郡上八幡城単語

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今週のおすすめ この記事は第560回の今週のオススメ記事に選ばれました!
よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。

郡上八幡城とは、岐阜県郡上市にあるである。岐阜県史跡、郡上市重要有形文化財、続日本100名城の一つ。

概要

特徴

郡上市八幡町、いわゆる郡上八幡と呼ばれる地区に建てられたおで、八幡山と呼ばれる山の頂上に建てられた山である。

日本最古の木造再建として知られ、瓦屋根がかっていることから別名「積翠城(せきすいじょう)」と呼ばれる。また、紅葉スポットとしても有名で、紅葉が見頃の時にはまるで紅葉の葉で守が炎上しているように包み込んで見えることから「炎上天守」、「炎上」と例えられることが多い。紅葉以外にも、はふもとのと新もみじの中に立つ守の姿が鑑賞できたり、が積もった際は山とともに白銀化粧した姿を見せたりなど、春夏秋冬ごとに様々な顔を見せてくれる勝地として名高い。(下記ツイートで、郡上八幡城観光キャラクターおよしちゃんがその様子をTwitter投稿している。)
また、入り口の高台や守からは郡上八幡を一望することができる。


は再建された守、附櫓以外にも石垣が現存遺構として残っており、それらは「八幡城跡」という名岐阜県史跡に定されている。[1]この石垣は、「野面積み」と呼ばれる戦国時代では一般的だった工法で積まれており、戦国時代の荒々しい印を与える外観となっている。[2]さらに守の部分は郡上市重要有形文化財に定されている。[3]また、内にはおよし伝説で登場し、人柱となった女性「およし」をったおよし塚、の院がある。また、山内一豊の妻、千代ゆかりの地としても知られ、山の中にある公園には、山内一豊千代像が建てられている。


の院

およし塚

守から郡上八幡並みを望む

これ以外にも、兵庫県竹田城福井県越前大野岡山県備中松山と並んで「天空」の風景が撮れるとして名高く、特定の気条件がそろうと朝霧に覆われた八幡山の頂上から顔を出す郡上八幡城の風景が鑑賞できる。下記のツイート写真中から撮した画像だが、地上から撮する場合は国道256号が通る堀越から撮できる。なお、堀越周辺は狭小路かつ急勾配の高低差を登るため、道路つづら折りになっている。(いわゆる酷道ポイントの区間である。)
通行する内からはかなり見通しが悪くなっており、事故が起きやすいため、路上に駐停をして撮したり、道路上に三脚を立てての撮は厳禁であるなお、この警告喚起は郡上八幡城の公式サイトからも通達されている[4]


へはか徒歩で行くことができ、徒歩ではが通ることができる現のほかに、江戸時代の頃に整備された登山古道を通行することが出来る。残念ながら現を整備する際に西側の古道は破壊されてしまったものの、ほかの東南北面から伸びる古道現在でも通行することが出来る。[5]

2019年(平成31年)3月23日に放送されたテレビ朝日系列の特別番組「お好き1万人がガチ投票!お総選挙」では、約4000件の跡の中から見事18位にランクインした。これに対しておよしちゃんも喜びのツイートを掲載している。

構造パラメータ[6]

建築構造 4層5階建 木造建築 創始年 1559年(永2年)
区分 (模擬守) 創建年 1566年(永9年)
規模 面積 守】118.98
【附櫓】22.09
再建年 1933年(昭和3年)
面積 守】309.11
【附櫓】22.09
創始者 遠藤盛数
創建者 遠藤
高さ 守】17.18m
【附櫓】3.72m
その他ゆかりの人物 千代(山内一豊の妻)
霜隊

歴代城主・郡上藩主一覧[7]


代数

代数

(ふりがな)
在任期間(在年年号)
※上段が就任年
 下段が退任年
在任
年数
石高 備考
- 遠藤盛数
(えんどうもりかず)
1559年(永2年)
1562年(永5年)
3年 - 創始者
(初祖)
初代 遠藤
(えんどうよしたか)
1566年(永9年)
1588年(正16年)
22年 - 創建者
2代 稲葉貞通
(いなばさだみち)
1588年(正16年)
1600年(慶長5年)
12年 4万石 関ヶ原の戦い後、豊後臼杵に移封
3代 初代 遠藤
(えんどうよしたか)
1600年(慶長5年)
1632年(寛永9年)
32年 2万7千石
4代 2代 遠藤慶利
(えんどうよしとし)
1632年(寛永9年)
1646年(正保3年)
14年 2万7千石
5代 3代 遠藤常友
(えんどうつねとも)
1646年(正保3年)
1676年(延宝4年)
30年 2万7千石 らに3千石分知
6代 4代 遠藤
(えんどうつねはる)
1676年(延宝4年)
1689年(元2年)
13年 2万7千石
7代 5代 遠藤常久
(えんどうつねひさ)
1689年(元2年)
1692年(元5年)
3年 2万7千石 7歳で死去(遠藤滅亡する)
死去後、所領収→近江三上へ転封
8代 6代 井上正任
(いのうえまさとう)
1692年(元5年)
1993年(元6年)
1年 5万石 常陸間より入部
9代 7代 井上正岑
(いのうえまさみね)
1693年(元6年)
1697年(元10年)
4年 5万石 に和良3千石を分知
丹波亀山に移封
10代 8代 金森頼峕
(かなもりよりとき)
1697年(元10年)
1736年(元文1年)
39年 3万9千石 出羽上山より入部
11代 9代 金森頼錦
(かなもりよりかね)
1736年(元文1年)
1758年(宝8年)
22年 3万9千石 騒動(郡上)により改易
12代 10代 青山
(あおやまよしみち)
1758年(宝8年)
1775年(安永4年)
17年 4万8千石 丹波宮津より入部
13代 11代 青山
(あおやまよしさだ)
1775年(安永4年)
1791年(寛政3年)
16年 4万8千石
14代 12代 青山幸孝
(あおやまゆきたか)
1791年(寛政3年)
1815年(文化12年)
24年 4万8千石
15代 13代 青山幸寛
(あおやまゆきひろ)
1816年(文化12年)
1832年(保3年)
16年 4万8千石
16代 14代 青山幸礼
(あおやまゆきのり)
1832年(保3年)
1838年(保9年)
6年 4万8千石
17代 15代 青山幸哉
(あおやまゆきしげ)
1838年(保9年)
1863年(文久3年)
25年 4万8千石
18代 16代 青山幸宜
(あおやまゆきよし)
1863年(文久3年)
1869年(明治2年)
6年 4万8千石 版籍奉還後、郡上知事に就任
置県後は東京へ出立

歴史[8]

室町・戦国時代①~郡上東氏の支配

郡上八幡城の創建は室町時代末期、および戦国時代にまで遡る。当時、郡上一帯を支配していたのは鎌倉時代地頭を請け負っていた東胤行(とうのたねゆき)から流れをくむ郡上東氏。1541年(文10年)、当時の篠(現在の旧大和町にあった)当だった東常慶(とうのつねよし)は、福井越前一帯を支配していた朝倉氏の郡上攻めを撃退。これを機に、郡上八幡城の向かいにある山の山頂に東殿(別名:)を築き、本拠地の篠から移転した。その後、詳しい時期は不明だが、東氏一族の流れをくむ遠藤盛数(えんどうもりかず)と自身のを政略結婚させた。

室町・戦国時代②~東氏と遠藤氏が対立、暗殺事件から赤谷山城の戦いへ

1550年(文19年)、盛数の子遠藤(えんどうよしたか)が生まれる。1557年(治3年)、のちに山内一豊の妻となる千代が生まれる。

1559年(永2年)、東氏にとって大きなターニングポイントとなる事件が起こる。常慶は、盛数のであった遠藤胤縁(えんどうたねより)の息子の東常堯(とうのつねたか)とも政略結婚させることを論むが、素行が悪く荒くれものであったことを理由に拒否。代わりに六郎衛門という別の男性結婚させた。それを恨んだ常堯は、東殿で開催された八朔の祝いの席の時に、臣に命じて胤縁を暗殺。これを聞いた盛数は、の弔い合戦を大義名分に郡上内で味方してくれる諸将を募り、挙兵。息子である遠藤胤俊(えんどうたねとし)も加わり、東殿向かいに位置する八幡山山頂に布。常慶と常尭を相手に「の戦い」を起こす。これにより、事実上の内乱騒動へと発展した。

戦は、盛数側が勝利し、東殿は落。常慶も戦死した。息子の常尭は落ち延びることに成功したが、潜先の帰天正大地震に遭い、の崩壊に巻き込まれた。これによって約340年続いた東氏は滅亡することとなった。

一方、勝利した盛数は、郡上領土を胤俊と折半して領有。のちに「郡上の両遠藤」と呼ばれるようになった。

安土桃山時代①~盛数から慶隆へ、胤俊との一時対立から郡上八幡城創建へ

1562年(永5年)、盛数死去により、当時13歳であった息子の慶が当となる。しかしこれを良しとしなかった胤俊が、慶へ反旗を翻す。これを聞いた慶は対応すべく、後見人であった長井道利の協力を得て退けた。敗戦した胤俊は、居であった木越遠藤胤基(えんどうたねもと)に譲ると、宗のそばで隠居した。(同時に慶に恭順の意を示した。)

1566年(永9年)、郡上統一を成し遂げた慶は、八幡山頂上に山、ふもとに下町を建設することに着手した。これがのちの郡上八幡城の創建である。その傍らで、織田信長の配下につき、の戦いなどで戦功をあげた。

しかし、1566年(正10年)の本能寺の変信長が倒され、豊臣秀吉下を取ると、織田信孝配下だったことから疎まれ、賀茂小原(現在岐阜県白川町)に転封されてしまう。そして、郡上八幡城には稲葉一鉄(いなばいってつ)の子である稲葉貞通(いなばさだみち)が4万石で入部した。貞通は、の改修を大々的に行い、石垣を高くしたり、守台の設置をし、本格的な山として大改造を施した。

安土桃山時代②~郡上奪回へ・・・郡上八幡城の戦いと関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)9月1日遠藤徳川家康に願い出て、飛騨の金森可重(かなもりありしげ)の援軍を受け、稲葉氏相手に「郡上八幡城の戦い」を起こした。慶大宮山王(現在郡上市日吉神社)にを敷いた。援軍の可重は小野山にを敷き、慶と協力して郡上八幡城を挟み込みながら両面から攻撃を展開した。戦は熾を増し、2日たっても勝敗は決まらなかった。同日、稲葉氏側を揮していた稲葉孝(いなばみちたか)は、慶に和を申し出た。これを受け、慶(現在愛宕公園)にを移した。一方、稲葉氏当の貞通は犬山城に滞在していたが、郡上八幡城の戦いの一報を聞きつけると急遽兵をまとめて出。3日、にいた慶を奇襲。慶小野山の可重本まで敗走し、難を逃れた。4日、貞通は可重のに使者を派遣し、和を申し出た。慶・可重両軍は受諾し、和議が成立。4日間にわたる郡上八幡城の戦いは終了した。

同年10月21日下分けの戦いで知られる関ヶ原の戦いが開戦。慶は東軍(徳方)として参戦。勝利し、恩賞として郡上八幡城として2万7000石で復帰。稲葉氏からの奪回を果たした。一方、西軍(石田方)として参戦した稲葉貞通は、豊後(現在大分県)臼杵へ5万石で転封となった。

1601年(慶長6年)、郡上八幡城の戦いで荒したを、慶は約3年の日をかけて大改修を施した。その際、本丸を「の丸」、「の丸」の2つの曲輪に分けた。なお、このころに「およし伝説」と「力石伝説」が生まれたとされる。

江戸時代~慶隆初代郡上藩主任命へ、そして受け継がれる4氏16代の藩主

1603年(慶長8年)、江戸幕府が成立すると慶は初代郡上に任命された。慶は、まず下町の整備に力を入れ、神社の建立や寺院の開基に尽力した。[9]一方で士農工商それぞれの領民の融和を図るため、バラバラに開催されていた踊り祭り祭り下に集めて一緒に踊ることを奨励した。これがのちの日本三大盆踊りの一である「郡上おどり」の原となった。[10]この郡上踊り現在でも行われ、深夜未明まで踊り明かす郡上の一大祭りとなっている。

1652年(承応1年)、承応の大火が発生。は焼失を免れるものの、下町のほぼ全てが火のとなり、焼失してしまう。[11]

1667年(寛文7年)、慶の孫である三代目遠藤常友(えんどうつねとも)は幕府の許可を受けてを再改修。並びに下町の整備も行った。この時に寺院下に集め、1652年に発生した承応の大火を教訓に火災に強い下町整備を推進し、用水路網の整備など現在郡上八幡並みに直結する「下町」を建設した。これらの業績が評価され、「格」から「」の称を許された。また、この並みがのちに美濃の「小京都」と呼ばれるようになった。

1692年(元5年)、五代遠藤常久(えんどうつねひさ)がわずか7歳の若さで亡くなり、遠藤氏宗が途絶える。これにより、幕府は遠藤氏の所領を収。その後、近江三上(現在滋賀県)へ転封された。代わって同年11月常陸(現在茨城県)井上正任(いのうえまさとう)が、郡上越前大野5万石で入部した。しかし、次代である井上正岑(いのうえまさみね)が1697年(元10年)6月に丹波(現在京都府)亀山へ転封。代わって出羽上山金森頼峕(かなもりよりとき)が3万9000石で入部した。

1736年(元文元年)、頼峕が死去し、孫の金森頼錦(かなもりよりかね)が九代となる。頼錦は、学識や文芸に長けていた人物で、天文学にも精通していた。当時の将軍であった徳川吉宗の命により、文観測も行っていた。晩年には幕府の奏者役を務めた。しかし、これによる出費が重なり、年貢増徴策を打ち出すが、1754年(宝4年)に「騒動」(別名:郡上)を起こしてしまう。結果、頼錦は責任を問われ、改易されてしまうこととなった。

1758年(宝8年)、丹波宮津 青山(あおやまよしみち)が郡上4万8000石に封ぜられ、以後、明治維新までは、青山氏が7代111年間統治することとなる。

ちなみにこの青山氏は、江戸幕府成立時から代々幕府の要職を務め、当7代青山(あおやまただとも)から丹波篠山に入部していた青山氏宗から流れを組む支族である。また、東京(当時は江戸)には青山氏の下屋敷があり、これがあったことから町名や通り名がそのまま東京青山(青山通り)になったという逸話で有名な氏族でもある。[12][13][14]

江戸時代末期・明治時代~凌霜隊の活躍、明治維新へ

1868年(慶応4年)年、旧幕府軍と明治政府軍が対立した戊辰戦争が勃発。郡上八幡では郡上士を中心とした「霜隊」を結成。他からの部隊と合流し、小山宿(現在栃木県小山市)や宇都宮で、新政府軍と対峙した。その後、会津に入り新政府軍と戦い続けるも、会津が降したことに伴い敗北した。

戊辰戦争後、明治維新を迎えると、版籍奉還政策により十六代青山幸宜(あおやまゆきよし)は版籍を朝廷に返還。その後、郡上知事となった。これでとしては16代、としては18代続いた郡上八幡城の当はここでついえることとなる。

1870年(明治3年)5月、「郡上城撤去伺」が出され、7月より一ノ門から取り壊しが始まる。

1871年(明治4年)、置県政策より郡上となり、郡上県が置かれる。9月には青山幸宜が東京へ出立し、となった。

1872年(明治5年)、郡上県は岐阜県に編入される。

昭和・平成時代~一念発起の郡上八幡城再建、そして現在へ・・・

1933年(昭和8年)10月、当時の八幡町長である仲上忠の決断のもと、郡上八幡城の再建に着手。同じ岐阜県にあり宝に定されている大垣を参考に、守閣、隅櫓、高塀を再建した。並びに再建中に力石伝説力石が発見される。

1955年(昭和30年)8月岐阜県史跡定される。

1969年(昭和44年)9月9日岐阜県中部地震(美濃中部地震)発生。一部石垣崩落、にヒビが入るなどの被害が出る。[15]

1982年(昭和57年)11月、郡上八幡城の石垣を大改修。

1983年(昭和58年)、郡上八幡城再建50周年。

1987年(昭和62年)2月郡上八幡史跡保存会が発足する。6月にはの改修に着手し、翌年7月工する。9月には守の部分が八幡町重要有形文化財にされる。

1990年(平成2年)6月、高塀、隅櫓の改修に着手。翌年5月工する。

1991年(平成3年)4月、郡上八幡城の門の取付工事が着工。翌完成する。

2004年(平成4年)3月1日八幡町郡上6町(白鳥町高鷲村美並村明宝村大和町和良村)と合併し、郡上市となる。これに伴い、郡上八幡城守は郡上市重要有形文化財として再される。

2009年(平成18年)、郡上八幡城が築450年を迎える。

2016年(平成28年)4月御朱印の発行を開始する。

2017年(平成29年)4月続日本100名城に選定される。

郡上八幡城にまつわる伝説

郡上八幡城で言い伝えられている伝説がいくつかあり、上述のように遺構も残っている。

およし伝説(人柱およしの物語)

およし伝説の逸話には、いくつか諸説あるが、郡上八幡城公式サイト掲載の説明ではこう書かれている。

青山羽生某の三女として生まれた羽生(後に山川) 某女の伝えとして次のような話がある。

「私の郡上青山の分青山某の二女で羽生いだものである。このから子供時代の話に大和牧(妙見)の羽生に、当時一等の美人といわれたおよしというがおった。このが選ばれて八幡を築く際に人柱として生き埋めにされたという話が残っている。八幡本丸跡の石段の下でオヨシオヨシと言って手をくと泣くようながするといわれ、私たちも子供の時、手をいたことがある。」

こんな話がもとで「およし物語」が作られた。現在でも八幡守閣前には「およし観音」があり、およしの霊がられている。

力石伝説(赤髭作兵衛の力石)

こちらでも諸説存在するが、郡上八幡城発行の観光パンレットによると、

の改修の際、郡上各地から人夫が駆り出された。その中で、ひときわ剛腕で知られ、通称と呼ばれていた(現在郡上市大和町)の作兵衛がいた。作兵衛は、約350kgもの大石を背負いあげて運んでいると、それを見た普請奉行(土木やなどをる役人)が、その力量を褒め讃えた。すると、作兵衛は感のあまり卒倒してその場で息絶えてしまった。憐れんだ奉行はこの石の使用を禁じた。

と掲載されている。なお、この力石現実に存在しており昭和8年再建の際、放置されていた状態で発見された。その後、内に安置されている。

首洗いの井戸(血の井戸)

の丸北側、現在のお駐車場がある場所にあった井戸駐車場ができる以前はや雑木の生い茂った湿地帯で、北方尾根を切断する巨大な掘り切りの跡であった。この場所に一基の浅井戸があり、現在も遺構として存在している。この井戸では、上述の郡上八幡城の戦いで戦死した武士の首を洗い清め、首実検にしたとされる。この説の偽は不明であるが、言い伝えとして残っている。[16]

入城案内

休館日・開城時間

内受付】

【受付横売店】

  • 不定休(天時休業あり)
  • 期の内休館期間中は定休として休業する

入場料

通常入場

共通セット】 ※個人・団体共通価格

アクセス

郡上八幡城で開催される祭り・イベント

郡上八幡城新緑まつり

毎年5月[17]に開催。ほぼ1ヶに及ぶイベントで、週末を中心に守閣を背景和太鼓演奏が行われる。

郡上八幡城下町花火大会

毎年8月初旬頃[18]に開催。夜空に浮かぶ大輪と郡上八幡城との見事な競演が鑑賞できる。全的にもしく、山に打ち上がる花火大会となっており、郡上ならではの夏の風物詩である。(※「郡上八幡城下町花火大会」の記事もあわせて参照のこと)

郡上八幡城下町もみじまつり

毎年11月[19]に開催。新まつりと同じく、こちらもほぼ一ヶに及ぶイベントで、週末を中心に和太鼓演奏火縄銃の演武の催しが行われる。紅葉最盛期の11月中旬には、ライトアップが開催され、夜空に映る炎上天守の姿が鑑賞できる。

郡上八幡城にゆかりのあるキャラクター

郡上八幡城およしちゃんプロジェクトプロデュースする萌えキャラで、およし伝説に登場する「およし」をモチーフとしたキャラクターである。々とした緑髪もみじ髪留めピンクの帯締めがアクセントの着物が特徴的な少女で、人柱として郡上八幡城を護って400年の17歳(400年なのに17さ…うわなにをやめふgk)

2016年3月からTwitterアカウントを開設し、郡上八幡城や郡上八幡についての情報世界中に発信している。なお、郡上八幡城の公式キャラクターではなく、認も貰っていない模様。

人柱を担っているため、おを中心として900m以内までしか内を移動することができない。[20]

の護り神的存在であるが、神様的な力は意外にも持ち合わせていない模様。ただ、毎年紅葉シーズンになると、およしちゃんの身に何かが起こるようだ。exit

2018年8月6日2018年12月31日には、FM GIFUで自身初の冠ラジオ番組である「およしちゃんのバンめしおくれんかな?」を放送。バンめし♪で登場するBlancBunnyBanditメンバーたちと、八町(郡上八幡)ゆかりのごちそうを紹介した。

郡上八幡城では、頂上のお入口受付のすぐ横にある売店で、およしちゃんの関連グッズが現地販売限定で売られている。バッジクリアファイルキーホルダーマグネットTシャツなどがあるので気になる人は現地まで足を運んでみよう。(なお、荒天時は売店が臨時休業するため要注意である。)

また、LINEではLINE STOREのクリエイタースタンプコーナーにて、オリジナルLINEスタンプも販売されている。(詳細は下記ツイートから)


郡上八幡一帯を舞台とした地方漫画、「GJ8マン」に登場する主人公キャラクターデザインさくらももこが手掛けた。

さくらももこといえば、漫画アニメちびまる子ちゃん」の作者及び主人公モデルとして全的に知られている漫画作家であるが、実はこの郡上八幡が大好きであることを語っており、たびたび訪れたりしている。GJ8マン公式サイトによると、郡上八幡についてさくらももこ氏は次のように語っている。

岐阜県郡上八幡という小さな町がある。
私はこの町が大好きだ観光地としては地味なほうかもしれない。何か歴史的な建造物色などがたくさんあるわけではない。 町のをきれいなが流れ、町中をきれいなが走り、町のいたる所できれいなが飲めるように飲み場がある。郡上八幡自慢なのだ。オオサンショウウオも住んでいるほどそのはキレイだ。
当然アユもいる。ウナギもおいしい。山の上には郡上八幡城が見え、このしみじみとした町並みは下町のせいなんだなと改めて思う。 郡上八幡は、ちょっと観光地だけどみんな別に観光客を期待せずに日常生活を送っている。そこに美しい自然や町並みがあってもそれが普通なのだ。そんな感じが好きな人にはたまらなく良いと思わせる町だ。もちろん、私もたまらなく良いと思っている。
には『郡上八幡まつり』というかなりストレートな名称の祭りがあり、桜の頃の町がざわめく。には『郡上おどり』という祭りが何日間も行われ、町はひとつのウェーブとなり力強い盛り上がりを見せる。は吸い込まれそうな青空紅葉の中に身を置き幸せを感じ、真白を見ながらししを食べる。この町を嫌いだと言う方が難しい。謙遜しても『日本によくある普通下町だけど私は好き』と言うのが精一杯だ。
このように一方的郡上八幡愛し頼まれてもいないのに勝手にキャラまで考えてみた

(GJ8マン公式サイト「GJ8マンとは?」掲載ページexitより)

このようにして、「GJ8マン」は誕生したのであった。

GJ8マンは、もともとはゴローという郡上八幡に住むごく普通男子学生であり、助けをめるが彼に届いた時、変身してGJ8マンになる。武器は、水筒に入っている郡上八幡であり、これをかけて攻撃する。[21]

ニコニコでは、2016年10月8日からニコニコチャンネル上にアニメ無料開されている。この郡上八幡城も、たびたび背景などに登場している。気になった人は、下記関連動画や関連チャンネルからチェックしてみてほしい。

郡上八幡城が舞台・または登場する作品

2018年4月から始動したWeb連動企画コンテンツTOMOSUKEが監修し、CUTEG作画を務める。この2人は鳥取県倉吉市舞台にしたWeb連動コンテンツひなビタ♪」、「ここなつ」の作者としても知られ、現在でも根強い人気を集めている。

そして、このバンめし♪では2人が2018年4月から新しくスタートしたコンテンツであり、アメブロの公式アカウントにて物語が進行している。

舞台中部地方の山間部に位置する八町。町の老舗料亭「つゆり」のである栗花落夜風は、今日も溜息をついていた。
この町はまるで地獄だ。町が意思を持っているかのように伝統という名のもと人々を町の中に縛りつけている。
この停滞した空気をいつか切り裂いていた色が見たい。
そう思いギターの弦を掻き鳴らす―ーー。
「このギターを弾いている時だけ空気の変化を感じられる、鼓動を、生を感じられる」

町の老舗旅館「八館」の吉廻千代はいつも疑問に思っていた。
突如として現れた白兎先生と名乗る女性
旅館の賓室に逗留しはじめたあの女性はいったい何者なのか。
なぜ、私に記録をつけろと言ったのだろうか。
私は皆の期待に応え、立な女将にならなければならない。
その言葉を胸の内に繰り返すーーー。

そして、ドラマチック物語(脱出劇)は、幕を開けた。

(バンめし♪公式サイトイントロダクションexitより)


さくらももこが手掛ける地方漫画、およびアニメ作品。郡上八幡舞台に、男子学生ゴローGJ8マン変身して悪を成敗していくズッコケヒーローアニメキャラクターについては上述参照。毎8日に公式サイトにて、アニメ最新回が開されている。

郡上八幡城を特集、紹介したテレビ番組

※全放送の番組のみとする(なお、テレビ東京系列は含める)

関連動画

関連チャンネル

関連コミュニティ

関連項目

外部リンク

脚注

  1. *岐阜県:八幡城跡 (岐阜県公式ホームページ)exit
  2. *堀越峠からの郡上八幡城歴訪 (郡上八幡観光協会サイト)exit
  3. *郡上八幡城 (郡上市観光連盟公式サイト)exit
  4. *堀越峠からの郡上八幡城撮影に関する重要なお願い (郡上八幡城公式サイト)exit
  5. *2と同上
  6. *郡上八幡城公式パンフレットより出典exit
  7. *郡上八幡城公式パンフレットより出典exit
  8. *7と同上
  9. *2と同上
  10. *郡上おどり大百科exit2ページ (郡上おどり保存会)
  11. *2と同上
  12. *青山氏 (郡上八幡城公式サイト)exit
  13. *北青山 (東京都港区公式サイト)exit
  14. *南青山 (東京都港区公式サイト)exit
  15. *岐阜県:美濃中部地震 (岐阜県公式サイト)exit
  16. *2と同上
  17. *郡上八幡城イベントカレンダーより出典exit
  18. *17と同上
  19. *17と同上
  20. *およしちゃんのツイートよりexit
  21. *キャラクター紹介 (GJ8マン公式サイト)exit
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郡上八幡城

1 初版の人
2019/03/01(金) 20:02:15 ID: eGRndIBTBZ
見出し変えてみました。積翠城なので、色をチョイスしてみました
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2 ななしのよっしん
2019/03/12(火) 18:59:39 ID: EpiEWK/x5c
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3 ななしのよっしん
2019/03/13(水) 11:26:15 ID: eGRndIBTBZ
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