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1 ななしのよっしん
2012/06/20(水) 02:50:24 ID: F5PL1x9UcK
影が薄いな
西軍について美濃で戦ったくらいしかパッとした出来事がないからかゲームでも能力値は低め。
Wikipediaなどでは26歳で病没と書かれているところが多いな。
2 ななしのよっしん
2014/09/27(土) 15:51:22 ID: B29APb9NYK
3 ななしのよっしん
2016/03/27(日) 19:05:37 ID: In+K+omPCV
小学生の時図書室に置いてあった漫画日本の歴史で知ったんだけど
織田家の家督を継いだときが唯一の出番で
織田家もその後まったく出なかったから
織田家と信長の孫はその後どうなったのか疑問に思った
大人になってから当時の疑問を思い出しネットで調べて末路を知った
4 ななしのよっしん
2016/09/23(金) 16:16:10 ID: 22JFSacyOb
5 ななしのよっしん
2016/09/23(金) 16:29:33 ID: +9oAqaM2fM
秀信の名前は秀吉の偏諱だろうから
元服前からその名前で呼ぶのはムズムズするな
6 ななしのよっしん
2016/10/01(土) 07:44:36 ID: IIb/6J6DBi
柴田勝家が織田信孝推薦ってやっぱニコニコってレベル低いな
あるいは書いてる奴がニワカなのか
柴田勝家が推薦したのは織田秀信こと三法師で、信孝など一切推薦してない
そもそも清洲会議自体、織田信雄と織田信孝が「俺こそが当主だよな!?な!?」
って言い始めて揉めたのを、重臣が集まって「とりあえず三法師で」
って了解したにすぎないのが既に史料で判明してる。
ちなみに記事じゃなぜか「後見人は織田信孝」ってなってるが
これも真っ赤な嘘。家督争いの敵役に当主の幼子を預けるわけがない。
裏でぶっ殺されてたらどうするんだか。しかも記事では「秀吉が野心で乗っ取りを」
となっているが、秀吉が野心メラメラで乗っ取り画策したなら猶更自分が後見人になるはず。
後見人をお飾りにするなら信雄でもいいわけで、なぜ敵に多大な塩を送ってるのか理解不能。
7 ななしのよっしん
2016/10/01(土) 08:16:22 ID: IIb/6J6DBi
ちなみに1582年9月3日柴田勝家→丹羽長秀の書状では
柴田勝家はどちらかといえば織田信雄よりの立場であったことが
露見している。ただ柴田勝家は秀吉の性急な対応を諌止して、
丹羽長秀や堀秀政に協力を求めているが、早い話両方からスルーされている
ついでに勝家は同書状で徳川家康の天正壬午における対応を称賛している。
ちなみにその時の家康と北条氏直の和睦をつとめるのは本来信雄と信孝だったが、
対立ついでに織田信孝が和議交渉をサボタージュしたの
で結局信雄が1人でやった
これが小牧に繋がるわけだな。流石に勝家も信孝の対応は擁護できなかったんだろう。
秀吉が天下に号令する野心を抱いたことが史料からわかるのはせいぜい
1585年の関白相論の時からで、それ以前から抱いていたとわかるものはない
徳川家康だって天下取りを考えたのはせいぜい秀吉死後だろう。まさか人質時代から天下を狙ってたわけはあるまい。
8 ななしのよっしん
2016/10/22(土) 04:48:50 ID: h5qPaJD4Yw
通字の位置が変わること自体は珍しくないとはいえ、なぜ織田信秀ではなく織田秀信なのか、少々不思議。
曽祖父と混同されるのを避ける為なのか、それとも秀吉との立場の差を反映したものなのか。
9 ななしのよっしん
2016/10/28(金) 23:45:35 ID: IIb/6J6DBi
もちろん後者の意味が強いだろう。
秀吉の太政大臣・関白という官位は右大臣が最高だった信長の官位をも越えている。
豊臣政権ということを考えても秀吉の「秀」の字を先に持ってくるのは不思議ではない。
ただし、「秀信」という名乗りに関して言えば、おそらく秀吉よりも
秀信本人の意向が強いと思われる。というのも秀吉は秀信に対して
強圧的な行動をとったことはないし、逆に疑似一門として
格別の配慮を行っていた節がある。良く言えば信長への恩義、
悪く言えば秀吉自身の基盤の脆弱性からいって織田を敵に回すのは百害あって一利なし、といったところか。
この辺は秀吉の弟秀長が、信長存命時には「長秀」を名乗っていたのに感覚的には近いか
10 ななしのよっしん
2016/11/18(金) 07:09:07 ID: K05XZib6A5
・川角太閤記
羽柴「ジャーン!、後継者は三法師様!」
柴田「な、なんだってー!」
・金井文書、多聞院日記
柴田、丹羽、池田、羽柴「信雄も信孝もねーわ、三法師様一択」
11 ななしのよっしん
2017/01/24(火) 23:22:21 ID: vjDcodjHIE
隆慶一郎作品で、「秀忠に暗殺された人リスト」に名前がないのが不思議だ。
下手をすると秀頼以上にヤバい存在だし若すぎるし真っ先に…だよなあ…
12 ななしのよっしん
2017/02/04(土) 11:40:51 ID: jWiG6rcnbT
>>6はせっかく豊富な知識を提供してくれてるけど言い方一つで台無しすぎる
既に当主信忠だったし、次は三法師っていうのは自然な流れだもんね。それでも川角太閤記とか講談とかの秀吉秘策な話が広まったのは、それだけ秀吉のアイデアマンなイメージが強かったのかな
13 ななしのよっしん
2018/03/18(日) 15:13:51 ID: BVR6S4jxxF
信忠の側近が多数本能寺の変で主君と共に討死
信忠の傅役ポジで三法師の一番の後ろ盾になりえた河尻秀隆が任地で討死、滝川一益は北伊勢で復帰するがそこは変の間に信雄が勢力扶植したトラップ地帯
14 ななしのよっしん
2018/08/18(土) 12:13:59 ID: vjDcodjHIE
15 ななしのよっしん
2018/08/19(日) 05:29:51 ID: pdMj9ijmPK
五大老には入っていないが豊臣秀吉が創設した武家清華家には入っている。
これは朝廷と関係を密にする豊臣政権では早くから取り入れていた。
(五大老五奉行はあくまで秀吉の晩年に取り入れた)
清華家は全部で諸説あるが9つで、豊臣、徳川、前田、毛利、宇喜多、小早川、上杉、織田、足利で9つ。
豊臣政権は公家政権的側面も強いので、織田秀信は領土こそ岐阜周辺と少なく感じるが、
豊臣政権ではかなりの地位を占めていた。
16 ななしのよっしん
2018/08/19(日) 10:17:24 ID: vjDcodjHIE
ただし、秀吉死後関ヶ原までで、何らかの活動をしたとは聞いていない。
長曾我部並の流され滅亡という印象。
関ヶ原から死ぬまでの短い間、秀頼を見てどう思っていたか…
自分は本能寺以後、領土も城もなく、人質同然のたらいまわし生活。
巨大城でかしずかれ、一切現実を見ない旧天下人の遺児、他人事ではなかったろう。
二人とも似たような年齢で死ぬのもまた…
17 ななしのよっしん
2018/08/22(水) 21:23:29 ID: vjDcodjHIE
東軍についてたら、あるいは鶴松(棄)が生きてたら織田宗家は
大大名として残れたかな?
それとも家光あたりで潰してたか。
18 ななしのよっしん
2018/09/25(火) 18:37:16 ID: ShQ0GATOn4
東軍についていても「羽柴秀信」と名乗って実質豊臣親族の時点で
福島正則や加藤忠広(加藤清正の子)のような未来しか見えないな。
徳川家康や徳川家からすれば秀吉の息がかかった織田秀信よりも、
自分に味方してくれていた織田信雄の方が面識も親交もあるし、
最上家(親秀吉派の義康廃して親家康派の家親を当主に)や
伊達家(親秀吉派の秀宗を分家にして親家康派の忠宗を当主に)の
ことを考えたら、豊臣政権にあまりに近すぎた織田秀信は結局どうなっても
豊臣滅亡した時点で冷遇は間違いないと思う。
19 ななしのよっしん
2018/10/16(火) 07:49:55 ID: vjDcodjHIE
秀頼と秀信、同じ天下人の幼い孤児の違いが面白い。
巨大城で淀君独裁の中、武家でも公家でもない奇妙な存在に育ち、戦場に出ず滅びた秀頼。
根無し草の幼少期、若き領主として善政を敷き、善戦した秀信。
なぜ秀頼が、生母独裁でまともな守役もないという奇矯なことになったのか…秀信の母の名を知る者はいないのに。
20 ななしのよっしん
2018/10/20(土) 09:53:51 ID: vjDcodjHIE
関ヶ原の戦いの中で岐阜城の戦いは、分断各個撃破を食らったんじゃないか?
援軍を出せなかった西軍そのものの、致命的な誤りだった。
21 ななしのよっしん
2019/02/02(土) 17:32:48 ID: 4PYWWsfkMb
裏切っても敗れても改易されても尚復帰してくる信雄はやっぱスゲーわ
22 ななしのよっしん
2019/03/23(土) 15:53:19 ID: F1AnFFZQzP
信長の野望攻略本の武将一覧見て最初は信秀の誤植かと思った。
信忠との血縁と登場年から三法師の元服後の名前だと分かったのはその数年後だが。
23 ななしのよっしん
2019/04/20(土) 14:27:18 ID: oq/bwlmba4
曽祖父と名前そっくりだから紛らわしいよな、実際群雄集結シナリオで織田家遊んでると
募兵は統率高い親父様(信秀)に頼もう→統率ゴミクズの秀信颯爽と募兵、とかあって困る
24 ななしのよっしん
2020/04/07(火) 02:52:28 ID: W9g/JijJVI
ややこしいことに叔父さんにも信秀がいるんですよね
25 ななしのよっしん
2020/06/27(土) 15:02:32 ID: sQWb9xTpyG
意外にも石田三成とはかなり親しかった模様。
この辺りも西軍入りの動機なのかな?
26 ななしのよっしん
2020/08/28(金) 13:06:29 ID: NyaqKn0N2j
意外というか、立ち位置的には宇喜多秀家みたいなもんですし
27 ななしのよっしん
2021/02/23(火) 18:26:40 ID: jIqs9AZWLg
信雄は無能なのが逆に奏功して生き延びたってことだけど、三法師は本人の能力や立ち回りがどうこうよりも選択の余地がもはや無く滅びるべくして滅びた印象…
巡り合わせ次第じゃ織田政権の天下人たる3代目当主にもなれてただろうか
28 ななしのよっしん
2021/03/07(日) 16:26:51 ID: V4emKFxSzt
三法師は信忠の側室の子なので、順当に行けば僧籍に入ってどこかの名門寺院の門跡にはなれただろう
信忠もまだまだ若いから、本能寺がなければ後継ぎになるのはまず無理
運が良ければ柴田勝家の養子にでも送られて、叔父の羽柴秀勝みたく織田家重臣にはなれた
運が悪ければ…は語るまでもないね
29 ななしのよっしん
2021/03/23(火) 09:34:40 ID: yq6MwMK877
>>27
織田信雄はお友達を作るという点では有能だぞ
徳川家康や豊臣秀頼からの人望はあったし、それが最終的には
5万石の大名として残れるきっかけになった。
織田秀信は・・・・母親がわからないからなんとも言えないけど、
側室の子とはいえ、森可成の娘とか塩川長満の娘だったら
一応跡継ぎにはなれたんじゃないの?織田信忠も側室の子だし
秀信を跡継ぎに選ばないという選択肢はしないと思う。
30 ななしのよっしん
2021/04/17(土) 09:11:32 ID: vjDcodjHIE
とても今更だが、岐阜城の戦いを見ると秀信はけた外れに戦が下手だったんだろうか
そして援軍を出さない・間に合わない西軍上層
ほめた!
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