フレッチャー(USS Fletcher, DD-445)とは、アメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級のネームシップでもある。
フレッチャーは1941年6月2日、ニューヨーク市にほど近い場所にあるニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドックにて起工。そして1942年5月3日に進水、同年6月30日に就役した。[1]
また、艦名はフランク・F・フレッチャー(Frank Friday Fletcher)提督にちなむ。
太平洋戦争勃発後、アメリカ海軍太平洋艦隊に配属された「フレッチャー」は10月5日にニューカレドニア島ヌーメアに到着、ガダルカナル方面の哨戒任務に就く。それから1ヶ月後の11月13日、まだ就役から半年と経っていない「フレッチャー」は海戦史上稀に見る混戦として知られる『第三次ソロモン海戦』に参加する事となる。
アメリカ軍は自ら占領したヘンダーソン飛行場の破壊を目論む日本軍の動向を察知、ダニエル・J・キャラハン少将を司令官として重巡洋艦「サンフランシスコ」「ポートランド」、軽巡洋艦「アトランタ」「ジュノー」「ヘレナ」、駆逐艦「カッシング」「ラフィー」「ステレット」「オバノン」「アーロン・ワード」「バートン」「モンセン」そして「フレッチャー」で構成された第67任務部隊第4群が鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)へと突入していった。
艦隊の最後尾に位置していた「フレッチャー」は闇夜の乱戦によって日米双方の艦が次々と沈没、あるいは損傷を負う中奮闘し、
(一説には駆逐艦「夕立」を航行不能にした一撃を与えたのも「フレッチャー」ではないかと言われているが、同じく海戦に参加した駆逐艦「ステレット」の攻撃によるもの、もしくは味方の軽巡「長良」からの誤射によるものとも言われており真相ははっきりしていない)
結果としてはあの大混戦の中、“第一夜戦”に参加した米海軍艦で唯一の無傷という記録を作る事となる。海戦が発生した11月13日は金曜日であり、俗に“13日の金曜日”と呼ばれる不吉な日であった事、にも関わらず海戦を無傷で切り抜けるという幸運を発揮した事から、「フレッチャー」は『ラッキー13』(Lucky 13)と呼ばれたという。
その後エスピリトゥサント島に戻ったフレッチャーであったが、ガダルカナルにおける日本軍の物資輸送を阻止する為に出撃。11月30日『ルンガ沖夜戦』が発生する。
重巡「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」「ペンサコーラ」「ノーザンプトン」及び軽巡「ホノルル」が先行し、後から「ドレイトン」「モーリー」「パーキンス」「ラムソン」「ラードナー」、そして「フレッチャー」で構成された駆逐艦部隊が追従した。しかし、日本軍輸送部隊は輸送を中止し米艦隊に突撃、一斉に発射された酸素魚雷によって先行した艦隊は次々に被雷、「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」「ペンサコーラ」が大破し、「ノーザンプトン」沈没という被害を被る。その様子を見た駆逐艦部隊は戦場を離脱。「日本軍の物資揚陸を阻止する」という戦略的目標は達成したものの、日本軍側の被害は駆逐艦1隻の沈没のみに抑えられたため戦術的には完敗であった。その後「フレッチャー」は「ドレイトン」と共に沈没した「ノーザンプトン」の生存者の救助にあたっている。
1943年2月11日、ソロモン諸島海域の哨戒、支援砲撃任務を続けていた「フレッチャー」はレンネル島沖において軽巡「ヘレナ」から“日本の潜水艦を発見した”との報告を受け急行、爆雷攻撃を行い「伊号第十八潜水艦」(伊18)を撃沈した(なお、米軍側からはこの潜水艦を「呂号第百二号潜水艦」(呂102)と認識していた模様である)。
4月23日から5月4日までの間、修理の為にオーストラリアのシドニーに寄港、そして6月19日には本国でのオーバーホールの為にエスピリトゥサント島を出港、9月27日にヌーメアに帰還した。また、12月5日にはマーシャル諸島沖航空戦において「ラドフォード」「ジェンキンス」と共に空母「エンタープライズ」「エセックス」の護衛を行っている。
1944年6月8日、ホーランジア及びビアク島への上陸支援を行っていた連合軍艦隊は、ビアク島奪還を目論む日本軍輸送部隊(日本軍側呼称「第二次渾作戦」)に対して豪重巡洋艦「オーストラリア」、米軽巡洋艦「フェニックス」「ボイシ」、フレッチャー級の同型艦「ラドフォード」「ジェンキンス」「ラ・ヴァレット」「バッチ」「ビール」「ハッチンス」「ダリー」「アブナー・リード」「アムメン」「ムラニー」「トラセン」、豪駆逐艦「アランタ」「ワラムンガ」、そして「フレッチャー」からなる迎撃部隊を投入する。
6月8日23時22分、ビアク島の北方で日本艦隊と連合軍艦隊が遭遇。日本艦隊は輸送作戦を中止し撤退を開始し、連合軍艦隊がそれを追撃する形となる。艦隊の最先頭を航行していた「フレッチャー」も距離17,000ヤードからの砲撃戦を展開する。
6月9日2時27分、日本艦隊はビアク島海域を離脱し追撃を終了、連合軍艦隊は1隻も被害を出す事無く日本の輸送作戦の阻止に成功した(反面、日本側は「時雨」や「五月雨」などがこの戦闘で損傷している)。
1945年、「フレッチャー」は5月13日までの間にフィリピン周辺を中心に上陸支援や機雷掃海任務に従事、その後は無事に終戦を迎え、翌年の8月に予備役に編入された。
1949年10月3日、「フレッチャー」は対潜護衛駆逐艦DDE-445として再就役。1950年、朝鮮戦争が勃発した時には空母「ヴァリー・フォージ」等と共に韓国沖に展開、同年9月13日より行われた仁川上陸作戦の支援を行った。そして幾度か極東における任務に従事し、1952年9月5日から11月24日までの間には、アメリカにおける初の水爆実験である「アイビー作戦」に参加。
その後は再び対潜護衛任務を行い、1968年8月1日に退役・除籍され、スクラップとして解体された。
なお、後に建造されたスプルーアンス級駆逐艦「フレッチャー」(DD-992)は、第二次世界大戦時に活躍したフランク・J・フレッチャー(Frank Jack Fletcher)から命名されている(本艦の名前の由来であるフランク・F・フレッチャーは彼のおじにあたる)。
基準排水量 | 2,050t |
満載排水量 | 2,500t |
全長 | 114.8m |
全幅 | 12m |
機関 | B&W式水管ボイラー×4基 |
速力 | 36kt |
航続距離 | 15kt/6,500海里 |
乗員 | 329名 |
兵装(就役時) | Mk.12 12.7cm(38口径)単装砲5基5門、28mm四連装対空機銃、20mm単装機銃、12.7mm単装機銃、53.3cm五連装魚雷発射管2基10門 |
兵装(FRAM I改装後) | Mk.12 12.7cm(38口径)単装砲2基2門、Mk.33 7.6cm(50口径)連装砲2基4門、40mm連装対空機銃、20mm単装機銃、ウェポン・アルファ対潜迫撃砲 |
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/05/06(月) 11:00
最終更新:2024/05/06(月) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。