仙台城とは、宮城県仙台市にある青葉山に建てられた伊達氏の居城であり、同時に明治時代に終りを迎えるまでの藩政の中心地であった場所である。雅称は青葉城であり、現在の跡地は青葉城址と呼ばれる。
仙台城 日本100名城 8 |
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別名 | 青葉城、五城楼 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 伊達政宗 |
築城年 | 1601年(慶長6年) |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
概要
古くから仙台城のあった青葉山には城郭の類は存在していた。その後、伊達政宗が1601年に縄張りを開始し、地名を仙台と改め、その象徴として青葉山には仙台城が鎮座することになった。城の構造は本丸、二の丸、三の丸から構成されるが、政宗が造営した当初は本丸と西の丸(現在の宮城県護国神社)のみであり、山城であった。しかしながら戦国乱世の時代から江戸幕府による太平の世へと軍事から内政へと力点が移るに連れて、その軍事偏重とも言うべき構成は不便を強いるものとなり、二代藩主伊達忠宗により二の丸が追加される(三の丸については二の丸とセットで作られたと言われている)。
尚、この件に関しては政宗自身も重々理解しており、忠宗や家臣に対して自分が死んだらこんな時代遅れの城はさっさと改築しろと言っている。
こうして軍事拠点・仙台城から、仙台藩政の中心地・仙台城へと変化を遂げていった。しかし近代日本がその産声を上げ、その歴史の流れの中で出された諸法令により、仙台城は砲火の洗礼を浴びる事無くその役目を終えた。
戦渦こそ経験することは無かったものの様々な受難を経験し、現在ではその遺構のほとんどを損失している(昔から修復などは度々行われ、戦前は一部の遺構が旧国宝に選ばれはしたが)。しかしながら2003年8月27日には国の史跡に指定された。
構造・立地
仙台城の立地、構造を記していく。
立地
本城の標高は131.6mにある。南側は竜ノ口渓谷の絶壁・約80mが、東側は広瀬川と広瀬川へと落ちるような約60mの崖がそれぞれ護りをなしていた。西側は青葉山を覆う原始林が寄せ手の進軍を阻む構造になっている。このような立地条件に建てられた本城は、イスパニアの探検家・セバスティアン・ビスカイノによって、本城は河川に囲まれ、断崖絶壁の山の上に築かれている上に、その侵入口は一つしか無く、大きさは江戸城と同じくらいの巨城だ(実際は江戸城の次)と評価されている。
構造
仙台城は先述の通り、本丸(+西の丸)、二の丸、三の丸から構成され、本丸は伊達政宗の時代に、二の丸と三の丸は二代・伊達忠宗の時代に作られた。
本丸へは広瀬川にかかった大橋を渡り、大手門から入城する。門をくぐると正面に二の丸があり、左折し直進すると本丸への道となる。途中で寅ノ門をくぐり、本丸の入り口に当たる詰門(現:宮城県護国神社鳥居)を通れば本丸となる。本丸の中心部には大広間があり、それ以外には櫓(やぐら)が多数配備されていた。それ以外では天皇家や将軍家の来訪があった際にのみ使う御成門があったが、一度も使われることはなかった。さらには天皇家・将軍家専用の間があったが、こちらも使用されることはなかった。
政宗公の時代では高い抗堪性を有する本城ではあったが、戦国乱世の終焉と共に仙台城はリフォームされ、それが次の二の丸・三の丸となる。
二の丸は現在の東北大学川内キャンパスに相当する。政宗死後の2年後、1638年(寛永15年)に着工され、翌年の39年に完成する(ちなみにこれにより山城から平山城となる)。主要な施設としては藩主の屋敷や能舞台などがあり、規模は東西310m、南北200mであった。藩政の中心地としての栄を浴した二の丸ではあったが、明治時代においては西南戦争の戦没者招魂祭の花火が不発、そのまま重力に身を任せ二の丸へと降り立った結果、貴重な二の丸の主要施設はほぼ文字通り灰塵に帰した。さらに戦災により先の火災を免れた施設も灰塵に帰した結果、二の丸の遺構はすべて消滅した。
三の丸は米蔵があり、二の丸の造営時に作られたのではないかと言われている。当時はここに馬場があり、大橋を抜けたすぐに片倉家の屋敷、馬場、厩(うまや)、馬の係をしている役人の屋敷が連なっていた。三の丸跡地は仙台博物館があり、馬場のあった場所は川内追廻(かわうちおいまわし)と呼ばれる地名となっている。
それ以外の場所では仙台城西側などに広がる原始林・御裏林(おうらばやし)がある。これらは仙台城の後背を守る地域であり、同時に水源でもあった。そして最後に残るのが石垣である。
石垣と発掘調査
仙台城跡では石垣の発掘調査が行われ、現在では1期石垣、2期石垣、3期石垣の区分にて分類がなされている。これらの石垣は、現存する3期石垣が最前面に露出し、その後背に2期石垣が存在し、さらにその後ろに1期石垣が続く形になっている。
まずは簡単に各石垣の関係を下記に列記する。
・1期石垣
伊達政宗による築城時期であり、地形にそってやや傾斜が緩めの石垣である。積み方は野面積み。石材は自然石を中心に割石(わりいし)、詰石で構成される。
※野面積みと割石……野面積みとは自然石、つまり採石場から拾ってきた石をそのまま利用する工法で、高排水性、頑丈なことが取り柄ではあるものの、取り付きやすく登られやすい不利があった。その上で割石というのは形を決めずにとりあえず石を割った物を指す。
・2期石垣(政宗~忠宗)
政宗治世下の頃の石垣で、1期石垣よりも傾斜が10度ほど増した。積み方は野面積みと1期石垣とほぼ同様であるが、石に対して面整形のためのハツリ加工を多用しており、さらには詰石も平面になるように行われている。
・3期石垣(四代・綱村~五代吉村 17世紀後半~)
他の石垣と異なり切石積み(整層積み)と呼ばれるタイプを採用。切石積みは従来の自然石をそのまま利用するのではなく、全面に平面に近くなるように加工を施す。間には敷き金などを利用。
我々が目にしている青葉城址の石垣は、時代劇などでも見慣れた加工の施された石垣であるが、青葉城址は上記の調査により当初は天然色全開のゴツゴツとした石垣だったことが理解できる。これについては青葉山公園内(野外)にてその模型があり、普段目にすることのない石垣の”内部構造”まで目にすることが出来る。加えて2期石垣では恐らく構築の際に使われた目印と思われるマーク(○など)が少なかったものの、3期石垣では♯、△、十、○、十の上に^を傘のように乗せた印、++(草冠のような印)、^^(^と^はMのようになるように重なる)などのマークが頻出する。もう一つ特徴的なものは、石垣のコーナー部分に”江戸切り”と呼ばれる技法を用い石垣の稜線を引き立たせている。
※江戸切り……石垣の稜線と並行するように、あえてそのラインを強調するために石垣の石を削り込む技法。こうすることで削り込まれた部分が陰影となって強調される。淀切りとも言われる。現代風に言えばエンボス加工か?
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