U-441 単語

ユーヨンヨンイチ

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U-441とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したVIICUボートの1隻である。1942年2月12日工。通商破壊で1隻(7051トン)撃沈の戦果を挙げる。その後は改修で対力を向上させたU-Flakの1番艦となり、ビスケー湾で対任務に従事。サンダーランド飛行艇ウェリントン爆撃機を撃墜した。1944年6月8日イギリス峡で撃沈される。

概要

1940年1月5日、シチャウ・ヴェルケ社のダンツィヒ所に発注。ヤード番号1492の仮称を与えられて同年10月15日に起工、1941年12月13日に進し、1942年2月21日工した。艦長にはクプットルトクラウスハートマン中佐が着任。

工日より第5潜隊群に編入されて慣熟訓練を行うが、2月23日から3月30日まで流氷に閉じ込められて身動きが取れなくなる。3月31日より各種訓練や試験を実施する。5月18日ダンツィヒへ回航され、ホルム造所で入渠整備。6月17日から第25潜隊群とダンツィヒ射撃訓練を行うが、7月12日連合軍の襲を受け、10名が死亡、13名が負傷した。7月21日まで訓練を行った後、7月22日から31日まで第27潜隊群とゴーテンハーフェンで戦闘訓練に従事。8月3日キールに入港し、出撃に向けた戦備を整える。

対空特化の変わり種Uボート

1942年

1942年9月17日キールを出港。2日後にクリスチャンサンへ寄港して燃料補給を行い、同日中に出撃する。9月23日、U-382、U-441、U-442はムルマンスクからアイスランドに向かっている敵団の位置情報を受ける。しかし9月24日に乗組員の1人が発病したため、急遽トロンヘイムへ向かう事になり、9月27日に入港して病人を揚陸した。10月1日、第1潜隊群に転属して出撃。アイスランドフェロー諸島の間を通過して北大西洋に進出する。しかし10月8日に強に巻き込まれ、U-441とU-621は2日ほど足止めを喰らう。

10月10日よりウルフパック「パンサー」に参加して敵団を探しめたが、10月16日に何ら戦果を挙げる事く「パンサー」は解散。同日中に新編された「プーマ」に参加するも、スライドバルブの故障で大量の漏が発生し、面に大規模な膜を残してしまう。右舷メインバラストタンクを切り離すまで戦闘には耐えられなくなり、「プーマ」から離脱。抜けたはU-436で埋められた。翌17日、メインバラストタンクを切り離して戦闘となり、「プーマ」に復帰する。10月23日22時10分、単独航行中の敵船舶に向けて2本の魚雷を扇状に放つが命中せず。近くでは別のUボート行動しており誤射の可性が疑われている。この日、Uボートの到着が遅れたで「プーマ」の線を西へ50マイル移動している。10月27日U-224とU-383から東方へ向かう敵輸送団発見の報が入り、U-436が触接に成功。「プーマ」には11隻のUボートが属していたが、U-575とU-753は燃料不足で帰港しなければならない状況にあった。U-441、U-443、U-624、U-563、U-602、U-383に攻撃要請が入り、団攻撃に向かうも悪によって攻撃成功したのは僅か2隻のみで、U-441は何ら戦果を挙げられなかった。翌28日には護衛空母から飛び立ったと思われる敵艦載機の出現が報告され、行きが怪しくなる。10月29日、U-441、U-443、U-563は燃料不足から「プーマ」を離脱して帰港を余儀なくされる。8日間の航を経て、11月7日ドイツ占領下フランスブレスト軍港へ到着した。

12月7日ブレストを出撃するも、すぐに圧搾空気供給装置に故障が見られたため、12月11日ブレストへ帰港し、修理を受ける。

12月13日に再度ブレストを出撃。12月18日13時26分、南向きの航路を進む6~10隻の敵輸送団を発見して位置情報通報。直ちに周囲のUボートが攻撃に向かったが、20時までに追加の情報かったため、Uボートは元の区へと戻っていった。というのもU-441は敵の対潜制圧を受けて14時からになるまで潜航せざるを得ず、触接を失った旨を22時に報告した。12月19日19時12分、推進音を聴音して報告。この推進音は20時U-106も聞き取ったが、あまりにも高速すぎて追跡不能であった。

12月22日からON団を攻撃するためのウルフパック「スピッツ」に所属。12月27日午前4時、ON団を捕捉して位置情報通報。この報告を受けてウルフパックは団の北西約30マイルに移動する。午前10時14分、U-441は既に放棄されて漂流中の武装商ソエカブモミ(7051トン)を発見。ソカエブモミは約6時間前に僚艦U-356から雷撃を受けて放棄されたようだった。19時37分、雷撃してソエカブモミを撃沈。

1943年

1943年1月22日ブレストへ帰投。

2月27日ブレストを出港して北大西洋で遊し、途中でU-463から燃料補給を受けた。3月3日、ON、HX、SC団を迎撃するためドイツフランス西部にいるUボートで新たなウルフパックを形成する事になり、3月6日から「ノイランド」に参加。3月9日に敵団の航行情報が入り、「ノイランド」に所属するUボートは北へ移動しながら4ノットの速力で獲物を探す。3月12日中部大西洋で駆逐艦ハーベスターと自由フランスコルベットアコニットから爆雷攻撃を受けるU-444を撃。以降、U-444からの連絡は途絶えた。3月13日、「ノイランド」所属艦は5ノットで南方航路へ移動するよう命を受けるが、当日中に解散となる。3月20日アイルランド西部サンダーランド飛行艇に襲われて軽微な損を負う。

4月11日ブレストに帰投。

U-Flakへの改装

イギリス軍は新兵器10cmレーダー哨戒機に装備させ、Uボートの逆探装置より先に捕捉できるようになった。前年8月31日U-256航空攻撃で深刻な被害を受けたのを皮切りに被害が増大。今やビスケー湾の制権はイギリス軍に握られ、フランスの軍港から出撃または帰投するUボートの損は増加の一途を辿っていた。ドイツ海軍のデーニッツ提督は「レーダー波を探知したら30分間は浮上してはならない」という対策を全Uボートに通達するも、被害を食い止めるには至らなかった。

そこでドイツ海軍は対兵装でガチガチに固めたUボートU-Flak(フラック)を思いついた。ビスケー湾を往来するUボートの中にU-フラックを紛れさせ、敵機に対するトラップとして機させようとしたのである。記念すべき第一艦は大破したU-256が、続いて第二艦にはU-441が選ばれ、4月12日から5月22日まで改修工事を受ける。

の拡に加え、そのの前に新たなを増築して大幅に見たを変更。20mm四連装2門と37mm四連装機関に搭載し、86mm対ロケットとそのバッテリーも備え付けられたが、こちらはあまり役に立たなかったという。またMG42機関銃も搭載されていたとされ士気の向上に一役買った。増大した対兵器を扱うため乗組員は67名に増加し、軍医も経験豊富な者が充てられるなど人員面も充実。デーニッツ提督は自ら足を運んでU-441を視察したという。ちなみに第一艦だったU-256工事が遅れたため先に再就役したU-441にU-フラック1の名称を与えられている。U-441以外にもU-256、U-621、U-953がU-フラックに改装され、3隻が予定だけで終わった。

ただし強力な対兵装の対価に航続距離が犠牲となり、ほぼビスケー湾内での運用に限られた他、一応潜航は可だったものの水中での運動も悪く、魚雷本数も自衛用の5本のみに限られた。

5月15日ハートマン艦長が発病したため、U-563のゲッツ・フォン・ハルトマン艦長が一時的に揮を執り、短期間の試験が行われた。5月22日ビスケー湾を往来するUボートを守るため出撃。普段4~7名しかいないには常時14名が待機していた。5月24日20時50分、空軍第228飛行隊所属のショートサンダーランド飛行艇が襲来して対戦闘を開始。投下された5発の爆弾が至近弾となってU-441は大破し、乗組員11名が戦死する大損を受けるも撃墜に成功。Uボート天敵指輪と恐れられたサンダーランドはU-フラックに敗れた。しかし戦闘行動は出来なくなり、5月26日ブレストへ帰港して修理6月には対用に改装されたU-758が敵艦上機数機を撃墜する戦果を挙げた事により、U-フラック以外のUボートにも対兵装が強化されていった。

7月8日ブレストを出港してビスケー湾のを睨む。7月12日、3機のブリストル・ボーファイターが出現して対戦闘を始めるも、側面からの投弾で再度大損を受け、士官の大半を含む10名が死亡。13名が負傷した。艦を動かす多くの要員が死傷してしまい半身不随に陥るU-441だったが、揮は軍医のポールプファフフィンガー博士が代行し、2名の線技士と1名の魚雷整備士が操艦。奇跡的にブレストの沿まで辿り着き、味方のに発見されたが、そのから送られてきた発信号を読み解ける者は一人いなかった。7月13日に何とかブレストへ帰投。U-フラックの出現はイギリス空軍を驚かせ、最初の2ヵ間はUボートの航行に自由をもたらした。8月6日ハートマン艦長が復帰して代理と交代。

10月17日ブレストを出港。ビスケー湾から北大西洋にかけて対を行う。10月21日B-24の襲撃を受けるも爆弾を投下される前に対射撃で撃退に成功。10月23日、U-441、U-211、U-953がビスケー湾のを睨む中、5隻のUボートが湾内を通過して外洋へと向かっていった。10月26日サンダーランドを発見し、37mm四連装機による対射撃を浴びせて追い払った。11月8日ブレストへ帰投。

この頃になるとイギリス空軍はすっかり対策を編み出し、U-フラックを見つけると対空砲の射程圏外を飛び回って水上艦を呼び寄せ、その到着を待って一斉に攻撃する戦法に変更。U-441が受けた大損も手伝い、絶え間なく行われるビスケー湾の敵機襲来にU-フラックは効果的ではないと考えたデーニッツ提督11月中に中止し、全てのU-フラックは通常の潜水艦へと戻された。これに伴ってU-441から20mm連装機関2門と37mm機関が取り外される。

1944年

1944年1月18日ブレストを出撃するが、漏が発覚して翌日帰港。1月20日に再度出撃する。1月26日18時30分、味方航空機からの報告で南方に向かう団の存在が確認され、これを迎撃するべくウルフパック「イントゥ」に参加。チャンネルへ全速力で向かうよう示される。3月1日、敵の輸送に向けてT5音響魚雷を発射し、2分25後に命中音を探知、更にが沈む音も聴音された。その後、敵駆逐艦に追い回されたが、不思議爆雷攻撃はく、駆逐艦1隻撃沈と認められる(該当し)。しかし3月2日に敵機の襲撃を受けて大破。急遽帰投せざるを得なくなり、3月14日ブレストへ戻った。3月15日から4月30日まで修理と並行してシュノーケルを装備する工事を受け、5月1日から4日にかけてビスケー湾で潜航試験を行った。

5月20日20時5分、ブレストを出港してウルフパック「ドラゴナー」に参加。連合軍の侵攻作戦を偵察するためイギリス峡の入り口まで移動する。翌21日深夜、U-441とU-764は部より「浮上して敵艦隊を偵察せよ」と命じられ、午前2時28分にイギリス艦隊を捕捉して針路と速力を報告。非常に危険な触接であったが、午前3時32分に敵艦隊が北上したためギリギリ見つからなかった。この偵察から護衛空母の出現回数が増大している事が判明し、イギリス海軍Uボートの存在を察知して攻撃を強化しているようだった。5月27日に帰投。

6月6日午前1時連合軍がノルマンディー上陸したとの報が潜水艦部に届いた。これを迎撃するため、シュノーケルを持つU-441や僚艦7隻は同日中ブレストを出撃してビスケー湾北西に移動。セーヌでの作戦行動を予定していた。翌7日、ウシャント南西でカナダ軍のウェリントン爆撃機を撃墜。ただしU-413、U-629、U-740のいずれかが撃墜したとも言われる。

6月8日以降、通信が途絶して全乗組員が行方不明となる。

最期

1944年6月8日第224飛行隊所属のB-24リベレーターが約12マイル先に潜水艦がいるのを確認。明るいだったためリーライトを使用せず奇襲攻撃をかけた。彼距離が900mにまで縮まったところでリベレーターの機が火を噴いて甲に命中弾を受ける。全に虚を突かれたようでU-441の乗組員は混乱、慌ただしくにしがみついた。U-441も対射撃で応戦するが間もなく手が殺される。続いて投下された爆弾が命中し沈没面にはボートの破片や膜が確認されたという。資料によっては6月18日、あるいは6月30日に沈められたとしている。

部は何度もU-441に呼びかけたが返答はく、6月24日に帰投命を出したが帰ってくる事はかった。

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