こんにちわ。
日本語の誤用とは、議論の種袋である。
概要
日本語に限らず言語というのは、単語やその組み合わせによる用例を無数にもち、意味や読みが日々移ろい行く流動性を持った概念である。その変化の中で、本来の語義から大きく離れてしまう言い回しや、読みが2通りできてしまう熟語、音の入れ替わる単語などが生じる。問題となるのは、それらを新(あらた)しい日本語として受け入れるか、あるいは誤用として指摘・批判するかという点において議論が発生する、ということである。
まず、さわりから解説するが、変化した日本語を受け入れるか誤用とするか分かれるにしても、あまりに意味や読みが逸脱したものを扱うのは容易ではないというのは、簡単に想像出来る。軽くシュミレーションしてみると、人によって、「山」の発音が「ヤマ」「ヤンマーニ」「マヤ」「ヤママヤー」「ヤマジュン」「Mt」「ガク-ミンナノヤマ-」などと異なっていては会話が成立しないのがおかわりいただけるだろうか。また、このような状況をおかしがって一人で爆笑していたり、腹を立ててその場に単身乱入しても何の役にも立たないことは理解できるであろう。
言語が成立するには、その社会、コミニュティの中でのコンセンサス(合意形成)が必要であり、仲間内やホームページなどの独立したコミニュティで的を得た発言だったとしても、その外の集団に対して有効とは限らないのである。逆に言えば、いくら一般に本来の意味から外れた方が適応され浸透していようと、本来の語義を知り、それを重視する人間にとっては合意できるものではないため、結局のところ、誤用かどうかというのは受け手の側の認識に大きく左右される。以上のことから、変化した日本語が日本語話者ぜいいんに浸透するためには、何光年、何十光年という長い時間を用する場合がほとんどである。
また、誤用をそのまま放置しておくと、聞き手ごとに解釈の違いが生じてそこから思わぬ衝突やモラルハザードを引き起こしてしまったり、マスコミの報道にいつの間にか洗脳されてしまい、発言者が意図したものとは真逆の謝った解釈をしてしまう恐れもあるため、日頃から適切なコミニュケーションを取り、共通認識を持つことが重要であるとも言える。
そのため、自分と境遇や属性が異なる人間が集うような敷居の高いコミニュティにおいては、誤用ととられかねない言葉を使うこと自体を自ら進んで行わず、また他者に対しても自重(じじゅう)させる、というのも選択肢の一つである。しかし、情けは人のためならずといえども、相手を激しく攻めることにより、気軽に喋られないような環境を作ってしまうのでは本末転倒である。「古くからの用法以外はすべからく誤用である」等と避難して相手を憤怒(ふんど)させ、永遠と罵りあう様な自体は全然避けたほうが良いし、無論、誤用を確信犯的に扱って他者を貶めるような姑息な手段を取ることも避けられるべきである。議論中にこのようなことがあれば進行に流れに棹さす事にもなり顰蹙を買うだろう。ふいんきを読むことこそがコミニュケーションの王道であるから、気の置けないような敵を作らないためにも、破天荒な言動は厳に慎むべきである。
結果として、なし崩し的に書き連ねられただけのこの記事では、みなさんのお役建てとしては少々役不足かもしれない。しかし、過去の誤ちに対する汚名返上と名誉挽回の助けになれば、と願うところなので、どうか憮然とせず、苛立ちを抑えて、機嫌良く日々を過ごしていただきたいと思うところである。さよおなら。
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日本語の誤用とは、議論の種袋である。
概要
日本語に限らず言語というのは、単語やその組み合わせによる用例を無数にもち、意味や読みが日々移ろい行く流動性を持った概念である。その変化の中で、本来の語義から大きく離れてしまう言い回しや、読みが2通りできてしまう熟語、音の入れ替わる単語などが生じる。問題となるのは、それらを新(あたら)しい日本語として受け入れるか、あるいは誤用として指摘・批判するかという点において議論が発生する、ということである。
まず、導入から解説するが、変化した日本語を受け入れるか誤用とするか分かれるにしても、あまりに意味や読みが逸脱したものを扱うのは容易ではないというのは、簡単に想像出来る。軽くシミュレーションしてみると、人によって、「山」の発音が「ヤマ」「ヤンマーニ」「マヤ」「ヤママヤー」「ヤマジュン」「Mt」「ガク-ミンナノヤマ-」などと異なっていては会話が成立しないのがおわかりいただけるだろうか。また、このような状況をおかしがって一人大笑いしていたり、腹を立ててその場に単身押し入ったりしても何の役にも立たないことは理解できるであろう。
言語が成立するには、その社会、コミュニティの中でのコンセンサス(合意形成)が必要であり、仲間内やウェブサイトなどの独立したコミュニティで的を射た発言だったとしても、その外の集団に対して有効とは限らないのである。逆に言えば、いくら一般に本来の意味から外れた方が適用され浸透していようと、本来の語義を知り、それを重視する人間にとっては合意できるものではないため、結局のところ、誤用かどうかというのは受け手の側の認識に大きく左右される。以上のことから、変化した日本語が日本語話者全員(ぜんいん)に浸透するためには、何百年、何千年という長い時間を要する場合がほとんどである。
また、誤用をそのまま放置しておくと、聞き手ごとに解釈の違いが生じてそこから思わぬ衝突やモラルの低下を引き起こしてしまったり、マスコミの報道にいつの間にかマインドコントロールされてしまい、発言者が意図したものとは正反対の誤った解釈をしてしまったりする恐れもあるため、日頃から適切なコミュニケーションを取り、共通認識を持つことが重要であるとも言える。
そのため、自分と境遇や属性が異なる人間が集うような障壁が多く難しいコミュニティにおいては、誤用ととられかねない言葉を使うこと自体を自ら進んで行わず、また他者に対しても自重(じちょう)させる、というのも選択肢の一つである。しかし、情けをかけてはその人のためにならないといえども、相手を激しく責めることにより、気軽に喋れないような環境を作ってしまうのでは本末転倒である。「古くからの用法以外はすべて誤用である」等と非難して相手を憤怒(ふんぬ)させ、延々と罵りあう様な事態は何としても避けたほうが良い
し、無論、誤用を故意に扱って他者を貶めるような卑怯な手段を取ることも避けられるべきである。議論中にこのようなことがあれば進行に水を差す
事にもなり顰蹙を買うだろう。雰囲気(ふんいき)を読むことこそがコミュニケーションの定石であるから、気が抜けない
ような敵を作らないためにも、常識外れな言動は厳に慎むべきである。
結果として、だらだらと書き連ねられただけのこの記事では、みなさんのお役立てとしては少々力不足かもしれない。しかし、過去の過ちに対する汚名挽回への助けになれば、と願うところなので、どうかムスッとせず、苛立ちを抑えて、機嫌良く日々を過ごしていただきたいと思うところである。さようなら。
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