それは人間の個別性にもとづく反文明~反世俗的かつ全面的な複合思想(…秘密思想~地下思想の面あり…)といえよう。
概要
最初に断っておくと、ここで述べる一切は便宜上、断定文体などを用いようとも(全数的な意味で)確定的な話でない(いわずもがなというべきか異論・変化・誤り等あり得る、〔○(~)○(それ)が可能な範囲の全てについて〕執筆者の完全免責が閲覧条件‥‥宜しく願う)。
またここでいう世俗とは、宗教と科学をともに含意する表現である一方オカルティズムを否定するものでなく、寧ろオカルティズムに着目して、既存全宗教の欺瞞性を表現していくことも企図されているがその全部では無論ない。
(オカルティズムや宗教論などを軸としない一部としてであるが、必ずしも宗教論そして芸術論をも避けた内容でないことを冒頭であるここに明記しておきたい、だがこの思想は「一般人」の生活や、批判的な意味における学術や、世界政治の国際的構造全体に関わり得るものなのである)。
さて、その源流は約半世紀前まで遡ることができる、またそれは無意識的・顕在のであるかを問わず、1つ1つの固定された既存の思想・信条に対するあからさまな反駁の累加として辿ることができるだろう。
当該の思想においては、(原典主義・教条主義でなく)発展的継承が無制限的に許容されていて、中心的な理念が出揃う歳月を経ても体系として整備されぬまま近年なお基層となる部分が発展途上に在り、論点の項目数は大きな伸びをみせている(もちろん明示的な体系化は急がれようが)。
例えば民主主義の根幹を成す選挙制度について多数化的又は多数主義的として退けるというものがあるがこれは独り政治思想として多数主義に異を唱えることに意味をもつように立脚させる点にその価値を置くのでなく、遠く広く世俗生活(集権世俗と呼ぶ)全体構造たろう処の多数万能世界観による“価値基準産生体系”に及んでくるものである。
思想内容としては、極めて深く大規模であり、ひとつの原理的な考えかた、ひと言での説明は到底かなわないとして、特定の価値観によって拾い綴られた「世界史」概念を排除し、事実としての「少数犠牲の反復」として一面においては「世界の経緯」を観察する(尤も「歴史」を有害無価値なものとして全面無視でもいいが疎通労働前提の社会環境における消費経済生活と、思想形成の用を満たすのには多少は横目ででも眺めておくのがいいだろう)ということが筆頭に挙げられる。
そこでは「血塗られた歴史」として内容からもだが勿論のこと、いわば「全空間全史」とでもいえよう総体以外の、一般にいう「歴史」という概念自体も“社会虚構の一種と概括する”ようにして“仮想的に全否定されうる”のである。
当然的に総体としての文明を否定的であるということは、自ずから「人類」という単位に否定的であるということでもあるが、取りも直さずそれは、文明というものが概念としてのレベルから既に多数派のものであり、主流的統合的であるところからも多数派的であり、統合的でありながら主流的であるギャップを利鞘として活用しえよう意味で多数利益誘導的な概念であるといえるだろう。
人類は人類という概念(国家でもいいが)を重視する有力者によって多数派に「独立した少数」を組み込むための方便たる場合が有り得るのでないかと疑うのである、まさに「少数派を組み込んで」かつ「少数派の意見を封じる」ことで利益を増やすことができる、これが選挙制度という話でもある(徴収と発言権の剥奪の関係、または責任の移転)。
思想の特徴としても、多数的であることに警戒し、普遍思想(実際には賛同多数や権威に過ぎない部分的思想としての)よりも、明確に「少数者のために」少数者の自尊の回復という第一の解決に重きを置く(少なくとも多数派の在りかたを否定して“底辺少数”等にとってのみ有用であるという「人類」全体の思想でない側面部分)。
また「多数的である必要の呪縛」から解放されることで、世俗多数に支配的なあらゆる自明的前提的な議論・理念を「拒絶」することができる(後述の秘匿性と併せて論敵による職場締め出しや炎上に依る諸機能停止や街宣による“暴力的経済物理的存在廃除”をおそれる必要がない)。
まずは多くが認めているものを(或る種の少数派が黙認してしまっているものも含めて)徹底的に批判することができるようになるというわけであり、さらにはオウイズムを共有していくような諸派においてはより細分化された否定(ローカル法)や忌避嫌悪が可能となる。
さらにいえば、この思想自体が学術および学術システム学者登用(学者発言~給付の諸)制度に異を唱えることで学問“たりえない”、また一方で科学顕彰と根強い一般的評価に疑問を投げかけ(幻想視もしくは生活利権を共有する多数派の利己的受容視)、科学というものを寧ろ殺戮準備および多数化による半強制的な生活提案(世俗的生活を前提とする生活支配やそれによる多様な利益回収の仕組み、過去においての“大人的習慣”)を発展させうる有害なものとしても捉える。
そのため、いわゆるマイノリティ運動のように、多数派に認められてこその市民権というようなことに殊更関心を払うことをせず、世俗回帰を戒め、自らが自らの価値観を以て多数派と無関係に自尊を自足するための枠組み的土台を提供する(といっても既存の俗説の排除としてだが)。
この意味で、各々のジャンル集団が、その窮状から逸早く社会に存在を認めさせんと声高な訴えに性急になるがごときのとは異なり、寧ろ個々の活動は地味に若しくは隠れて無駄に敵を作らずしてその分「効率的に」より洗練された少数世界づくりを行うことを奨励する。
現状の文明システムの解決の一例として(旧来の王国と、特定の王国でなく)純粋に自主的な愛国によってのみ成り立つような王国システムを提案するが封建制を主唱するものでない、これは国家的な相対的大集団を形成するに際して(トップ・コアとして)、学知を共有する選良に(オウイズムでは、知的世俗に迎合的に順応してステイタス確保を遂げているこの場合の存在様式者を世俗長と呼ぶことがありうる)判断において委ねるのでなく特異な思想を生み出させる少数派が少数で(分散して)点在するのが通常なら互換的多数の学識階層による集団支配体制にはなじまず何かしら特別な工夫(王国制など)を要し得るはずなのであるとすると、着想においても思想的実践展開においても世俗を脱却できる突出した論理性創造性を伴う異端の者を中心にして建造国するというのが好ましかろうとしたような其の趣旨が中身であるが‥‥猶、ここで「世俗」とは多数派と多数派に属する者の支配的(ドミナント)な考えかた(主義志向趣味嗜好)でもあろう(因みに少数「派」というのは逆説的に個別を析出する母体として把握しえよう)。
寧ろ内容からは左翼思想と混同される場合があるかもしれないが多数化その物を意図する多数化運動には否定的に構える様にし、その世俗迎合を指弾している思想内容であって更に多数化する為に疎通庶民としての感覚を共有しようとしない、ということだろう、例えばスポーツというものの価値に“普遍性のない無意味な側面”から疑義を呈し、公共と認める解しかたの受容には難色を示し、集団的熱狂を“不気味な”(※主観的だろうとも諸々に結びつけば危険とも見做しえようそれや、勝敗主義を低い)ものと視ることもしていようが‥‥一先ずであろうとも、世俗親和的なアプローチを採って行うがごときの(旧特定左派的思考)のイメージ的流布・具体的紹介の様に多数化において説得や宣伝を以てするのでなくして、この内容の力を軸に完備した論証によって迫りうるその時たるか迄だかするのにはであるかしての俗説で紛糾しうる段階のかで議論に挑む持込は不毛かと考ええよう、したがって議論を旨とする議会制や選挙制は(議決を伴う多数主義以外に)ここでも否定的に扱われるのであろうと。※誤記等ご容赦
【メモ】
()「誰でも自由にご参加」のように謳う
()そうすることで「普遍幅」をもった公共的な場としての権威をえるか補助対象になるか
()だが信条・感覚・知識などを共有する多数(場合によっては有力少数としてのVIP)の場にそれ以外の人が入り込むことを嫌う
()したがって入ってからさまざまな口実の余地の何かを利用して排除することがある
()排除された者は「普遍」「公共」の場からの排除を受けたように視えて(なって)しまう
()よって、何ごとかが、悪くすれば、本質的にかでも“成立”していない
というような形である場合
()そうした絶対的でない(絶対的でないほうが多い)陳腐さか、偏倚性か、
そういったことが認知されていない(認めていない)(認めない)という場合
()そのこと(排除や、利用休停止の処置の適用や、物理的不能の無補償)によって‥‥
そういうことがあって当然にアナウンスされたサービスが得られず、金銭経済的・体力
労力的・時間的損失が配慮されない(埋められない以前に認められずに当然視されて平然と淡々と不対応で流されて終う‥‥等)形
()単に(巻き込み側の理不尽や不手際で)巻き込まれての偶発的な少数派化
()(犯人責任転嫁の上で)薄い関係から連帯責任的に巻き込まれる少数派化
()多数であることが正しいとはいえない(それも、限らないどころでなく
また‥‥多数と正しさに“(直接の関係)”をみいだしえない)場合のこと
()多数派のほうを母体として‥‥寧ろその場が本来的として吸収される参加と価値を認めてもらおうとする形
()多数派のほうに特権を与えて(多数派〔の‥‥指導者〕が奪って‥‥独占的な所有や優先の常駐を許可の形(そしてそれが云々
というような御手盛りであるがごときの)(自らの手回しで有利に処断・緩和される場合かの))居る等の構図
関連項目
- 1
- 0pt