戦争(せんそう)とは、主に国家による、軍事力を用い、他国ないし敵対勢力に対して組織的に行われる軍事活動や戦闘行為、および、それによって引き起こされる対立状態のことである。
国際法上では、1928年パリ不戦条約締結により、自衛目的以外の戦闘行為を制限し、侵略的行為を禁じている。国家でない、地域や特定の団体が行う武力的な対立は「紛争」「内戦」と呼ばれるが、広義には戦争の1形態であると言える。
また、激しい争いや、死傷者の出る有様を指して慣用的に戦争という言葉を使うこともある(例:受験戦争、交通戦争)が、この記事では国家間の武力を用いた争いの意味で、戦争について解説する。
戦争の起源について語るには、まず人類文化の発展について把握する必要がある。
人類が狩猟採集生活を送っていた時代にも、集落同士の殺し合いがあった形跡は見られるが、戦争が拡大したのは、農耕文化が普及してからである。
狩猟採集生活を送っている時代には、土地に属するという概念がなく、争って負けた側が移動すれば終わるものであった。しかし、農耕を行なうにあたっては、耕地に留まらねばならず、土地に属した集落が誕生する。
また、農耕により効率良く人口を養えるようになったことで、社会に階層が生まれ、「利益を生む土地」の奪い合いを行なうための戦士階級が誕生し、大規模な戦争が行われるようになったという。
考古学研究上、戦争が確実に存在したとされるのは、紀元前3000年~1000年頃以降である。それ以前の時代にも争いの痕跡と解釈できる遺構はあるものの、他の用途も考えられるためはっきりとはしていない。
カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論(Vom Kriege)』においては、軍事は政治に従属するものであり、戦争とは外交の延長であるとされている。
国家の利害が対立したとき、外交の必要性が生まれる。互いの妥協点を見いだせないまま、いずれか一方が外交上の要請を武力によって受け容れさせようとするとき、そこに戦争が発生する。
もちろん、例外として、どこぞの国ではかつて海外に駐留させていた陸軍が、政府の意向を無視して戦争を始めた事例などもある。しかしこういった事例はあくまでも例外であり、本来であればクーデターに近い。
なお、こういった事例は外交、政治にダメージを与え国益を損なう可能性が大きいため、それを防ぐというのも、文民統制(シビリアン・コントロール)の意味の一つである。
国家の概念がはっきりと確立されていない近代以前においても、利害の指す範囲はその時々によって様々であるが、戦争の原因は現代と同様、何らかの利害の対立である。
『孫子』でも「利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず」(利益がないなら行動をしてはならない。勝つ見込みでないなら軍を動かしてはならない)、「戦勝攻取してその功を修めざるは凶なり」(戦に勝っても利益を得られなければ無駄である)とあり、戦が国益を目的として行われるものだとはっきり述べている。
「戦争は避け、話し合いで解決すべきだ」というのはよく耳にする言説である。
しかし、先の項で述べたように、戦争とは外交における利害調整の失敗の結果、次善の(あるいは最後の)手段として選択されるものであって、起こってしまった戦争については、すでに投薬治療の段階を過ぎたがんに対して『体力を消耗する危険な手術ではなく、比較的安全な投薬治療を行なうべきだ』と主張するのと代わりはない。
いくら外交努力を続けたとしても、どちらかが戦争を選択した時点で、戦争は起こってしまうのである。
ギリシャの諺として伝わっている「軍備ほど儲からないものはない。しかし軍備がなければもっと儲からない」という言葉にもあるように、万一の時のために備えておくことはどうしても必要なのだ。
もちろん、武力衝突というのは、国家に多大な経済的、外交的、そして人的なダメージを与え、敗戦の可能性もあるハイコストでハイリスクな選択であり、外交で解決が可能であれば、それが最善の手段である。
このことは『孫子』でも繰り返し述べられ、
「主は怒りを以て師を興こすべからず。将は慍りを以て戦いを致すべからず。利に合えば而ち動き、利に合わざれば而ち止まる。怒りは復た喜ぶべく、慍りは復た悦ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず」
(君主は怒りから戦争を起こしてはならない。指揮官は憤りから交戦してはならない。利益があるときに行動し、そうでなければ行動しない。怒りは過ぎ去れば喜びがあり、憤りも過ぎ去れば楽しいことがある。しかし、滅んだ国が元通りになることはなく、死んだ者が生き返ることもない)
として、軽はずみに戦争という手段を選択することを戒めている。
以上から、「話し合いで解決するのが理想であるが、いつもうまく戦争が避けられるとは限らない」というのが、現実的な返答となるだろう。
日本に「勝てば官軍負ければ賊軍」ということわざがあるように、戦争においては、しばしば勝者が正しかったものとされる。これは、勝利した側がそれ以降の政治の実権を握り、公式な記録を残すためでもある。(文学者の陳舜臣はこれを指して「歴史は勝者によって作られる」と言った)
しかしこれは、もともと言い分を通すために戦争が起こされるという前提からすれば、至極当然のことに過ぎない。かつて正しいとされたものでも、時代が変われば為政者の都合や民衆の感情によって評価が変わることも多い。
(日本では南北朝時代の扱いなどが顕著である。教科書から消えた時期すらある)
詳しい解説は「正義」の項に譲るが、外交的な解決に至らない背景として、双方が自国の主張こそ正しいと考えている、あるいは、そのような国民世論に押されて妥協点が見いだせない、という事例は歴史上いくつも見受けられる。
そのため、戦争を「正義-悪」の軸で語ろうとすると水掛け論になりやすく、不毛であることが多い。
どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。
――ドラえもん(第1巻第8話『ご先祖さまがんばれ』)
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最終更新:2024/05/01(水) 02:00
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