同盟市戦争とは、紀元前91年末から紀元前88年の約2年間半にわたり、共和制ローマ(古代ローマ 後のローマ帝国)が統治するイタリア半島で起きた内戦である。
どちらも、もともと同じ、ローマ軍を編成していた。つまり新国家イタリア側も合理主義のローマ風の戦法(百人隊による軍団編成)を行っていたために、双方ともに同等なまでの多大な犠牲者が出て、ローマ側も大苦戦した。
イタリア (ローマ連合の同盟都市・同盟部族)
首都はコルフィニウム(現在の呼称はコルフィーニオ。ローマの南東120kmほど)。ローマ市民権を認めないローマ市民に反発し、新国家イタリアの建国を宣言。ローマ市民権の獲得をめざし、ローマ連合の盟主国ローマ市と戦闘をする。決起当初は八部族だけでありイタリア側の面積もローマに比べると少なかった。後にローマ側からの離脱者が続出し、イタリアの数倍の領土面積にまで膨れ上がる。同盟諸都市民は、ローマ市民から、ソーチ(同盟者)もしくは、イタリクス(イタリア人)と呼ばれていた。
なおイタリア語において自国はイタリア(Italia)と呼ぶが、当時のローマ帝国の公用語であるラテン語ではイタリカ(Italica)であるが、便宜上以下はイタリアで統一する。
ローマ (ローマ連合盟主のローマ市を中心とする連合)
盟主ローマ市とその直轄領、属州、およびイタリア側に離反しなかったローマ連合の同盟都市から成立する。この当時、寡頭制(世襲の元老院議員による元老院)を採用する保守派の元老院派(オプティマテス)と、反元老院主導派である民衆派(ポプラレス)による対立が激化している。そもそも、この同盟諸都市の反乱は、紀元前91年度の護民官ガイウス・ドゥルスス(民衆派)が、市民権の拡張を行っていたが、彼が元老院派のスパイにより暗殺したことにより始まる。最終的には彼らが妥協し、反乱都市民と反乱軍を許し、イタリア半島全域に住む者に市民権を与えたため、新国家イタリアはローマに復帰し、この内乱は収まることになる。
以上の代表者を含めて多数。
ローマ軍
以上の代表者を含めて多数
ローマは紀元前8世紀の建国以後、徴兵制からなる軍団によりイタリア半島の複数の都市・諸部族を傘下に収めた。しかし、住民を殺すなどといった蛮行はせず、彼らはローマと同盟を組むことを許された。
最初はイタリア半島の都市はみんな対等であり、それぞれの都市・部族がローマ以外の都市・部族と同盟を組むことも許されていた。この同盟をラテン同盟と呼ぶ。ラテン同盟の合同軍によって手に入れた戦利品は、徴兵制によりもっとも兵士を多く出すことになる主導国ローマと、同盟都市で半分にわけることになる。
しかしながら、紀元前390年、イタリア半島以北にすむケルト人(ラテン語ではガリア人。以下ガリア人と称す)のセノネス族が、イタリア半島のローマ市に侵攻したことがあった。この時、ラテン同盟の同盟都市は主導国のローマが存亡の危機にあると、ローマを見捨て、ガリア人側についたことがあった。またローマ軍も各地で大敗。これによりローマ市はガリア人により征服され、逃げれなかった市民の多くは女性は強姦され、老若男女とわず虐殺された。逃げ出した市民は涙を流して逃げ、遠くから眺めることしかできなかった。
この事件は後世のローマ市民に、ローマ史上最悪の屈辱と呼ばれることになる。
最終的には後に「第二の建国の父」と称されるマルクス・フリウス・カミルス将軍が、ガリア側に、大金を払うことにした。都市民ではなく、狩猟民族であったガリア人は、都市の使い方を知らなかったため、水道を腐らせ、疫病を蔓延させるなどをしたため、この誘いに乗った。こうしてケルト人はローマ市を後にし、イタリア半島の北へと去った。この後、ローマ市は市民により立て直しをされ、回復をした。
しかしこのローマ史上最悪の屈辱は、同時にラテン同盟のもろさをあきらかにした。人間でいえば、ついさっきまでの自分の友達だったものが、自分を殺そうとする者に組みする悪党になったことに匹敵するであろう。カミルス将軍はじめローマ市民はこのことに対して激怒した。
ローマは裏切ったイタリア半島の同盟者を許す代わりに、後にローマ連合と呼ばれるものを課すことにした。これは盟主国をローマ市直轄領とし、その他の同盟国はローマに対し同盟を結ぶ。ここまではラテン同盟と同じである。しかし、同盟国に対しては盟主国ローマ以外の勢力と同盟を結ぶことを禁止した。つまりローマと自分という二者のみの同盟を結んだのだ。こうすれば加盟国と別の加盟国の関係は薄くなる。それにローマは兵士を多く出す軍事大国であり、ローマに対して同盟都市は主従関係を強いることとなった。これは連邦制とほぼ同じである。
このローマ連合の結束力は固く、かつて起きたローマ連合外との対外戦争(ポエニ戦争 カルタゴvsローマ連合)においては、盟主国ローマが主力軍を編成し、見本として率先して犠牲を払う姿勢をみせた。
ローマ市民権は現在でいえば、ローマという国家に住むものが持つ国籍に相当するものと考えるのが手っ取り早い。以下で述べる同盟市戦争の原因はこのローマ市民権を、イタリア半島の住民全員が有するか、有しないか、という問題から発展した。
以下に述べる権利・義務は紀元前91年末に基づく。
この義務を怠る者は、非ローマ市民および非同盟国民か、貧乏人か、奴隷か、解放奴隷か、裕福だが男子がいない家の者、無法者などであったそうだ。兵役回避は名誉を重んじるローマ人にとっては屈辱以外の何物でもなかったようだ。
そしてローマ市民はポエニ戦争時はその主力軍団として果敢に戦い、一番多くの死傷者を出した。そして同盟都市に関しても兵役の義務を与えた。
しかし、107年から101年にかけて執政官に選ばれたガイウス・マリウスは軍事改革を行い、その一つとしてローマ市民の徴兵制を廃止するに至った。これによりローマ軍は軍事を職業とする志願制となり、それにより士気も上がった。
だが、一方、ポエニ戦争などを通して共に戦ってきた同盟都市民は徴兵制が課したままであった。これが後にこの戦いが起こる争点の一つとなる。
ローマ人の人名は主に三つで構成される。それが、個人名(プラエノーメン)、氏族名(ノーメン)、家族名(コグノーメン)である。また、この他にも添え名(仇名、敬称)などが存在する。
もともとは個人名と氏族名だけであり、氏族名が重要であった。しかし同じ氏族名(たとえばファビウス、ユリウス、コルネリウス、クラウディウスなどが代表例)を名乗る人々が多発したので、それぞれの家族ごとに家族名がつけられるようになり、それが定着した。家族名の由来は様々で先祖の特徴を表すものであったり、周辺にあるものから付けたりと氏族名以上に多種多様に存在する。
なお氏族名や家族名は少なくとも百数種類以上のバリエーションがあるので個人は特定できる。だが、個人名に限ればバリエーションは少ない。現在のイタリアにおいては、キリスト教関係の名前や、ほかのヨーロッパ言語からの単語を用いたりして、個人名はとても多くなっている。
しかし古代ローマにおける個人名は、特にこの紀元前91年においては、30も満たない。代表的なものを挙げるとすれば、ガイウス、ルキウス、グナエウス、デキムス、クイントゥス、マルクス、アッピウス、ティベリウスなどがそれである。それに父親の名前を息子が世襲するということもよくあった。たとえば後の独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルは父の名前もガイウス・ユリウス・カエサルであるし、グナエウス・ポンペイウスもそうである。個人名がこのような存在なので、ローマ時代の平民の学校などにおいては此処にいる人全員ガイウスなどもザラであった。大体は家族名(必要な場合は氏族名)を呼んで区別する。
なお、平民などの人々においては氏族名を持たない人もそれなりに存在し、個人名と家族名のみを有する人もいる。たとえば、上記に挙げている、後の独裁官ガイウス・マリウスや、グナエウス・ポンペイウス(父と息子が同名であり、それぞれの添え名で区別する。)がそうである。
ちなみに以上は男性名の場合である。
女性名はどうしたかというと、安易すぎるのだ。どうするかといえば、「~~ウス(us)」で終わる氏族名を女性系の「~~ア(a)」で終わらしたものを女性個人の名前とするのである。ちなみに氏族名を持たない人々の場合は、家族名の語尾部分の母音を「~~ア(a)」で終わらす。
たとえばアッピウス・アウレリウス・ネムス(Appius Aurelius Nemus)という名を持つ、すなわち父親がアウレリウスという氏族名を持つ場合において、娘の名前は全員、アウレリアである。これは家族名は関係ない。たとえばガイウス・アウレリウス・シルウァという男性の娘の場合も、女の子が生まれればその子の名前はアウレリアだ。
ちなみに長女、次女、三女がいても全員名前はアウレリアである。ただし、当時は「一番目のアウレリア」だの「二番目のアウレリア」だの数字をつけて区別していた。また、同じ氏族出身の同名(例えばユリウス氏族の娘であるユリア)の人々が集まるときは、「~~家のユリア」、「~~(父名)の娘のユリア」といって区別していたともいわれる。
なおアウレリウス氏族出身の女とアウレリウス氏族出身の男が結婚して長女と次女が生まれた場合、母親も、長女も次女もアウレリアといった事態が存在した。こういったとき、歴史学においては区別のため母親を「大アウレリア」、娘を「小アウレリア」とか呼んで区別する。
以下は紀元前91年時のものである。なお、属州のケースは割愛する。なお、当時、市民権が認められたいたのはローマ市およびローマの直轄領に住む平民階級以上の住民のみである。ローマ市民として民会に参加できるのは平民階級以上の人物に限る。
なお、これはあくまで共和政ローマにおける身分制度についての事項であり、執政官に官職についてのことではない。
紀元前91年度の護民官に就任した一人に、マルクス・リウィウス・ドゥルススがいる。
護民官はその名の通り平民の権利を守るのが主たる職務である。また護民官は当然、民衆派であり、彼は当時の護民官の中でもその代表格と言っても良いであろう。彼はイタリアに住む同盟者全員に対するローマ市民権の拡張を主張していた。このことに対して元老院派は反発し、民会での彼の演説においては元老院派の怒号がしばし聞こえることもあった。
そして彼は同盟者達にとっては希望の星であった。彼が護民官として主張をし、ローマ市民たちがローマ市民権の拡張に賛成者がいる限りは、同盟者達は武力蜂起というローマ市民権獲得はこれっぽっちの考えなかったはずだ。
しかし、ドゥルススは1年の任期中に、民衆派による彼の支持者に守られながら自宅へと歩いている最中、元老院派の放った刺客により刺殺された。彼は死の間際、保守的なことを考える元老院派に対する失望も含めたであろう、最期の言葉として、「ローマ市民は何時、私のような人物を持てるのであろうか…」と言い残し、絶命した。
この事件に同盟者たちは驚愕し、絶望した。これまでポエニ戦争などで協力した我らに対するローマの態度はこのように冷酷なものなのであるのか。同盟者たちは希望の星であるドゥルスス護民官を暗殺されたことで、穏健な協議は不可能であると悟った。
同盟者たちがローマ軍と協力して戦った数十年前のポエニ戦争の時の元カルタゴ人でさえ、奴隷にされた後に、その有能さと主人に対する忠誠から、主人から自由な身分を与えられ財産と男子を持ちローマの平民として市民権を得るという時代である。かつての敵が自分たちよりも良い待遇であるのに、あの当時の子や孫にあたる同盟者たちには見返りもなければ、今やローマが廃した徴兵制さえ、ローマは同盟者に課している。あまりに不平等で差別的ではなかろうか。
そしてローマ連合の掟をひそかに破り、同盟者たちはイタリア半島各地の部族・都市と密通した。最終的にはイタリア半島の南北の8部族がローマ市民権獲得を目指して、紀元前90年になる前に、軍団を編成し武力による一斉蜂起することを決めた。
それは、紀元前91年末の数日間に起きた。
イタリア半島に住むピチェント族、ウェスティーノ族、マルッキーノ族、パエリーノ族、マルシイ族、フレンターノ族、サムニウム族、ヒルピーノ族が、一斉に武装蜂起を起こし、ローマ領に奇襲攻撃をかけた。
これこそがローマ連合の内乱たる「同盟市戦争」の開戦であった。
この時点では、ローマ領の都市や多くの同盟者たちはまだローマ側についてるか、あるいは何もしない中立であり、反乱側の規模はまだ8部族内のことである。しかしこれにより、ローマよりも生まれ育った郷里の行動に従うことにしたローマ連合軍の将兵の4割近くが離反する、という事態を引き起こした。
ローマ軍の兵力はそれまでの6割にまで減少した。
そして北部で勢力を誇るエトルリア族・ウンブロ族の諸都市はこの反乱で、ローマ側につくか、同盟者側につくか、決めかねていた。すなわちこれはローマが劣勢になれば、各地の部族あるいは都市が同盟者側で参戦する可能性は大いにあった。
こうして勃発した同盟市戦争のはじまりは、ローマ市民および元老院の予期せぬことであった。そして彼らはこの蜂起を知るや、その出来事に驚嘆した。
反乱を起こした8部族は、新国家イタリアの建国を宣言した。今でこそイタリアは主に国名として扱われるが、当時は地理的名称としてのみ使われた。
新国家イタリアの首都はウェスティアーノ族、フレッキーノ族、マルッキーノ族の領土の中間にあたる、ウァレリーア街道沿いの都市コルフィニウム(現・コルフィーニオ)とした。
ローマ市から見れば南東の位置にあたり、距離は120~130km前後しか離れていないのだ。
また新国家イタリアは、元老院、民会(市民全員からなる市民集会)、毎年2名選出される執政官と、司法を担当する12人の法務官制というローマと全く同じ制度を導入した。
万全を期したイタリア側は、ローマ軍傘下にいる故郷出身の将軍や百人隊長らローマ軍兵士をも抱き込んだ。そして軍団をウァレーリア街道を北進させ、ローマへ向かい進軍することに決めた。南東からローマを攻めるのだ。
年が明け、突然の武装蜂起に対応するための迎撃体制をローマ側も整えた。
まず戦線を大きく、北部戦線と南部戦線に分けて対応することになった。この紀元前90年に選出された執政官(執政官(コンスル)はローマの元首であり、元老院議長であり、ローマ軍の総司令官であった)の二名を南北それぞれの総司令官とし、配下の将軍たちにはそれぞれ数多くの歴戦を潜り抜けた者たちをつけるといった最善かつ万全の対応であった。
こうして、執政官ルプス率いる北部戦線軍団を北進、執政官カエサル率いる南部戦線の軍団を南進させ、各地で戦闘が勃発した。
北部戦線担当の執政官ルプスは各地で激戦を繰り広げたが、毎度、数多く出るローマ軍の死傷者の数に驚いた。だが、それはイタリア側も同じことであろうとルプスは考えていた。
ルプスは軍事経験豊富な部下の元執政官マリウスから、「執政官殿。このままでは犠牲が増えるばかりであるので、兵士を更に訓練すべきだと私は考えております。」と主張されるも、ルプスは、「マリウス殿。我らにはそうしている時間がないのです。」と断った。
そして北部戦線の軍団がリーリス川(現・ガリリャーノ川)を渡る際に、ルプスはマリウスと話し合い、まず数万単位の全軍団をルプス側とマリウス側に二分することにした。それぞれ別個の二つの橋を造り進軍することにした。なおローマ軍には海以外の川を渡る際には橋を造って渡河をするのが普通であり、これは終戦後の新属州に対するインフラ整備にも役立った。
この軍団の様子を斥候で知ったマルシイ族を率いる指揮官ウェッティウス・スカトは、マリウス率いる軍団の造る橋の近くに密かに本陣と本隊を置き、そこからルプス指揮下の軍団に向けて別働隊を送り込むことにした。俗にいう不意打ち作戦である。この様子に橋を造っていたルプス、マリウスをはじめ、ローマ兵は気づかなかった。
翌朝、ルプス側の軍団野営地が敵の強襲にあった。見張り番は敵の襲撃があったことをすぐに知らせた。予期せぬ事態にローマ兵は混乱しながらも、近くにある武器を手に取って応戦した。だが、この強襲により、軍団兵の半数以上が戦死。ルプス自身も自ら剣を持ち応戦するも、とあるイタリア軍兵士により頭部に致命傷を受け即死した。
この後、マリウスは川にローマ兵の死体が流れてることに気付き、野営地の辺りを調べさせた。そして斥候により、敵の本陣を見つけることができ軍団の準備を整え、敵の本陣めがけて攻勢をかけた。
この攻撃に敵は守りきれず、スカトは退却命令を出し、攻勢中の別働隊もこれを知るや退却した。北部戦線はこうして敵の本陣を取り、数度となくぶつかり合ったものの、ローマ・イタリア双方とも犠牲者はあまりにも多大であった。
南部戦線においては、スッラなど勇猛果敢な将軍の目覚ましき活躍により、ローマ側のやや優勢となった。しかし、南部戦線の軍団長二名が戦死。その軍団長の一人にはガイウス・ユリウス・カエサル(後の独裁官、およびその父とは別人)がいた。彼はこの年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルの実弟である。
何故ここまでイタリア軍とローマ軍は、一進一退の激戦を繰り広げているのだろうか。それはイタリア軍がローマ軍の戦法を知っているからに、相違ないであろう。今までのローマ軍は、カルタゴ軍やシリア軍、ゲルマン人といったゲリラや非効率なまでに部隊の統率がなされていない軍団との戦闘を数えきれないほど積み重ねてきた。
しかし今日の敵は、ローマ側から見れば、相手はみずからと同じ戦法をとり、同じ武器を持ち、同じ防具をつけ、同じように百人隊による戦列を組み攻撃してくるのだ。彼らイタリア軍は、かつて自分たちと同じ釜の飯を食った仲なのだ。ローマ軍にとっても、イタリア軍にとっても、すなわち己のことを極限まで知り尽くした相手との戦闘である。
これにより一進一退の激戦が連続して続き、双方とも同程度の戦死者が膨れ上がった。ローマ軍はあまりの死体の多さに、普段はローマに死体を運んで埋葬するのだが、今回は戦地で埋葬することが急遽決まった。
紀元前90年前半は、イタリア軍のやや優勢である。これ以後、イタリア軍も北部戦線で捨て身の根性で猛攻を仕掛けるも、死傷者の数が爆発的に膨れ上がり、戦力の激減を味わうことになる。なおルプスの死後、北部戦線の総指揮はガイウス・マリウスが代行することになった。南部戦線も、執政官ルキウス・カエサル、将軍スッラの猛攻により、紀元前90年後半はローマ軍がやや優勢となった。
だがローマを寝返る同盟都市も相次ぎ、参戦時のイタリア側勢力の数倍に至るまでになってしまった。
数十回にも亘る激戦により、一進一退の死闘の日々が続く。こうして今年は冬を迎えた。
ローマ軍においては冬は戦闘することはなく、敵の侵略の可能性がない時は、野営地で冬越えをすることが一般的であった。イタリア軍側もローマ軍の動きに目を見張りつつ、自ら進軍することをやめ休戦状態となった。
ルプスが戦死し、今年度唯一の執政官となったルキウス・ユリウス・カエサルは、戦況を見計らってローマに帰還した。彼はローマに帰り、市民全員を招集し民会を開くことにした。
この時、カエサルの脳裏には「戦況は我が軍の優勢とはいえ、妥協せんことには、これからも激戦が続き多くの血が流れる。イタリクスの要求を飲めば、かつての同盟者をローマ市民と認めなければならない。このことは今後ローマの治世に損失を生むかもしれぬ。されど致し方無き事だ。それにイタリア半島以外の外敵のことも気になる。そもそも数百年前のローマ建国に立ち返れば、恭順を貫く敗者の同化こそがローマのあるべき姿なのだ。」という一筋の考えがあったかもしれない。これはあくまで推測である。
そしてカエサルは平民、騎士階級、元老院議員のそろう民会の場において「ユリウス市民権法」という法案を提出した。
この法律には、ポー川以南のイタリア半島居住者(平民階級以上)に対し、ローマ市民権を認めるという趣旨の内容が書かれてある。ただし彼らが、この方に則り、ローマ市民権を得るためには、イタリア側がローマに対して無条件に従い、無条件に武装解除および停戦をし郷土に帰すことであった。そうすれば彼らは無罪放免とした。
この演説においては、平民、騎士階級をはじめ、あれほど反対していた元老院派からも怒号や批判は聞こえなかったという。反対していた元老院派などのローマ市民は戦力の大幅な損失を受け、自らの市民権に対する考え方を改めざるを得なかったのだ。
この法の内容を知ったイタリクスたちは「我が勝利」、「悲願達成」、「ローマと戦う意義はもはや存在しない」などと歓び、北部戦線の部族たちはこの法律を受けることにした。彼らの大半はこうして武装解除し、ローマ側に恭順した。北部戦線の同盟者たちは、首都コルフィニウムをローマ側に明け渡し、ここに新国家イタリアは消えた。これを記念して、イタリクスとローマ人が握手するという銀貨も造られたほどである。
だが、イタリアの北部戦線の総司令官クイントゥス・ポペディウス・シロは、このローマの対応には最後まで反対を示し、戦い続ける意志を見せた南部戦線のサムニウム族の軍団に参加して指揮を執った。これにより南部戦線においては一年にわたり、残党勢力による戦争が継続されることとなる。
また北部戦線でもローマに対する反感などから、武装蜂起が完全に鎮圧したわけではなかった。
※イタリアと言う国家は首都がなくなり名実ともに消えた。しかし以下は便宜上、ローマに対し武装蜂起している反乱兵の集団をイタリア軍と称すことにする。
紀元前89年初春、今年度の執政官にグナエウス・ポンペイウス・ストラボと、ルキウス・ポルキウス・カトーの両名が選出された。そして彼らは協力して北部戦線、南部戦線にまだ残る反ローマの残党狩りを行うことになった。
ポンペイウス・ストラボは北部戦線を担当した。彼は軍団を率い、まだ武装蜂起をしているイタリア北部の都市アスクルム(現 アスコリ・ピチェーノ)を目指し進軍した。
アスクルム近郊にてローマ軍とイタリア軍との戦闘が行われた。イタリア軍を率いていたのはマルシイ族のティトゥス・アフレニウス将軍である。しかしここでは、ローマ軍の圧勝であり、マルシイ族を中心とするイタリア軍は6万人が死傷した。こうしてアスクルムは降伏。北部戦線の抵抗は完全に消滅した。
一方、執政官カトー率いる南部戦線においてはまだ激戦が続いた。フキネ川の戦いにおいて、ローマ軍はイタリア軍を上回る死傷者を出して退却。その後、マルシイ族の野営地襲撃中をするが、この時に致命傷を受けた総司令官カトーは戦死した。これ以後、スッラが総指揮権を代行することになった。
テアヌス川の戦いにおいてイタリア軍は兵力を大きく失い、ローマ軍に対して降伏した。ローマ軍は武装解除した彼らを殺すことはなく、彼らがローマ市民になるのを許すのと引き換えに、武力行使をしてローマには向かうことの無きことを確認する。そうして軍団はローマへと帰還した。
なお、具体的な月日は不明であるが。この年、北部戦線の総司令官クイントゥス・ポペディウス・シロが戦死した。皮肉なことにシロを殺した軍団を率いていたのは、彼らの蜂起の原因となった暗殺事件の被害者、マルクス・リウィウス・ドゥルスス執政官の実弟であり、アエミリウス氏族のレピドゥス家に養子にいったマメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス(後の紀元前77年度執政官)であった。
紀元前88年、北部戦線担当地域においてサムニウム族による小規模な反乱が起きたようだ。だが既に目的意義を失い、戦争で起きた恨みのみで戦う彼らに勝ち目はなく、その戦いの名が史書に残ることはなかった。
こうしてローマの妥協とイタリア側の妥協、それ以後の反乱などを通して、戦争は終わり、全ローマ軍団は帰還した。
同盟諸都市民は戦いには敗けたものの、政治的目標は果たされた。これからの彼らはローマとの同盟諸都市民というローマの従属者ではなく、正式にローマの一員になった。ローマとは別の国ではなく、ローマの本国イタリアの地方自治体となる。これからのローマは、共和政と帝政の両期間を通して、イタリア半島全域の本国と、属州から成る超大国へと成長する。これは、その本国の領域と本国民であるローマ市民を決める第一歩なのだ。この500年後に西ローマ帝国が滅亡するまでの、ローマ市民の概念を決める上でなくてはならない第一歩だ。
こうして足かけ2年にも亘るイタリア半島の内乱はひとまず終わった。だが翌年の紀元前88年には、ガイウス・マリウス率いる民衆派とルキウス・コルネリウス・スッラの閥族派による血なまぐさい内乱がはじまることになる。結果はスッラの勝利であるが、彼の引退と死後はまた迷走する。
そしてマリウスの甥ガイウス・ユリウス・カエサルが、元老院による寡頭制を廃し、自らが独裁官になり、ローマの政治を変えていくことになる。彼がグナエウス・ポンペイウス・ストラボの息子、グナエウス・ポンペイウス・マグヌス一派との戦いを終わらせたのは、この戦争終結から44年後のことになる。
掲示板
12 ななしのよっしん
2019/06/09(日) 03:46:54 ID: A5AoMFhS7Z
ハンニバルがあれこれやっても崩せなかったローマと都市国家の同盟がこうもあっさり崩れるとはなあ
13 ななしのよっしん
2019/08/12(月) 09:57:11 ID: QG9g//HYCk
『てにおは』おかしいし、『瀕死する』も変だし他にも色々日本語として変なところ修正して欲しい
文量が多いにしても、誤字脱字では済まない間違いが気になるよ
14 ななしのよっしん
2019/11/26(火) 20:38:34 ID: uLP2ihnITg
>>13
第一回十字軍とかサラエボ事件とかで同じような書き込みみたけど、同一人物?
それぐらい自分で直すか、編集専用スレで第三者にお願いすればいいのに。他力本願。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/11(木) 05:00
最終更新:2025/12/11(木) 05:00
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