概要
江戸年間を通じ、江戸幕府の政庁として機能。
明治維新後、東京遷都に伴って御所となった。現在は国の特別史跡に指定されている。
歴史
平安時代末期、武将・江戸重継が本拠地とした事から、同地には「江戸」の名がついた。
15世紀に入り江戸氏が没落後、扇谷上杉氏家臣・太田道灌が康正3年(1457年)に江戸城を建築。これが最初の江戸城である。
その後道灌が上杉定正によって殺害され、江戸城は上杉氏の所有となった。その後大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った北条氏綱が支配する事となる。しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して開城。秀吉から後北条氏が支配していた関八州を与えられた徳川家康の居城となった。
当時既に城は荒れ果て、大手門の北寄りに茅葺の家が100軒ばかり立ち並ぶ、侘しい有様だったという。家康は江戸城を増築、普請によって得られた土によって埋め立てを行い、街造りに着手した。
その後慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった家康が江戸開府を宣言。「天下普請」によって本格的に江戸城の拡張が始まった。
慶長11年(1606年)から19年(1614年)にかけて全国の諸大名に命じて石材を運送させ、堀・石垣・城回りから天守に至るまで工事が行われた。更に元和・寛永・万治にかけて普請はたびたびおこなわれ、万治3年(1660年)の神田川御茶ノ水の拡幅工事が完了。これを以て天下普請は終了した。
完成した江戸城は、本丸・二の丸・三の丸に加えて、西の丸・西の丸下・吹上・北の丸を本城とした、大規模な城郭となった。
しかし明暦3年(1657年)、江戸城および城下を灰燼と帰した「明暦の大火」により天守閣が焼失。町の復興を最優先とした事、及び経済的な理由から、以後天守閣は再建されなかった。
明治に入り、大政奉還によって江戸城は無血開城へと至り、東京城(とうけいじょう)と名を改めた。その後東京遷都によって皇城(こうじょう)と名を改める。
明治6年(1873年)、皇居として使用されていた西の丸御殿が焼失。儀式典礼の為に明治宮殿が建設される。
当初はジョサイア・コンドル設計の石造建築が予定されたが、最終的に和洋折衷の木造建築で、外観は京都御所を模した造りになった。これをもって宮城(きゅうじょう)と称されるようになる。
しかし大正12年(1923年)の関東大震災によって古い建造物に被害が出たほか、昭和20年(1945年)の東京大空襲で大手門および明治宮殿が全焼。当時昭和天皇は吹上御苑の御文庫に避難しており無事だった。この時特別消防隊19名が殉職しており、お詫びを奏上した警衛局長兼内匠頭に対し、昭和天皇は「戦争のためだからやむを得ない。それよりも多数の犠牲者を出し、気の毒だった」と語られている。
その後は御文庫を仮の御所とし、1968年(昭和43年)になって現在の宮殿が建設されている。
これについては終戦後、国民が戦災によって家を失い、暮らしもままならない状態で新しい宮殿を建てる事は出来ないという昭和天皇の意向があったという。
現在
旧江戸城のうち、本丸・二の丸・三の丸跡は皇居東御苑として開放されている。公開日は原則として月曜日と金曜日以外。
また南東の皇居外苑、北に位置する北の丸公園は常時開放されている。いずれも入園料は無料。
御所および宮中三殿は吹上御苑にあり、庭園の一般公開は毎年5月の休日のみである。
都心にあって多くの森林を擁しており、湿度は周辺よりも高く、ヒートアイランド現象の抑制に役立っている事が判明している。
時代劇においては姫路城のビジュアルがよく使われており、往時の威容を偲ばせている。
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