涼波(夕雲型駆逐艦) 単語

スズナミ

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涼波(夕雲型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した夕雲型駆逐艦10番艦である。1943年7月27日工。同年11月11日ラバウル襲に巻き込まれて沈没

概要

艦名の波は「澄んで清い波」を意味する。

夕雲型とは、前級陽炎型の性を更に突き詰めて改良を施した艦隊駆逐艦である。甲駆逐艦とも。陽炎型の時点でほぼ理想的な性を実現していたが速力が標の36ノットに届かず、やむなく35ノットで妥協。この事を心残りに思っていた帝國海軍は速力面を改良しようと夕雲型の設計に着手する。

陽炎型の時点で設計が完成されていたため小改良のみ実施。まず速力不足の原因が艦尾にあると考えて陽炎型より50cm延伸、スクリューの形状変更や艦を楔に変える等の改良を加えて速力35.5ノットを獲得し、他にもを12.7cm連装Cから同Dに変更して仰を55度→75度に上げている。しかし大仰での連射力は乏しかったので対力の向上にはあまり繋がらなかったという。朝潮型試験的に導入された艦内電流の交流化が成功した事を受け、夕雲型にも導入した。

また夕雲型の重タンクには加熱装置が付けられていた。これは開戦によって良質な重が手に入らなくなった時に備えたもので、寒冷地での作戦行動中、低品質の重だと冷えてドロドロになってしまうため、蒸気パイプで搭載重を保温するのである。この装置は良好な成績を収めたようで後に一部の陽炎型に搭載されている。

就役した波はポナペへの甲支隊の輸送に従事し、ラバウル襲では敵雷撃機1機を撃墜する戦果を挙げたが、魚雷への誘爆が原因で沈没。およそ3ヶ半(107日)という短い艦歴を終えた。これは同艦19隻中、高波(91日)に次いでワースト2位の短さである。ちなみに大波(夕雲型駆逐艦)同様に現存する写真が1枚も残っていない。

排水量2077トン、全長119m、全幅10.8m、最大速力35.5ノット、出力5万2000力、重搭載量600トン、乗員225名。兵装は12.7cm連装3基、25mm連装機2基、61cm四連装魚雷発射管2基、九三式魚雷16本、爆雷18個。波を含む後期艦には22号水上電探が就役時より搭載されていた。

艦歴

1939年海軍軍備充実計画(通称マル四計画)において甲一等駆逐艦126号艦の仮称で建造が決定。

1942年3月27日浦賀船渠で起工、1943年2月5日駆逐艦波と命名されて3月12日に進し、6月25日装員事務所を設置、7月1日装員長として春雨艦長から転出してきた神山中佐が着任する。そして7月27日工を果たした。艦長に神山中佐が着任するとともに舞鶴鎮守府に部署し、第1艦隊第11戦隊へ編入される。

1943年8月4日瀬戸内海西部へ向かうため横須賀を出港、紀伊を通って翌5日16時へ到着。内地に留まっていた、若波、波と慣熟訓練を開始する。8月10日16時19分、第11戦隊波、波、波、に徳山での燃料補給後、トラックに進出する力艦隊を援護するよう下。これを受けて4隻は8月16日午前6時柱島泊地を出発、正午に徳山燃料へ到着して給油を受ける。

8月17日13時力艦隊を援護するためを出港、波艦長の清水逸郎中佐揮を受けて駆逐艦4隻(波、波、波、)が、50里圏内を南下する力艦隊の前路対潜掃討を担った。19時まで対潜任務を行い、翌18日午前2時、徳山錨地にて停泊。

8月20日14時波、波、と対教練を実施。同日付で姉妹波や波と一緒に第32駆逐隊を新編。戦隊中原一郎中佐が着任する。翌21日午前6時30分、戦艦の柱回航援護の任を帯びた第32駆逐隊は伴走者のと徳山を出港。途中駆逐艦島風の電探訓練に協力しつつ、8月22日14時30分に横須賀へと入港して山と合流、8月26日午前9時横須賀を出発して、対潜掃討を行いながら翌27日21時40分に柱島泊地まで護送した。8月28日より訓練を再開。8月30日に第32駆逐隊撃訓練を、その翌日に対教練を行った。

9月1日21時25分、第11戦隊旗艦の龍田から第32駆逐隊は準備出来次第に回航して出撃準備を行い、柱にて待機するよう示される。9月2日午前1時30分に柱島泊地を出港し、3時間の航を経てに入港。重350トン、貯蔵品1ヶ半分、生糧品10日分を補給して戦備を整える。そして柱に回航して待機していたが9月3日17時55分に待機命が解除された。9月10日、第32駆逐隊山雲を交えて対射撃訓練と大掃具三号の航訓練を実施。

9月25日午前7時50分、戦艦伊勢、山軽巡龍田、第32駆逐隊で丁三号輸送部隊を編制。これは南東方面へ進出するついでに嶼戦に特化した陸軍の甲支隊(第52師団の一部)をトラック東方にあるカロリンポナペに輸送するというものだった。ラバウルの第17師団増強に輸送護衛艦艇を割いていた関係上、甲支隊の輸送は2回に分けて行われる事となり、波が臨むのは1回で輸送出来なかった支隊本部の残部、第2大隊の半分、第3大隊約2000名を運ぶ第二次輸送である。作戦に従事するべく翌26日17時20分にへ入港して出撃準備を行う。

9月30日連合艦隊作第727号により訓練を終えた第32駆逐隊は第2艦隊第2戦隊へ異動。遂に戦続く南東方面へ進出する時が来た。第2戦隊7月8月だけで清波、有明、夕暮、江風、旗艦神通を立て続けに失っていて増援が急務となっていた。

10月1日、第32駆逐隊の僚艦に玉波が加入。10月7日に甲支隊は金沢を出発して品に集結する。


10月12日、第32駆逐隊を出港して品に回航し、甲支隊約2000名と同部隊に配属された海軍第1通信隊を積載。翌13日に品を出港して佐伯湾に移動・待機する。そして10月15日午前4時佐伯を出発。戦艦伊勢と山を護衛しながらトラックに向かう。

10月19日午前7時38分、山が敵潜水艦らしきものを発見。直ちに波、波、波が対潜制圧に向かったが敵を認めず、午前10時43分に護衛に復帰する。午後12時45分、山から対潜掃討用の水上機2機が飛び立つため、射出の際の周辺警波が担当。

中何事も10月20日13時トラックへと到着。アメリカ艦隊との決戦を企図したZ作戦により、力艦艇は軒並みエニウェトク環礁ブラウンに進出していて環礁内は人と化しており、また第2戦隊旗艦の能代も出撃していたため、力艦隊が戻ってくるまでの間は伊勢と山留守を守る事に。翌21日、連合艦隊波に伊勢より291名、山より36名の兵員を引き取るよう命じ、それが終わると波とともに第3因丸へ横付けして重438トン60トンを補給。

10月22日午前8時、第32駆逐隊は第一次ポナペ輸送のためトラックを出港。翌日午前6時23分にポナペに到着して兵力を揚陸し15時5分に出発、10月24日午前11時58分にトラックへ入港する。入港時は山水上機が対潜を行ってくれた。波と波は12番錨地に待機している給油艦隠戸の左舷へ横付けして補給を受ける。10月26日午前7時30分、第二次ポナペ輸送に従事すべく波は327名の兵員を乗せてトラックを出港、翌27日午前6時13分から14時55分にかけてポナペへの揚陸作業を行い、10月28日13時20分にトラックまで帰投。見事輸送任務を成功させた。

任務遂に伴って10月28日に丁三号輸送部隊は解散となり第2戦隊へ復帰。10月29日に第2戦隊高間少将が、30日に第2艦隊長官栗田健男中将が第32駆逐隊を巡視した。

11月1日連合軍はラバウル力化するべく7500名の兵力をブーゲンビルタロキナ地区に上陸させる。午前10時55分に連合艦隊は電作第748号を発し、トラック在泊の第4戦隊(高雄愛宕摩耶)、第7戦隊(最上鈴谷)、第8戦隊(筑摩)、第2戦隊(能代)、第32駆逐隊駆逐艦島風栗田中将揮下に編入して遊撃部隊を編制。トラックにいる第2艦隊、第3艦隊の戦力のうち出撃から外されたのは、空母の直衛を担当する涼月初月などの駆逐艦数隻のみで、実質トラックにいる全戦力をラバウル方面に進出させる思い切った決断であった。しかし高間少将は「とっておきの水上艦艇を、制権がようやく敵手に陥らんとするラバウル方面に注ぎ込むことにつき、に奇異の感を持った次第である」と戦後回顧録に記しており、ラバウル水上艦を送り込む事には懐疑的だったという。

翌2日午前4時30分、西から島風波、能代波、波、玉波の順で形を組んで南外の対潜掃討を実施。重巡部隊の出港を援護するも、ラバウルしい襲を受けていたため、栗田中将は午前5時に「出港を1日延期する」と関係部隊に通達した。

11月3日午前4時30分、連合軍のタロキナ地区上陸に反撃するため、旗艦能代に率いられてトラックを出撃。午前7時45分に栗田中将を乗せた旗艦愛宕重巡部隊が出撃し、計12隻がラバウルに向かって南下する。進出途上、島風天津風が護衛していたタンカー2隻のうち、日章丸がカビエン北方180里でB-24の爆撃を受けて航行不能に陥ったとの報告が入り、翌4日午前9時鳥海波が救援に向かった。日章丸と合流して救援活動を行っていると、ブーゲンビル戦で損傷してラバウルからトラックに後退中の重巡妙高羽黒が偶然通りがかり、援護してくれた事で救援がスムーズに進んだ。その後、日章丸は羽黒航されてトラックに向かう事になり、波、鳥海妙高天津風が護衛。11月7日午前11時15分、愛宕高雄筑摩とともにトラックへ帰投する。

少し遡ること11月5日、敵空母サラトガと軽空母プリンストンから出撃した計97機の艦上機ラバウル襲し、続いてP-38戦闘機に守られたB-24爆撃機27機がシンプソン湾を襲。在泊艦艇に大きな被害が発生していた。偶然トラックに引き返した波は難を逃れる事が出来た。

そして「ろ」号作戦支援のため休む間もなく11月8日トラックを出港、11月9日午後12時15分にラバウルへ進出する。しかしそこで待っていたのは地獄の業火であった。ラバウルでは頻繁に警報が発されて不穏な空気が流れており、いつでも退避出来るよう機関を作動させておくよう命じられた。

11月10日、南東方面部支援部隊第2支援部隊に部署。

最期

1943年11月11日午前6時18分、偵察に出た彗星からの報告でムツピナに敵空母がいる事を把握した波は北を通って湾外への脱出を図る。午前6時57分に警報。第38任務部隊ブーゲンビル北方から、第50.3任務部隊は同南方から挟み撃ちにするように襲を仕掛け、先の襲よりも更にしい襲がラバウルを襲った。上185機の敵艦上機が襲来、陸上台がを上げるとともに107機の零戦が迎撃に飛び立つ(第三次ブーゲンビル航空戦)。

当時ラバウルは低いが多かったが、視界的不利を承知で敵艦上機は港内外の在泊艦艇に集中攻撃を浴びせる。幸運にも近くでスコールが発生していたため第2戦隊はその中に隠れて敵機をやり過ごそうと試みた。だが敵機の攻撃は実に執拗だった。

午前7時5分、第三戦速で移動中、タブルブル山方面から襲ってきたTBFアヴェンジャー雷撃機を対射撃で撃墜。続いて右75度方向より雷撃機の一隊が波に向けて魚雷を発射。このうち3本までは回避に成功するも、かわし損ねた1本が一番魚雷発射管付近に命中して左舷側へ傾斜。爆発の炎で野菜庫付近から出火して予備魚雷格納所に延焼する。手負いの波に敵機が殺到し、しい急降下爆撃と機掃射に曝され、午前7時20分に爆弾1発が後部電信室付近に直撃。艦尾で直接操を開始して回避運動を再開するがその際に行方不明中の長波と衝突しかけるハプニングがあったという。

午前7時21分頃、予備魚雷格納所の火災が一番発射管に燃え移って搭載中の魚雷誘爆く間に体を両断されて僅か1分で沈没してしまった。神山艦長以下209名が死亡姉妹艦の大波に救助された43名を含む生存106名がラバウルに上陸した。

1944年1月5日除籍。

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