観音寺城の戦いとは、永禄11年(1568年)9月に発生した織田信長と近江守護である六角義賢・六角義治親子との戦いである。
観音寺城における戦闘行為そのものは何度も行われているが、通常「観音寺城の戦い」といった場合は当該の戦いを指す事が一般的。
なお主戦場は支城・箕作城(みつくりじょう)であったため「箕作城の戦い」とも呼ばれる。
稲葉山城の戦いで美濃から斎藤龍興を追い出し、足利義昭を奉じ上洛を志した織田信長の戦いである。
義昭の上洛に伴い信長は六角義賢・義治父子へと従軍を要請するも、父子はすでに三好三人衆と篠原長房に通じていたこともありこの要請を無視。このため開戦に至った。
籠城・長期戦を想定した六角父子であったが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の夜襲により箕作城が一日で落城。このため観音寺城での防衛を諦め甲賀へと落ち、六角高頼の先例に習いゲリラ活動を中心に反信長勢力として活動しつづける事になる。
近年、戦国時代の始まりと終わりは地域によって異なるという説が提唱されており、畿内の戦国時代は「足利義昭・織田信長の京都上洛」によって終焉し安土桃山時代(織豊時代)が開始したとされる。この説を取ると、観音寺城の戦いは畿内における戦国時代最後の戦いになる。
永禄7年(1564年)7月に当時の畿内最大勢力であった三好長慶が病没すると、後を継いだ三好義継が若年のため松永久秀と三好長逸・三好宗渭が三好家を掌握する。一方で長慶存命中から親政を目指す将軍・足利義輝と三好家との間には政治的に深い溝があり、長慶の死によって義輝が独自の政治活動を活発化させる事は明らかであった。これを危惧されたことで義輝は暗殺される(永禄の変)。
義輝の末弟・鹿苑寺周暠も始末されているが、当時興福寺に居た別の弟・一乗院覚慶(後の義昭)は松永久秀の手により軟禁され、その後覚慶の将軍擁立を狙った外戚・大覚寺義俊(義輝・義昭兄弟の生母である慶寿院の実兄)の働きかけにより一色藤長や細川藤孝らの手によって奈良を脱出すると、和田惟政の庇護によって甲賀に逃亡。六角義賢の承認の下、六角領である矢島の地に移り住み還俗し義秋と名乗り、各大名へと上洛の協力を要請した。(矢島御所)。
義秋に脱出されたことは三好家内部における久秀の立場を大きく損なう事となり、直後に弟・松永長頼が丹波国を失った事と合わせて責任追及された久秀は三好家から追い出され、台頭著しい岩成友通がその後釜に座った事で「三好三人衆」が三好家内を支配する体制が出来上がる。
義秋の上洛の呼びかけに応じたのが織田信長である。義秋は上洛実現のため美濃斎藤家と織田家の停戦を実現させる。また六角義賢の命により、和田惟政が浅井長政とお市の方の婚姻の実現のために奔走したという(この時は長政側の賛同が得られず頓挫するが、後に実現する)。
いよいよ準備が整った永禄9年(1566年)8月、織田軍は上洛を目指して出兵するも美濃を行軍中に停戦を破棄した斎藤龍興の襲撃に合い大敗北を喫し、上洛どころではなくなる(河野島の戦い)。
またこれに呼応する形で六角義賢が三人衆方へと転向し、義秋を捕縛するべく矢島御所へと兵を向けたため、見の危険を感じた義秋は矢島を脱出して若狭の武田義統の元に逃れるも、当時の若狭武田家はお家騒動の真っ盛りであったために上洛を期待できるような状況ではなかった。このため義秋は隣国・越前の朝倉義景の元へ向かう。
美濃戦線で敗北を喫した信長だったが、西美濃三人衆の内応を取り付けると稲葉山城の戦いで勝利し、斎藤龍興を美濃から追い出す事に成功すると、奪取した稲葉山城を改修し『岐阜城』と名付けると、これ以後「天下布武」の印を使うようになる。
近年この「天下布武」の天下の意味は「全国の統一」ではなく「畿内の制圧」を意味しているとされており、義秋を将軍とした室町幕府の再興の意ではないか?という説が有力視されている。
信長は前述の上洛失敗で「天下の笑いもの」になったとされ、この汚名をそそぐ為にも義昭の上洛を絶対に成功させる必要があった。その強い意志表示として『天下布武』という印を使うようになったという説がある。
越前に入った義秋であったが、再三の要請に反して朝倉義景は全く上洛の素振りを見せなかった。これは、隣国の加賀一向一揆や一門衆の動向、嫡男の急死などが重なり、上洛作戦に伴って越前を長期間空けた場合領国不安を招く危険性を感じていたと見られている。
永禄11年(1568年)4月、義秋は越前で元服し義昭と名乗るようになる。
義昭はいつまでも上洛しようとしない義景に見切りを付け、美濃を手中に収め勢いに乗る信長を頼るため美濃国へと向かった。なおこの時に義昭と信長を仲介したのが明智光秀だと言われている。
畿内で抗争を繰り広げていた久秀だったが、阿波から篠原長房が三人衆に加勢した事で苦境に陥った。呼応する形で阿波で閉塞していた足利義維・足利義親父子が摂津に入ると、朝廷工作の甲斐もあり、義親は足利義栄と名を変え14代将軍に就任した。
苦境の末一時期行方不明になるほどの窮地に立たされた久秀であったが、長慶の後継者・三好義継が三人衆から離反し久秀と手を組んだ事で勢力を盛り返した。長房を始めとする阿波勢の介入が三好宗家の不満を招いたと見られている。
義継という大義名分を手に入れて息を吹き返し東大寺大仏殿の戦いで勝利した久秀であったが、苦境にあえぐ状況は変わっておらず、事態を打開するためにも「信長の上洛」を求めており、信長と連絡を取り合っていたようである。
足利義昭を手に入れ、松永久秀との連携を得て『天下の笑いもの』という汚名をそそぐ準備を整えた信長は京へと歩を進めた。
永禄11年(1568年)8月5日に岐阜城を出た信長は、2日後佐和山城に入ると六角義賢の旧臣であった和田惟政を使者として観音寺城へと送り、義昭の上洛を手助けするように要請したがこれを義賢・義治親子は拒否する。信長は六角方への説得を繰り返し『京都所司代』の地位も約束したが交渉は決裂し、佐和山城に7日の滞在後開戦を決意し、一旦帰国する。
信長がここまで説得に動いたのは義賢が過去義昭派であったからという部分もあるが、楽市楽座を始めとする六角氏由来の施策を多くパクっている採用しているから惜しんだ、いう説がある。また、六角方としては宇多源氏・佐々木氏をルーツにもち平安時代から近江統治を担ってきた名門である家が、尾張守護代の分家出身の将である信長に従う事に強い抵抗があったとも言われる。
同年9月7日、兵を集めた信長は岐阜城を出る。これに同盟相手であった徳川家康から派遣された松平信一と、同じく同盟相手で六角氏と敵対する浅井長政の軍が加わる。9月11日に愛知川に布陣した織田軍は合計6万とも言われる大軍であったが、六角軍は1万1000程度であったと伝わっている。
六角方は本陣である観音寺城に義賢・義治が立てこもり、支城であった和田山城に兵を大きく割いた。これは織田軍がまず一番近い和田山城を攻めると想定したためであり、和田山城での戦いで苦戦した機を狙って観音寺城とその観音寺城よりも奥にある支城・箕作城から打って出て挟撃しようというのが目論見だったと思われる。が、この想定は脆くも崩れる。
信長はなんと箕作城に自らが率いる主力を向かわせた。だがこの箕作城というのは堅城であり、丸一日かけて攻撃しても落ちることはなかった。すると木下秀吉は自らが率いる隊で夜襲を決行。箕作城の兵は丸一日中攻め続けていた軍が夜襲をしてくるとは思っておらず、混乱状態の中の必死の防戦も虚しく夜明け前には落城してしまった。
これを知った和田山城の兵は逃亡、信長は観音寺城に残る義賢・義治父子を倒すため箕作城に入った。
元々義賢・義治父子は和田山城での長期戦を想定していたのだが、わずか一日で要である箕作城と和田山城の両方が落ちてしまった事は大誤算であったようだ。
翌13日に箕作城から観音寺城に出撃した信長であったが、義賢・義治父子はすでに観音寺城を放棄し、過去の経験に倣って甲賀方面と落ちており、六角国衆たちも投降。信長軍の勝利に終わった。
勝利後信長は兵を休息を取らせて義昭を奉じて京を目指すが、六角氏の大敗は三好三人衆を始めとする畿内勢力に強い衝撃を与えたようで、勝龍寺城の岩成友通と摂津池田城の池田勝正を除いてほぼ抵抗らしい抵抗はなかったようである。また抵抗した岩成・池田両軍ですら織田軍に持ち堪える事は出来ず信長に降伏している。
その後松永久秀と三好義継が義昭に出仕、その際に大和国の支配を認められた久秀は大和の制圧に乗り出し、対立する国人衆の平定に成功する。これを以て上洛に伴う五畿内(近江・山城・摂津・河内・和泉)及びその周辺国(播磨・大和・丹波)は将軍勢力下に置かれる事となった。
義昭は正式に将軍宣下を受けて15代将軍に就任、幕府の復興を図る事になる。義栄は病を患い篠原長房の勧めで阿波へと戻り養生するもこの地で病没する。任期はわずか半年であった。
「なぜ観音寺城で籠城戦を行わず、すぐ逃亡したのか?」であるのだが、そもそも戦国時代において六角氏が「観音寺城で籠城した」という事例は無い。
六角氏は一貫して前線の城に出撃して迎撃するという防衛戦略を取っているのだが、これは観音寺城が戦闘を目的とした要塞としての役割ではなく、政治拠点としての権威付けの役割が強く防衛に向いている城ではなかったためという説がある。(なおこの『権威付けの城』という概念は後に信長が安土城でパクる)
また六角氏は六角高頼の代に2度、領地問題の拗れから9代将軍・足利義尚と10代将軍・足利義材による将軍親征軍に侵攻された事がある(六角征伐)。しかし、2度とも観音寺城を放棄し甲賀方面に逃亡してゲリラ活動にて抵抗し、畿内情勢の不安から親征軍が引いた所を見計らって城を取り戻したという経験がある。この時に六角氏に協力した甲賀の地侍達が甲賀流忍者の原点である。
義昭・信長の上洛に伴う侵攻も「義昭率いる幕府軍が攻めてきた」程度の認識しかなかったようで、ゲリラ活動の後に信長が撤退したタイミングで観音寺城を取り戻せば良いと捉えていたようである。
だが信長は京と岐阜城の往復を安定化させるために南近江の領国を図る。これを義昭が公認したため織田軍が南近江から撤退する事はなかった。本領を失った六角氏はこれ以降没落が決定的となり、元亀元年(1570年)に野洲河原の戦いで織田軍に敗北すると、以降単独で織田軍に抵抗する事はできなくなった。
六角義賢の重臣であった蒲生賢秀はこの戦いにおいて織田軍に頑強に抵抗していたのだが、妹が嫁いでいた織田方の武将・神戸具盛の説得に応じて信長に下っている。
この際、息子・鶴千代を人質に出しているのだが、信長は鶴千代と対面すると「蒲生の子供は目が違う、只者ではないな。婿にしよう。」といたく気に入ったようで、次女を娶らせる約束をしたという。
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