海鷹とは、大日本帝國海軍が運用した商船改造空母である。1943年11月23日改装完了。最小の空母でありながら献身的に任務を全うし、終戦直前の1945年7月28日に航空攻撃で大破着底した。
海鷹の前身は、大阪商船が保有していたあるぜんちな丸級貨客船1番船あるぜんちな丸。
1938年より日本政府は「優秀船建造助成施設」という制度を施工。これは高性能な商船を建造する際、建造費の8割(後に予算不足で6割に減ったが)を海軍が補助する代わりに、有事の際は海軍に徴用されるというもので、この制度を初めて使用して建造されたのが大阪商船のあるぜんちな丸とぶらじる丸であった。このため設計段階から空母への改装が想定されている。
支那事変で物資が乏しくなっていく中、大阪商船は諸外国に日本の工芸技術水準が高い事を知らしめるべく「純和風」にこだわった。和辻春樹工務部長率いる設計チームは人員と内装に力を入れ、苦労して調達した物資は概ね日本製の物を使用、外国の豪華客船にスタッフを派遣してサービスの向上に努め、乗務員はイケメンを取り揃えるなど、内外ともに涙ぐましい努力を重ねて珠玉の豪華客船を作り上げる。このような背景から国策豪華船と呼ばれた。今まで手掛けた船の中で、あるぜんちな丸が最も大型かつ高価だったため、和辻工務部長は設計に相当苦心したという。
しかし「優秀船建造助成施設」制度を使用した事により帝國海軍から度々高性能化の要求があり、それらに合わせた結果、軍艦の性能と商船の性能が入り混じって、豪華客船単体としては不満足なものになってしまった。海軍の無茶な要求も和辻工務部長が設計に苦心した理由の一つ。
客船としては20ノットあれば十分だったのだが、空母化を見越した海軍から21ノット以上を要求され、ディーゼル機関は当時最大出力の8250馬力を誇った三菱長崎造船所製作のエンジン2基を採用。ところがその代償に激しい振動を引き起こしてしまい、同じく長崎造船所製の振動抑制装置を組み込んで何とか問題を解決。またエレベーターを設置するべく、スペース確保の目的で船倉口の長さを大きく取るといった工夫を凝らすなど設計には大きな苦労を払った。
あるぜんちな丸は大阪商船最大の船舶でもあった。あまりの大きさに関西地区には彼女を収容出来るドックが存在せず、当時取引が無かった播磨造船所に依頼し、相生工場に第二ドックを作って貰って急場を凌いだエピソードがある。就役後は姉妹船ぶらじる丸とともに南米移民航路へ投入され、同航路の居住性と輸送能力が格段に改善。優美な船体は好評を呼んだとされる。
要目は排水量1万2755トン、全長155m、全幅21m、深さ12.6m、出力1万6500馬力、最大速力21.48ノット。定員は一等101人、特三等138人、三等662人。
小型なので、飛行甲板をなるべく長くするよう計画していたが、大鷹型が172mなのに対し海鷹は160mほどしか確保できず、また搭載機の発艦には速力が足りなかった。このため零戦、九七式艦攻、九九式艦爆は飛行甲板全体を活用すれば一応飛ばせるものの、空母の肝である搭載数は非常に少なく、攻撃型空母とはなりえなかった。
速力不足を補うべく主要機関をディーゼルエンジンから陽炎型の機関に変更。最大速力が23.1ノットと僅差ながら他の大鷹型を上回る速さを獲得したが、主機換装が工事期間の長大化に繋がり、また機関を変更した事で、今度は船体中央部の重量が減少し、重心の上昇を招いた。対策として船倉にバラストを搭載、水菅缶4基を二区画に収め、機関室の両側に縦壁を設けて重油タンクとし、燃料の搭載量を増やしつつ復元力を強化した。右舷の湾曲煙突には熱煙冷却装置を装備。低い凌波性を考慮し、高角砲を後方に集めた。
ミッドウェー海戦の戦訓により、破孔が生じると効果的消火が困難になる炭酸ガス消火装置から石けん水を用いた泡沫式撤水装置に変更、機関室及び缶室給気路を改良、不燃性塗料の採用などの対策を実施。
飛行甲板には九七式艦攻12機を常用搭載。元が大型客船なので船体が安定しており、航空機の発着艦が容易に行える強みがあった。ちなみに、洗面所や調度品は客船時代のものを流用、帝國海軍の艦船にしては珍しく居住性に優れており、実際瑞鳳から転任してきた士官は、あてがわれた私室の豪華さに驚いたという。
大鷹、雲鷹、冲鷹は新田丸級、神鷹は新田丸級の原型となったドイツ客船シャルンホルストから改装され、両者は差し詰め腹違いの兄弟のような間柄だが、海鷹のみ全く関係無いあるぜんちな丸級からの改装であるため、一応大鷹型空母に区分されているものの、姉妹艦とはやや言いづらい存在だった。
要目は排水量1万3600トン、全長165.55m、全幅23m、水線幅21.9m、最大速力23ノット、出力5万2000馬力、航続距離7000海里(18ノット時)、搭載機数24機、乗員587名。武装は12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃8基。
1938年2月5日、優秀船舶建造助成施設第118号として三菱重工業長崎造船所で起工、同年12月9日に進水してあるぜんちな丸と命名され、1939年5月31日に竣工を果たして船籍港を大阪に定める。総工費は1013万円に及んだ。
6月11日に神戸へ回航されて調度品の積み込み作業を実施。6月17日から23日まで芝浦で、7月3日から6日まで神戸で完成お披露目会を行い、およそ10万人が招かれた。日本における1万トン級客船の建造は実に8年ぶりであり、それだけに船舶業界や国の期待は大きかった訳である。
そして7月11日15時、あるぜんちな丸は横浜を出港して処女航海兼西回り世界一周を始める。初航海の際、著名な俳人・山口誓子が乗船しており、四日市へ寄港した際、弟子の柳生夜来や杉本幽烏、俳人の葛山たけし、作家福山願一の4名が出迎え、長町の大智院に直行して松尾芭蕉の筆跡を拝見、夫婦そろって句を詠み、桑名の船津城で昼食、午後は四日市市内の東海道旧道を散策し、あるぜんちな丸に戻ったエピソードがある。この時の縁で、三重県伊勢市のおかげ横丁に所在する山口誓子俳句館にあるぜんちな丸の大型模型が展示された。
その後は神戸、香港、シンガポール、コロンボ、ダーバン、ケープタウン、リオデジャネイロ、サンスト、モンテビデオを巡航し、8月27日にブエノスアイレスへ到着した。だが大いなる期待を背負った彼女の道筋に暗雲が立ち込める。
9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発したのである。日本はドイツと同盟関係にあったため対日感情の悪化を招き、中立である事を示すためにブエノスアイレス港内で船腹に日の丸の塗装、緊急避難や航路の変更を検討しながら本国へ戻る事になった。パナマ運河を通過する際、アメリカに拿捕される危険性もあったが、何事もなく通過してロサンゼルスに寄港、10月17日午前、横浜に入港して世界一周を成し遂げた。
11月14日、南米への移民を乗せて横浜を出発、二度目の西回り世界一周をしながらブラジルを目指す。12月27日にモンテビデオ近海を通った際、ラプラタ沖海戦で自沈したドイツ海軍の装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーの残骸を目にし、翌日ブエノスアイレスに到着。帰路はパナマ運河とアメリカ西海岸を経由して横浜に戻った。
南米に続々と移民を運んでいたあるぜんちな丸だったが、対米関係の悪化によって、優秀船舶が外地に取り残される事を懸念した日本政府は、1941年1月12日に近海の大連航路へと再就役させ、2月20日より実際に運航を開始。だが戦争の足音は大きくなる一方で、5月頃には帝國海軍はあるぜんちな丸の徴用・空母改装化を検討、そして9月29日、いよいよ海軍に徴用されて横須賀鎮守府所管の一般雑用船となり、神戸へ入港した時にあるぜんちな丸は客船としての華やかな生涯を終えた。
開戦直前の12月4日、前進拠点のトラック諸島に軍需品を届けたあるぜんちな丸は横須賀に向けて出発、道中の12月6日に機密横須賀鎮守府命令作第14号により直卒部隊補給部隊に編入され、12月7日へ横須賀に帰投した。
1941年12月8日に大東亜戦争が開戦。あるぜんちな丸は横須賀軍港内で運命の開戦を迎える。
すぐにサイパン行きの航空資材とトラック行きの航空油3000缶、機銃弾425箱、信管95箱を積載し、12月17日に横須賀を出発、12月23日にサイパンへ寄港して航空資材を揚陸、続いて12月28日にトラックへ入港して残りの積み荷を全て降ろした。
1942年1月8日にトラックを出発、1月10日、占領に成功したグアム島(大宮島)へ立ち寄って同日午後に出発し、多度津、釜山、呉を経由したのち1月25日に横須賀へ帰投する。1月28日、補給部隊から外されたが今度は軍需品と人員輸送に従事。
2月1日、横須賀を出港したあるぜんちな丸は、2月6日サイパン、8日から14日までトラック、16日ポナペ、17日ブラウンにそれぞれ寄港し、2月20日、第6艦隊の司令部があるマーシャル諸島クェゼリンに入港。ここからルオット、タロア、イミエジ、ウォッゼなど中部太平洋の島を転々として輸送任務に励む。3月2日にトラックを、帰路に南鳥島へ立ち寄り、3月13日横須賀に帰投した。
3月21日に三度目の輸送任務を行うべく横須賀を出港。釜山にて物資を積み込んだ後、再び中部太平洋方面に向かい、メレヨン、トラック、ミレ、ルオットに寄港、4月7日、ボルネオ島ミリに寄港したのち、4月14日に横須賀へと帰投。内地にてミッドウェー作戦の準備に着手する。
5月1日、戦時編制によって連合艦隊に編入、同時に特設運送船に変更され、監督官の渡部威中佐が乗船。呉工廠にて12cm単装砲2門と7.7mm機銃2丁の搭載工事を受ける。5月5日午前8時50分から14時30分まで広島湾で砲術訓練に従事。呉に戻った後、軍需品、弾薬、酒保品、呉第5陸戦隊向け食糧品を満載、続いてミッドウェー島の占領を担当する第5陸戦隊員816名を便乗させる。呉停泊中、第二連合特別陸戦隊司令の大田実大佐がやってきて、あるぜんちな丸が今後投入される作戦について説明があった。
5月15日午前7時、あるぜんちな丸はミッドウェー作戦に参加するため呉を出発。護衛隊に伍した。当初は経由地のサイパンを目指していたが、5月20日、米潜水艦が出現したとの報が入り、翌21日午前10時40分にグアムへ急遽寄港、現地で真水を供給したのち、5月23日正午にグアムを出港、本来の寄港先であるサイパンへは5月24日午前1時に到着する。
5月28日17時40分、他の船団や占領隊、航空隊とともに出港、サイパン近海を遊弋する敵潜水艦の目を欺くため、テニアン島の西側を南下する偽航路を使用、14時以降は厳重な無線封鎖を行った。翌29日午前1時に北東へ変針し、6月1日朝に針路75度に変更してミッドウェー島に向かった。
6月4日午前6時15分、船団はPBYカタリナ飛行艇に発見されたのを機に、航空機5機による執拗な触接を約1時間に渡って受ける。防空を担当する航空隊から迎撃機6機が上がったが性能差もあって捕捉に失敗。ミッドウェー島まで約670海里。ここはもう敵の庭だった。13時頃、B-17爆撃機9機が襲来、輸送船に向けて多数の爆弾を投下してくる中、固定の機銃2基と陸戦隊の助力で対空戦闘を実施。あるぜんちな丸は710発、陸戦隊は2514発を発射した。夜になっても敵の航空攻撃は続き、23時に清澄丸が、23時54分にあけぼの丸が被雷するなど被害が相次ぐ。
6月6日午前0時47分、突如としてミッドウェー作戦の中止命令が下った。先鋒を務めていた南雲機動部隊が正規空母4隻を失って壊滅したのだ。味方空母を失った事でミッドウェー周辺の制空権は完全に敵の手中に収まり、ろくな航空兵力を持たない護衛隊は、今すぐこの危険な海域から離脱しなければならなくなり、6月13日15時30分に何とかグアムまで後退。6月17日に出港し、6月21日横須賀へ帰投した。
ミッドウェー作戦の失敗により一時占領に留める予定だったアリューシャン列島を恒久占領に変更。
6月28日、キスカ島に第二連合特別陸戦隊、火器、弾薬、食糧、石炭を送るべく、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)に護衛されて横須賀を出港。アリューシャン方面は開戦時こそアメリカ軍も旧式のS級潜水艦程度しか配備していない、言わば手薄な海域だったが、アリューシャン作戦後は新型のガトー級潜水艦を次々に投入、航行中は米潜水艦ノーチラスの雷撃を受け、7月5日にキスカへと辿り着いた直後、沖合いに停泊していた第18駆逐隊をグロウラーが襲撃し、霰が轟沈、霞と不知火は大破航行不能という実質壊滅に等しい大損害が発生している。
7月9日に湾内で駆逐艦電に対する燃料補給を行う。次いで7月10日、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦若葉、電に護衛されて出港、途中で阿武隈が護衛より離脱し、7月15日17時に横須賀へ帰投した。この輸送を以って連合艦隊附属より除かれる。
8月1日午前、門司を出港して佐世保に回航、東南アジア方面行きの338名の便乗者と1607トンの物資を積み込む。8月3日15時に佐世保を出港、8月6日午前10時30分に香港に寄港して、乗客3名と貨物600kgを揚陸したのち翌7日18時に出発、8月11日17時、シンガポールに入港して40名の便乗者と1121トンの物資を揚陸、新たに159名の便乗者と2トンの貨物を載せた。
8月15日正午、あるぜんちな丸はシンガポールを出港して東航。8月18日午後12時55分にマカッサルへ寄港して便乗者114名と貨物2トンを揚陸、新たに160名と472トンの貨物を積載し、8月22日午前10時に出発するが、スラバヤに向かう途中で寄港中止となって反転、マカッサルにてスラバヤ行きの124名と214トンの貨物を降ろし、代わりにスラウェシ島南東ポマラに向かう72名と物資319トンを積載、8月24日21時30分にマカッサルを出港してポマラへと向かった。
8月28日午前10時にマカッサルへ帰投。日本本土に持ち帰るための銅62トン、コプラ25トン、塩100トン、ココナッツシェル75トン、その他物資18トンを積載した。
8月31日午前8時にマカッサルを出発するが、9月8日午前4時25分、黄島沖で敷設船燕と衝突事故を起こしてしまう。幸い大事には至らず同日中に佐世保へ帰投した。余談だが、唯一無二の姉妹船ぶらじる丸は8月4日に米潜水艦グリーンリングの雷撃で沈没している。
10月3日、佐世保鎮守府信電令作第93号により、高雄への人員輸送が命じられ、横浜を経由したのち佐世保へ回航、予備学生531名、准士官以上9名、下士官117名、家族42名を乗船させ、翌4日に佐世保を出港した。台湾近海には既に米潜水艦の出没が始まっていたものの、何事もなく10月6日に高雄へ入港、人員輸送終了後は10月15日に呉へ帰投した。10月29日以降は神戸港内に留まる。
ミッドウェー海戦の大敗により、空母の補充が急務となった帝國海軍は戦艦大和の艦上で6月20日と21日に航空母艦改良研究会を開いた。ミッドウェーで得た手痛い戦訓を基に誘爆の危険性を除去しつつ、急速に空母を大量建造する方針を固め、6月下旬、軍令部と海軍部の関係者が五昼夜に渡る不眠不休の作業で具体化。これにより1943年までにあるぜんちな丸を空母化し、極力工事を促進する事が策定された。この案は嶋田海軍大臣の決裁を受けて6月30日に改装が決定。
1942年12月10日、船体を海軍が買い取って三菱重工長崎造船所に回航、仮称1005号艦の名を与え、昭和18年7月完工を目途に、12月20日から改装工事が始まった。速力向上のため機関の換装工事も行ったので工事の長大化を招いている。また得られた戦訓に応じて予備舵取り機と人力ポンプの設置も並行して実施。
1943年11月8日と15日に伊予灘で全力公試を行い、最大速力23.82ノットを記録。11月17日午前7時に長崎を出港、佐世保防備隊の支援を受けながら、速力20ノットで壱岐水道から下関に向かった。そして11月23日工事完了。軍艦海鷹と命名されるとともに横須賀鎮守府に編入され、帝國海軍最小の空母として生まれ変わった。
11月24日に徳山へ寄港して燃料補給したあと同日中に呉へと移動。次いで12月3日から10日まで瀬戸内海西部で各種試験に従事する。12月15日付で海鷹、大鷹、雲鷹は船団護衛を担当する海上護衛隊に編入、一足先に編入されていた神鷹と4隻体制となる(冲鷹のみ編入前に沈没していた)。
当初軍令部は大鷹、雲鷹、神鷹、そして海鷹からなる4隻の特設空母を「航空基地の数が少なく、基地の相互距離も離れている横須賀・小笠原・サイパン方面での運用」を考えていたが、一応編入されたとはいえ、すぐに海上護衛任務に投じられるような状況ではなかった。1942年4月10日の海上護衛隊創設以来、護衛艦艇の不足は常に付きまとった頭の痛い問題で、これに伴って、空母自身の安全確保が出来ない懸念が、海鷹の太平洋方面投入を躊躇させたのである。また空母搭乗員の練度も低く対潜任務はおろか自衛すらもままならない。
空母用の護衛艦艇は割けないし、対潜掃討任務も満足に行えないから、正直お荷物でしかないというのが海上護衛総隊側の率直な感想だったようで、参謀の江口英二大佐は「特設空母4隻の海上護衛司令部部隊配属は、余り歓迎出来ないというのが真相だった」と回想している。とはいえ満足出来る性能ではないにせよ特設空母4隻を海上護衛に回した海軍中央部の判断は、これまでの補給線軽視の姿勢からは想像出来ないほどの思い切った転換だった。
海上護衛隊側の運用準備が整うまでの間、とりあえず連合艦隊の指揮下に入って航空機輸送任務に従事。1944年1月4日に呉を出港、瀬戸内海西部で神鷹と合流し、1月7日、岩国沖で南西方面に進出する第23航空隊の九七式艦攻12機、九九式艦爆、月光を積載。
1月8日午前8時30分、駆逐艦雷、電、薄雲の3隻を護衛に引き連れて呉を出発。ところが出発直後に神鷹が機関不調を訴え、翌日佐伯湾に仮泊するも、修理の見込みが立たなかったため、1月12日13時に神鷹を置いて湾内を出発。空母になってから初めての外洋航行に臨んだ。翌13日、海防艦択捉等が護衛するヒ33船団を合流して南下を開始。
1月14日19時30分に中継地の高雄へ寄港。ここからマニラに向かって移動を始める。1月16日、マニラに到着して航空機を揚陸、同日中にマニラを出発したところで舵が故障してしまい、シンガポールまでの航海に耐えられなくなったため、深夜頃に再びマニラへ入港して応急修理を受ける。
1月18日、駆逐艦響、電を伴ってマニラを出発、米潜水艦が遊弋する危険な海域を通り抜け、1月21日、シンガポールのセレター軍港に到着、運んできた航空機を降ろし、代わりにサバンから移動する第551航空隊の天山21機を積載する。天山は両翼を折りたたむ事が出来るので海鷹でも21機の積載が可能だった。
1月31日にシンガポールを出港、2月3日にタラカンで燃料補給を行い、2月8日にパラオへ寄港した際に天山の一部を降ろした後、同日中に出港してトラック諸島を目指す。
2月10日23時15分、トラック南方を哨戒していた米潜水艦パーミットはレーダーで海鷹を捕捉。翌11日午前0時57分、海鷹の右舷側から4本の雷跡が伸びてきて、午前1時5分に3回の爆発音が聴音された事からパーミットはダメージを与えたと判断。幸い海鷹には命中しておらず被害は無かった。2月11日に無事トラック諸島へ入港、運んできた天山を降ろした。だが、一大拠点のトラックにも空襲の予兆があり、決して安全な場所とは言えなかった。
2月13日に駆逐艦響と電に護衛されて出港。それから間もない2月17日にトラック島空襲が行われ、海鷹は間一髪のところで虎口を脱した訳だが、この時の空襲で海鷹が届けた天山18機が破壊されてしまっている。2月20日、輸送任務を終えて呉に帰投、2月23日に日立造船因島工場に回航され、3月2日まで入渠整備、出渠後は因島を出発して呉へと戻っていった。
3月頃、マーシャル諸島に停泊するアメリカ艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける雄作戦が立案。作戦には海鷹も投入される予定で、第一航空艦隊の艦載機を搭載する予定になっていたが、海軍乙事件で古賀長官が殉職した影響で、作戦は立ち消えとなってしまった。もし実行されていれば艦隊決戦に参加していたと思われる。
3月10日より佐伯湾で第931海軍航空隊の発着艦訓練に協力。翌11日、海防艦倉橋が訓練の支援をしてくれた。事故により殉職者を出したものの訓練自体は3月16日に完了した。翌17日午前8時に呉を出港して徳山に回航。
3月29日未明、徳山を出港して門司港に向かい、道中で第931航空隊の九七式艦攻12機が海鷹に着艦、同日午前8時に門司港へと到着した。現地には大連から来た輸送船9隻からなるヒ57船団が待機しており、護衛戦力には海防艦択捉(旗艦)、壱岐、占守、第8号、第9号海防艦、水雷艇鷺が投入された。
4月1日にヒ57船団は門司を出港、しかし悪天候に阻まれて一旦門司に引き返さなければならなかった。
天候が回復したのを見て4月3日午前6時に再出発。船団は遠回りなのを承知の上で大陸接岸航路を選択し、東南アジアを目指す。大陸接岸航路は敵潜が活動しにくい浅瀬が多く、味方の支援が受けやすく、大陸沿いであれば片側だけの警戒で済む利点があり、遠回りをするだけの価値があった。4月5日、伴走者の神州丸が雷跡を確認、すぐさま海鷹の艦載機が対潜掃討を行っている。ただアメリカ側の記録によれば当時そこには潜水艦はいなかったという。便乗者曰く「船体が大きいので揺れ幅が少なく、船酔いは起きなかった」との事。
4月7日14時50分に高雄へと到着、三日間荷物の積み下ろしを行った。ここで第8号海防艦がタサ17船団護衛のため離脱、続いて4月10日に高雄を出発し、4月12日19時30分カムラン湾に寄港、翌20日正午に出発する。
4月15日、南シナ海で対潜哨戒中の海鷹艦載の九七艦攻が敵潜発見の報を出し、爆弾2発を投下、直ちに占守、択捉、壱岐、第9号海防艦が急行し、28個の爆雷を投下したものの戦果不明。記録によると米潜水艦はいなかった模様。米潜水艦の暴威に曝されながらも、4月16日午後12時40分に無事シンガポールへ入港、輸送船が燃料を積み終わるまでの間、海鷹は待機を命じられた。
4月21日午前7時、海防艦択捉、壱岐、占守、第9号とともに本土へ向かうヒ58船団(輸送船7隻)を護衛して出港。道中の4月24日18時30分、サイゴン東岸で対潜哨戒中の九七式艦攻が、船団の後方15海里より浮上追跡してくる米潜水艦ロバロを発見、発見を悟ったロバロは急速潜航するも、水深16mで投下された250kg爆弾が左舷前部の至近で炸裂、深度調整機能が一時的に失われ多くの機器が不調に陥った。またパニックに陥った乗組員の不手際で過剰に浸水が発生。九七式艦攻は応援要請を発し、海防艦壱岐と第9号海防艦が分派、爆雷投下によってロバロは甚大な被害をこうむり、慌てて撤退した。海鷹側は撃沈を報じ、第一海上護衛隊も戦果を認定する。翌日船団は念のためカムラン湾に退避。
5月3日、船団は1隻の犠牲も出す事なく門司に到着。午後遅くに呉へと回航され、5月22日まで呉工廠で船体と兵装の整備を受ける。入渠整備が終わると即座に次の護衛任務が舞い込み、5月24日に呉を出港、翌日門司に回航され、ヒ65船団12隻と合流する。
5月29日午前6時、ヒ65船団を練習巡洋艦香椎、海防艦淡路、千振、第19号海防艦、機雷敷設艦燕、第60号駆潜艇と護衛して門司を出発。しかし今回の護衛任務は一筋縄ではいかなかった。
道中の6月2日午前2時40分、火焼島北西15kmにて米潜水艦ピクーダが魚雷6本を発射、船団に迫り来る雷跡をいち早く発見した淡路は旗艦香椎に魚雷発見報告を行い、タンカーを守るため自ら射線上に割り込んで撃沈される。それでも有馬山丸に魚雷1本が命中したが不発だった。だが水中で淡路が爆発した事で、ヒ65船団は混乱に陥り、有馬山丸と陸軍特種船神州丸が衝突、その衝撃で神州丸搭載の爆雷が起爆して航行不能になってしまったので、香椎の曳航で基隆に退避している。
午前5時15分には米潜ギターロが襲ってきたが、こちらは護衛艦艇と九七式艦攻の爆雷攻撃で撃退、午前6時4分、海鷹が放った対潜哨戒機が船団の800m以内に敵潜水艦を発見し目印を投下、第19号海防艦が44個の爆雷を投射してこれを追い払う。その後、第19号海防艦は撃沈された淡路の生存者5名を発見して救助。
数々の襲撃を受けながらも、6月4日午前6時に台湾の高雄へ寄港。ここで船団の再編制が行われ、1万500トンのタンカー仁栄丸と護衛の第7号、第11号海防艦を加えて同日中に出港、第19号海防艦は機関不調のため高雄に留まっている。
6月8日午前9時6分、インドシナ沖で米潜水艦ガンネルが潜望鏡で海鷹を視認。気付かれないよう密かに追跡を行う。そんな中、ガンネルのレーダーに航空機の機影が映り、焦った甲板士官は判断ミスを犯して急速潜航を指示、せっかくの好機を自ら手放す形となった。ガンネルが再び浮上した時には既に海鷹は水平線の向こう側。こうしてガンネルのハンティングは失敗に終わった。6月11日13時50分、船団はシンガポールに到着した。
6月17日午前4時、巡洋艦香椎、海防艦千振、第7号及び第11号海防艦とともにヒ66船団を護衛して出発。帰路は大陸接岸航路を通り、敵潜が待ち伏せ出来る深い海域を極力回避、そのおかげか敵襲を受けないまま6月26日13時に門司へ入港。7月2日から5日にかけて呉工廠で入渠整備を受ける。
マリアナ沖海戦の敗北により帝國陸海軍はフィリピンの防御を固める方針を打ち出す。7月9日、海鷹は新たな輸送任務を受けて呉を出発、大鷹とともにルソン島行きの航空機を満載し、護衛艦ではなく輸送艦としてヒ69船団に加入する。代わりに哨戒任務を引き受けたのが神鷹であった。
だが、南シナ海は日を追うごとに危険な海域へと変貌しつつあった。それを証明するかのように7月18日早朝、ロック、ソーフィッシュ、タイルフィッシュからなるウルフパックに捕まってしまう。午前6時頃、高雄近海で機関不調を起こして落伍していた2TL戦時標準型タンカーはりま丸に向け、ロックが魚雷4本を発射、これは失敗に終わったが、次にソーフィッシュが襲来して9本の魚雷を発射、午前8時50分にはりま丸が被雷したものの幸い致命傷には至らず。
午前10時55分、今度はタイルフィッシュが雷撃を行い、対潜掃討中の第17号海防艦の艦首を吹き飛ばして大破へと追いやる。神鷹の九七式艦攻が駆けつける前にタイルフィッシュは潜航した。あまりにも敵潜の襲撃が相次いだので高雄への寄港を中止し、直接マニラを目指す。7月20日21時に何とかマニラ入港、零戦55機と彗星10機を陸揚げした後、シンガポールへ向かうヒ69船団と神鷹、先行して台湾に戻る大鷹と別れ、海鷹はマニラ発門司行きのマモ01船団の護衛を命じられる。
7月25日午前4時、駆逐艦秋風や初霜等とともにマモ01船団を護衛して出発、7月27日14時から翌28日まで高雄に寄港し、門司まで護送して今回の護衛任務も完遂させた。
8月1日、呉にて若干の整備を実施し、8月4日に門司へ移動して新たな船団護衛に臨もうとしたが、これまでのハードスケジュールが祟ったのか機関不調を訴え、8月25日に佐世保まで回航、9月6日から11日まで乾ドックで入渠修理を受ける。9月29日に岩国沖で機関の試験が行われた。修理を完了させた海鷹は10月2日に関門海峡へ回航。
10月12日より生起した台湾沖航空戦により、被害を受けた第61航空廠の再建資材を緊急輸送する必要が生じ、内地に留まっていた龍鳳と輸送任務に投入、10月17日には連合艦隊直轄となる。これに伴って海鷹は10月22日に呉を出港、佐世保へと進出する。
10月25日午前10時、高雄航空廠の機材を輸送する龍鳳を護衛して出港。伴走者は駆逐艦桃、梅、樅、榧で、海鷹も九七式艦攻で支援する傍ら、基隆行きの12機の航空機を積載している。入港先の台湾が空襲を受けたので船団は一時退避を強いられるも大きな敵襲は起きなかった。10月27日午前10時、基隆に到着して物資を揚陸、帰路はアルコールや砂糖を積載し、10月29日13時30分に出発、平穏な航海を経て、10月31日17時30分に六連泊地まで到着した。
11月2日に呉へ移動。その後、呉海軍工廠に入渠して11月21日まで整備を行った。入渠整備中、神鷹が撃沈され、海鷹は大鷹型最後の生き残りとなる。翌22日に呉を出港、徳山で燃料補給を行ったのち門司へ回航していよいよ最後の輸送任務に挑む。
11月25日20時、マニラ行きの増援部隊である陸軍第10師団を載せた輸送船5隻と、シンガポール行きの輸送船3隻からなるヒ83船団を護衛して六連島を出港。護衛兵力は海鷹、駆逐艦神風、夕月、第25号、第35号、第63号、第64号、第207号海防艦と強力な護衛を伴っていたがレイテ沖海戦の敗北で南シナ海の制海権は失われつつあり、今や南方航路の閉鎖も時間の問題と言えた。
11月30日午前6時にヒ83船団は高雄に寄港。海鷹は沖合いに投錨して一晩を明かした。ここでマニラ行きの輸送船と別れ、1万トン級タンカーみりい丸と第102号哨戒艇を加えて12月1日に高雄を出発した。
12月3日未明、米潜水艦4隻で構成されたウルフパックに捕捉される。午前5時52分、みりい丸が浮上中のパンパニトを発見し、体当たりを仕掛けようとしたところ潜航されたため爆雷を投下、しかしパンパニトの追跡を振り切る事は出来なかった。この時、海鷹は船団の前路哨戒をしていてヒ83船団の上空援護が行われておらず、その隙を突くかのように午前6時7分、第64号海防艦がパイプフィッシュに撃沈され、また午前6時30分にはパンパニトの雷撃で誠心丸が損傷。誠心丸の護衛に第207号海防艦を残し、船団は分散しながら海南島の楡林へ退避した。後にみりい丸が誠心丸援護のため船団から派遣されている。
12月8日に海南島を出発、予定外の寄港でスケジュールに狂いが生じたので、船団は速力を上げて危険海域の突破を試み、12月12日18時45分にシンガポールへ到着。海鷹は整備のためセレター軍港に移動する。遅れていた誠心丸も第207号海防艦、みりい丸、偶然通りがかって護衛に加わった第102号哨戒艇を伴って、翌日シンガポールへ辿り着き、犠牲は第64号海防艦のみに留まった。
帰路は、パレンバン油田から産出された重油や、連合軍捕虜476名を積載した大規模なヒ84船団の護衛に加入、重要船団だったにも関わらず護衛兵力は海鷹、海防艦沖縄、第27号、第63号、第102号哨戒艇のみと頼りない陣容と言わざるを得なかった。
12月26日午前11時58分、ヒ84船団13隻とともにシンガポールを出発。敵艦上機や潜水艦の襲撃を警戒して中国大陸沿岸を沿いながら北上していく。九七式艦攻12機を持つ海鷹が対潜掃討を担った。12月29日午前11時57分から16時52分までサンジャックに寄港。ここで生田川丸と明石丸が離脱、代わりに第27号と第34号海防艦が護衛に加入した。翌30日、ヒ84船団は南シナ海で南下中の戦艦伊勢、日向、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜等と遭遇、同日夜遅くにインドシナのビンホアン湾に寄港する。
12月31日午前7時45分ビンホアン湾を出発。ところが出発間もない午前10時41分、米潜水艦デースに発見され、千歳型航空母艦(海鷹)に狙いを定めていたが、上空を旋回する九七式艦攻が目を光らせていたため、適切な雷撃位置へ付けずにいた。発見から9分後、デースは海鷹目掛けて魚雷3本を発射、これらは全て回避されて不成功に終わった。18時4分、クインホンに寄港。
1945年1月1日にトゥーランへ寄港。1月3日、みりい丸が触雷して機関室が浸水、船団から落伍してしまうも、海鷹は残りの船舶を護衛して進み続け、1月13日17時25分に苦難の旅路を終えて門司へと帰投。翌日呉に回航される。
1月17日より呉工廠に入渠し、20cm噴進砲4門、25mm単装機銃10丁、三式一号電波探知機三型の搭載工事を受ける。米機動部隊が南シナ海へ侵入して、インドシナ沖や香港所在の船団、海防艦をまとめて撃沈した事に加え、深刻な燃料不足、南方航路の閉鎖により海鷹の護衛任務は終わりを告げ、飛行科と整備科が退艦、以降は内地で過ごす。去年12月、桜花をフィリピンに運んでいた雲龍が撃沈されたため、海鷹と龍鳳で台湾に再度輸送する計画が立てられたが、結局実行には移されなかった。
役割を失った海鷹は空母鳳翔、標的艦摂津、旧型駆逐艦夕風とともに、瀬戸内海での標的艦や航空機の訓練任務に割り当てられる。出渠後、2月23日と24日の両日に広島湾で試験航海を実施。また海鷹同様に「失業」状態となっていた第931航空隊の夜間雷撃の標的艦を務めた。3月18日、第一海上護衛隊から除かれ呉鎮守府に転属、同時に呉へ入港して空母天城と葛城の近くで投錨した。
3月19日朝、中部軍司令部より敵艦載機120機が松山上空を通過したとの情報が入り、間もなく「総員戦闘配置」のラッパが鳴り響き、艦内が慌ただしくなる。間もなく見張り員が灰ヶ峰上空を西へ向かうグラマンの編隊を発見。そのまま広島市に向かうかと思われたが、先頭が突如反転して呉軍港に襲い掛かってきた。艦長が砲撃を命じて海鷹の火砲が一斉に火を噴く。周囲の僚艦も次々に対空射撃を開始。弾幕を掻い潜った敵機が四方八方から迫り、超低空で機銃掃射や投弾を仕掛けていく。至近弾で築かれた水柱が飛行甲板より高く伸びる。やがて海鷹にも爆弾が直撃するが、甲板を貫通し海の中で炸裂したため、思いのほか被害は少なかった。
次に第二波の100機が襲来。再び対空射撃で応戦する海鷹だが、右舷から突っ込んできた敵機がロケット弾を発射、左舷中央部をかすめて至近弾となり、この余波で銃撃中の乗員1名が死亡、左主機関室と14番タンクに浸水が始まり、その影響で左舷へ傾斜するが幸い16度で停止した。辛くも空襲を乗り切ったものの港内に留まるのは危険と判断。宵闇の中、右舷機関だけで出港し、江田島西岸へ避難、艦内に流れ込んだ400トンを排水して傾斜を元に戻す。3月21日、呉に戻って入渠修理。
4月6日、水上特攻に向かう戦艦大和に横付けして積載燃料の半分を供出。死出の旅に出る水上特攻部隊を見送った。4月13日、敵機の攻撃から逃れるべく、江田島沖で飛行甲板上に植物を設置し、あたかも島の一部に見せかける擬装を施した。しかし別任務に割り当てられたようで、すぐに擬装を解き、4月20日に呉工廠第三船渠で緑色に塗装、同日中に別府湾へ回航して発着艦訓練の場を提供する。ちなみに帝國海軍は空母の使用を諦め、海鷹以外の空母を全て予備艦にして陸地の一部に見せかける偽装を行わせている。したがって活動中の空母は海鷹ただ1隻のみであった。4月28日、別府湾から呉に戻り、先の呉軍港空襲で受けた損傷を完全に修復。
5月5日、呉工廠で入渠中にB-29の爆撃に遭遇して対空射撃を行う。5月17日出渠。
5月20日、大分航空隊の搭乗員に発着艦の場を提供する訓練艦に指定。同日中に呉を出港して別府湾に移動し、6月1日から29日まで大分県日出町沖で訓練、時には伊予灘で零戦や天山による特攻の標的艦をも務め上げた。食糧や飲料水は別府市内から供給してもらい燃料は油槽船から補給している。
7月からは大神基地と協力して回天の標的艦も担当。搭乗訓練を修了した特攻隊員の卒業試験で、海鷹は敵空母に見立てた標的艦を務め、また艦内に特攻隊員を招いて、空母が取る回避運動を教授した。
7月18日19時38分、佐田岬灯台の沖合いで触雷小破。行動に支障は出なかったため、翌19日に豊岡町島山沖へ駆逐艦夕風と一緒に避難し、松の枝などで擬装を行うも、海鷹の存在はすぐに把握され、それから毎日のように空襲される。アメリカ軍は空母を最重要目標に定めていたからだ。
7月24日正午、別府湾が米第38及び第57任務部隊の空襲を受け、海鷹にはエセックス所属機5機が襲い掛かって損傷を負う。もはや別府湾は危険と判断。小さな漁港に身を潜めるため、16時30分、16時30分、山口県室津沖への退避を開始するが、18時30分に大分県関崎の沖合いで、B-29が敷設した磁気機雷に触雷してしまい、舵機が破損、機関室の蒸気管が破裂して大破航行不能に陥ってしまう。自力ではどうする事も出来ないと悟った海鷹は19時25分に救援要請を送る。
その救援要請を、訓練のため大分航空基地に向かっていた駆逐艦夕風が受領し、近くに現れた夕風を発光信号で誘導、協議の結果、夕風が満身創痍の海鷹を別府湾まで回航する事になり、23時50分より曳航を開始。何とか別府湾に戻る事が出来た。これは駆逐艦による空母曳航の唯一の成功例だった。もし曳航に失敗し船体が漂流していれば犠牲が大きくなっただろうから、海鷹乗員は夕風に深く感謝したという。余談だが島山を海鷹と誤認して攻撃した米軍機がいたらしい。
7月25日午前5時、F6Fヘルキャット3機が海鷹と夕風に襲い掛かってきたが、対空射撃で撃退に成功。3時間後、夕風に曳航された海鷹が日出町城下海岸沖に到達、沈没を避けるため、夕風に押し出してもらう形で意図的に座礁、その上で松や杉の枝を使って陸地の一部を装った。艦内への浸水は激しく、もはや戦闘能力を喪失したような状態だったが、粘り強く排水ポンプを使って海水をかき出し続けたところ、少しずつ浸水が収まって来た。そこへ今度は4機のヘルキャットが襲来、2発のロケット弾を喰らって負傷者2名を出す。
1945年7月28日朝、2532機に及ぶ敵艦上機が西日本方面に襲来、瀬戸内海の船舶に集中攻撃を仕掛けてきた。海鷹は夕風と対空砲火で迎撃するが、敵機もまた猛烈な爆弾投下と機銃掃射を浴びせかける。このうち2発の爆弾が流れ弾となり、日出尋常小学校の教諭だった小田三郎先生の腹部に破片が、下肢に機銃弾が命中して防空壕前で斃れてしまう。彼は先に児童を防空壕に避難させていたため子供に被害は無かった。
一方、海鷹にはロケット弾3発が直撃して発電室が破壊されてしまい、動力喪失で排水ポンプが使えなくなる。海水の流入でゆっくりと艦尾が沈下していき、ついには着底した。また換気が出来なくなって有毒ガスが発生、戦死者20名を出し、艦内が有毒ガスで充満したため船体は放棄され、司令部と兵員は日出国民学校に移動する。
電力を断たれて使用不能になった機銃と高角砲は取り外して校庭内に設置、動かす電力を地上送電してもらった。海鷹から降ろされた食糧などの物資は大神回天基地に搬入されている。多くの資料では7月28日を海鷹の沈没日としている。一方、上甲板が水上に出ていたので軍艦旗は掲げられたままになっており、軍艦旗は沈没時に回収されるはずなので、書類上は生存扱いだったのかもしれない。
7月29日、海鷹の復旧が可能かどうか調査を行うも、機関室が満水状態で手出しが出来ず、換気に必要な電力も途絶えている事から復旧を断念。追い討ちをかけるかのようにB-25爆撃機5機が海鷹を攻撃。夕風が対空戦闘を行って海鷹を守ってくれたが、8月以降は空襲を避けるために夜間しか活動しなくなった。
8月9日午前9時30分、エドウィン・ヒュー・ハウズ大佐率いる第38爆撃群のB-25爆撃機12機が低空攻撃を仕掛け、海鷹の左舷に爆弾2発を投下。続いてハウズ大佐の隊長機が突っ込んできた。この時、甲板上の支柱に接触し(カムフラージュ用の網や枝葉が翼端に接触したとも)、大きくバランスを崩した隊長機はひっくり返って別府湾に墜落。ハウズ大佐以下乗員6名全員が死亡するという思わぬ戦果を挙げた。死後ハウズ大佐には殊勲飛行十字章が授与されている。攻撃後、最後まで残っていた対空要員が退艦。
8月10日午前8時に右舷側へ傾斜。午後12時46分、とうとう右舷飛行甲板が水没してしまった。
8月15日の終戦を大破着底状態で迎える。軍艦旗が降ろされ、アメリカに奪われるのを防ぐべく、艦首から菊の御紋を外して大神基地で焼却処分、日出国民学校に避難していた乗組員たちは去っていった。11月20日に除籍。
1946年9月1日に日本サルベージが現地で解体開始、1948年1月31日に完了した。
1982年11月22日、終焉の地となった日出町に軍艦海鷹之碑とその案内板が立てられた。小柄ながら最期まで戦い続けた海鷹の名を静かに語り継いでいる。また元乗組員の森山嘉蔵氏が自身の体験談に脚色を加えた戦記『終焉の夏が逝く 歴戦の空母海鷹の青春』という本を出している。
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最終更新:2025/12/05(金) 22:00
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