地の一部を装った。

艦内への浸しく、もはや戦闘を喪失したも同然の状態だった。乗組員の大半は退艦し、対要員は残留した。ポンプで排作業を始めるが、7月28日第38任務部隊の襲を受ける。海鷹は夕とともに対火で迎撃するが、直撃弾3発を受けた事で発電室が破壊され、動を失う。これにより排ポンプが使えなくなった。加えて換気が出来なくなったため有ガスが発生した。20名の乗組員が戦死し、有ガスが充満したため船体は放棄され、部と兵員は日出学校に移動した。発電機が使用不能になったので、機や高を取り外して校庭内に設置し、動かす電を地上送電してもらった。海鷹から降ろされた食糧などの物資は、大神回天基地に搬入されている。

多くの資料では7月28日を海鷹の沈没日としている。一方、上甲水上に出ていたので軍艦旗は掲げられたままになっている。沈没時には回収されるはずなので、書類上は生存扱いだったのかもしれない。

翌29日にはB-25爆撃機5機の襲撃を受け、更に損傷。夕が対戦闘を行って海鷹を守ってくれたが、8月以降は襲を避けるために間しか活動しなくなった。8月9日、第38爆撃群所属のB-25が低攻撃を仕掛けてきた際に甲上の支柱に接触し、墜落。機長のエドウィン・H・ハウズ大佐以下乗員6名全員死亡した。思わぬ戦果を挙げた。8月10日午前8時、右舷側に傾斜。午後12時46分に右舷飛行甲没した。

このままの状態で8月15日終戦を迎えた。いよいよ軍艦旗が降ろされ、日出学校に避難していた乗組員たちは去っていった。アメリカに奪われるのを防ぐため、艦首から菊の御紋を外して大神基地で焼却処分された。この時、海鷹は第四予備艦の扱いだった。

11月20日に除籍。1946年9月1日日本サルベージが現地で解体開始。1948年1月31日了した。

戦後

1982年11月22日、終焉の地となった日出町軍艦海鷹之碑とその案内が立てられた。小柄ながら最期まで戦い続けた海鷹の名は、静かにり継がれている。

元乗組員の森山嘉蔵氏が自身の体験談に脚色を加えた戦記「終焉のが逝く 歴戦の空母海鷹の青春」という本を出している。

関連動画

関連項目

掲示板

  • 1ななしのよっしん

    2020/02/16(日) 18:53:55 ID: 9oOGQFhSb6

    素晴らしいです

  • 2ななしのよっしん

    2020/03/22(日) 18:29:53 ID: 9oOGQFhSb6

    海鷹所属の931の話も聞きたいです

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最終更新:2020/03/31(火) 02:00

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最終更新:2020/03/31(火) 02:00

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