K-219沈没事故とは1986年に起こったソ連海軍のヤンキーⅠ級弾道ミサイル原子力潜水艦「K-219」の沈没事故である。
1986年10月3日、バミューダ沖の北東680マイル(1,090km)で哨戒活動中であったK-219は突如、R-27潜水艦発射型弾道ミサイル(北朝鮮のムスダンのベース)のサイロ(発射筒)の爆発・火災事故に見舞われる。原因はミサイルハッチカバーの縁が破損し、そこからサイロ内に海水が流入。ミサイルの液体燃料と化学反応を起こした事によるものであった。
K-219は以前にも同じ原因によるサイロの爆発事故を起こしており、ミサイルハッチの一つは溶接で封印されていた。
爆発によって乗員3名が死亡。この非常事態により、原子炉を緊急停止させる為にK-219は急速浮上した。艦が浮上すると原子炉の停止を試みるものの、遠隔操作の為の電気系統が爆発時の衝撃で故障し、作動しない。そこで最古参の機関長が原子炉内に突入しての手動での停止を申し出る。放射能で汚染された炉内に飛び込むという特攻同然の行為であった。しかしK-219艦長イーゴリ・ブリタノフ中佐はそれを却下。代わりに若い下士官と水兵にその任を命じる。
ベテラン機関長と若手乗組員、冷徹で理に適った取捨選択であった。
二人の若い兵士は意を決して炉内に突入。二人は稼働中の原子炉2基の内、1基の停止に成功。しかしそこで炉内の放射能と高温に晒された下士官は途中で離脱。水兵はなおも炉心に留まり、残り1基の原子炉も停止。首尾よく艦を危機から救った彼は脱出を試みるが、短時間で膨大な放射線を浴びた体には区画密封ドアを開ける力は残されておらず、そこで命を落とす。
ブリタノフ艦長は付近のソ連船籍の貨物船に母港まで曳航するよう命じた。しかし母港ガジーヴォまでは4300マイル(7,000km)あり、9,000トンを超えるヤンキー級の巨体を牽引するには些か力不足であった。この試みは失敗し、そうしている間にも火災によって発生した有毒ガスが最後尾区画にまで漏れ出し、バラストタンクの浸水も深刻化しつつあった。最早、一刻の猶予もなかった。
しかし、それに対する本国からの指示は冷酷を通り越した無慈悲なものであった。
プレミーニンの死を無駄にはすまいとブリタノフは本国の命令に背き、総員脱出を発令。先ほど曳航を試みた貨物船に部下達を乗り込ませるとブリタノフ自身は艦に留まる。
しかしブリタノフの命令無視に感付いた本国はK-219に送り込んでいた保安士官(所謂政治将校)に艦の指揮を引き継がせ、生存者を再び艦に戻し、任務を再開せよという正気とは思えない命令を出す。だが、この命令が実行される前に艦の浸水は急速に進み、回復不可能なレベルにまで達した。
不自然な浸水の進行。その間艦に留まっていたのは艦長のブリタノフだけ……
おそらくではあるが、保安士官の干渉を察知したブリタノフ自身による自沈措置であった事が伺える。
とにかくも1986年10月6日、K-219は核兵器一式と共に水深6,000mの海の底へと消えていった。
殉職したプレミーニンには勇敢な行動により赤星勲章を受賞された一方、命からがら脱出し、命令に反して部下の命を救ったブリタノフには怠慢、サボタージュ、国家反逆罪の罪状で訴追された。当時のソ連国防相セルゲイ・ソコロフは強硬に彼への厳罰を訴えていた。彼は収監されず、軍法会議に向けモスクワでの待機を命じられた。判決が下れば極刑は免れない。ブリタノフはあえて部下達には何も告げず、深夜に車で移動しようとした。
だが、そこには胸を張って整列したK-219乗組員達の姿。彼らは声の限り叫んだ。敬愛すべき上官の名を。
だが、ブリタノフが極刑に処される事はなかった。
1987年5月28日、一機のセスナ機がソ連領空に侵入。当然防空軍は迎撃の為戦闘機を出撃させるが、大韓航空機撃墜事件で世界中から非難されていた時期。あからさまな民間機を撃墜する事はもはやソ連といえど不適当な対処。更にジェット戦闘機で低速小型のレシプロ機に追従する事は難しく、しまいには見失ってしまった。そうして謎のセスナ機は世界で最も厳重な警戒が為されたソ連領空を悠々と飛行し、とうとう国家中枢たるモスクワのクレムリンに到達。セスナ機は赤の広場へと降り立った。
パイロットの名はマティアス・ルスト。奇しくもプレミーニンの享年と同い年の、西ドイツ出身のありふれた青年であった。
時のソビエト連邦書記長ミハイル・ゴルバチョフはこの事件を好機と捉え、ペレストロイカに反対していたソコロフをこの事件の責任を取らせる形で解任。そして自らの側近であったドミトリー・ヤゾフを後任に据える。
ロシアには改革の風が必要だ。そしてブリタノフは西側からしてみれば英雄と呼ぶに相応しい人物だ。彼こそ正しくゴルバチョフの提唱するペレストロイカを体現する人材ではないか!
晴れて無罪放免となったブリタノフだが、彼がその後軍に戻る事はなかった。党員証も剥奪されたままだったが、すぐにそれは無価値な物になった。
それから10年後、ブリタノフはかつての部下達と再会する機会を得た。そして彼らは最後に見送った時の言葉で、敬愛すべき元上官を出迎えたのだった。
K-219沈没事故に関するニコニコミュニティを紹介してください。
掲示板
18 ななしのよっしん
2023/09/21(木) 21:07:15 ID: tZiJwTHNZY
行かせたのが本人の志望通りの機関長なら或いはここまでの奇跡には繋がらなかったかもな
あたら若い生命を散らせた自覚と責任があるからこそなんとしてでも他のクルー全員を活かすことだけを考えなくてはいけなくなったと言えるかもしれない
19 ななしのよっしん
2023/10/22(日) 14:26:31 ID: 4hbZ5vu0Uo
>>10
オレも最初そっちの方かと思ったわ
本当に事故多かったんだな…
20 ななしのよっしん
2023/10/22(日) 19:24:00 ID: r+FxYXl2xx
たしか敵対水域でもK-19の事故には触れられてたはず
あとたしかK-8もだったかな
そして巻末のあとがきではクルスクの件も
急上昇ワード改
最終更新:2025/05/01(木) 05:00
最終更新:2025/05/01(木) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。