この記事は第560回の今週のオススメ記事に選ばれました! よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。 |
郡上八幡城とは、岐阜県郡上市にある城である。岐阜県史跡、郡上市重要有形文化財、続日本100名城指定城郭の一つ。
概要
特徴
郡上市旧八幡町、いわゆる郡上八幡と呼ばれる地区に建てられたお城で、八幡山と呼ばれる山の頂上に建てられた山城である。
日本最古の木造再建城として知られ、瓦屋根が緑がかっていることから別名「積翠城(せきすいじょう)」と呼ばれる。また、紅葉スポットとしても有名で、紅葉が見頃の時にはまるで紅葉の葉で天守が炎上しているように包み込んで見えることから「炎上天守」、「天守炎上の城」と例えられることが多い。紅葉以外にも、春はふもとの桜と新緑のもみじの中に立つ天守の姿が鑑賞できたり、雪が積もった際は城山とともに白銀に雪化粧した姿を見せたりなど、春夏秋冬ごとに様々な顔を見せてくれる景勝地として名高い。(下記ツイートで、郡上八幡城観光キャラクターのおよしちゃんがその様子をTwitterに投稿している。)
また、城入り口の高台や天守からは郡上八幡の街を一望することができる。
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お城は再建された天守、附櫓以外にも石垣が現存遺構として残っており、それらは「八幡城跡」という名目で岐阜県史跡に指定されている。[1]この石垣は、「野面積み」と呼ばれる戦国時代では一般的だった工法で積まれており、戦国時代の荒々しい印象を与える外観となっている。[2]さらに天守の部分は郡上市重要有形文化財に指定されている。[3]また、城内にはおよし伝説で登場し、人柱となった女性「およし」を祀ったおよし塚、奥の院がある。また、山内一豊の妻、千代ゆかりの地としても知られ、山の中腹にある城山公園には、山内一豊と千代の銅像が建てられている。
奥の院 |
およし塚 |
天守から郡上八幡の街並みを望む |
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これ以外にも、兵庫県の竹田城、福井県の越前大野城、岡山県の備中松山城と並んで「天空の城」の風景が撮れる城として名高く、特定の気象条件がそろうと朝霧に覆われた八幡山の頂上から顔を出す郡上八幡城の風景が鑑賞できる。下記のツイート写真は空中から撮影した画像だが、地上から撮影する場合は国道256号が通る堀越峠から撮影できる。なお、堀越峠周辺は狭小路かつ急勾配の高低差を登るため、道路がつづら折りになっている。(いわゆる酷道ポイントの区間である。)
通行する車内からはかなり見通しが悪くなっており、事故が起きやすいため、路上に駐停車をして撮影したり、道路上に三脚を立てての撮影は厳禁である。なお、この警告喚起は郡上八幡城の公式サイトからも通達されている。[4]
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お城へは車か徒歩で行くことができ、徒歩では車が通ることができる現道のほかに、江戸時代の頃に整備された登山古道を通行することが出来る。残念ながら現道を整備する際に西側の古道は破壊されてしまったものの、ほかの東南北面から伸びる古道は現在でも通行することが出来る。[5]
2019年(平成31年)3月23日に放送されたテレビ朝日系列の特別番組「お城好き1万人がガチで投票!お城総選挙」では、約4000件の城郭・城跡の中から見事18位にランクインした。これに対しておよしちゃんも喜びのツイートを掲載している。
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構造パラメータ[6]
建築構造 | 4層5階建 木造建築 | 創始年 | 1559年(永禄2年) | |
城区分 | 山城 (模擬天守) | 創建年 | 1566年(永禄9年) | |
規模 | 建面積 | 【天守】118.98㎡ 【附櫓】22.09㎡ |
再建年 | 1933年(昭和3年) |
延面積 | 【天守】309.11㎡ 【附櫓】22.09㎡ |
創始者 | 遠藤盛数 | |
創建者 | 遠藤慶隆 | |||
高さ | 【天守】17.18m 【附櫓】3.72m |
その他ゆかりの人物 | 千代(山内一豊の妻) 凌霜隊 |
歴代城主・郡上藩主一覧[7]
城主 代数 |
藩主 代数 |
城主名 (ふりがな) |
在任期間(在年年号) ※上段が就任年 下段が退任年 |
在任 年数 |
石高 | 備考 |
- | 遠藤盛数 (えんどうもりかず) |
1559年(永禄2年) 1562年(永禄5年) |
3年 | - | 創始者 (初祖) |
|
初代 | 遠藤慶隆 (えんどうよしたか) |
1566年(永禄9年) 1588年(天正16年) |
22年 | - | 創建者 | |
2代 | 稲葉貞通 (いなばさだみち) |
1588年(天正16年) 1600年(慶長5年) |
12年 | 4万石 | 関ヶ原の戦い後、豊後国臼杵に移封 | |
3代 | 初代 | 遠藤慶隆 (えんどうよしたか) |
1600年(慶長5年) 1632年(寛永9年) |
32年 | 2万7千石 | |
4代 | 2代 | 遠藤慶利 (えんどうよしとし) |
1632年(寛永9年) 1646年(正保3年) |
14年 | 2万7千石 | |
5代 | 3代 | 遠藤常友 (えんどうつねとも) |
1646年(正保3年) 1676年(延宝4年) |
30年 | 2万7千石 | 弟らに3千石分知 |
6代 | 4代 | 遠藤常春 (えんどうつねはる) |
1676年(延宝4年) 1689年(元禄2年) |
13年 | 2万7千石 | |
7代 | 5代 | 遠藤常久 (えんどうつねひさ) |
1689年(元禄2年) 1692年(元禄5年) |
3年 | 2万7千石 | 7歳で死去(遠藤宗家滅亡する) 死去後、所領没収→近江国三上へ転封 |
8代 | 6代 | 井上正任 (いのうえまさとう) |
1692年(元禄5年) 1993年(元禄6年) |
1年 | 5万石 | 常陸国笠間より入部 |
9代 | 7代 | 井上正岑 (いのうえまさみね) |
1693年(元禄6年) 1697年(元禄10年) |
4年 | 5万石 | 弟に和良3千石を分知 丹波国亀山に移封 |
10代 | 8代 | 金森頼峕 (かなもりよりとき) |
1697年(元禄10年) 1736年(元文1年) |
39年 | 3万9千石 | 出羽国上山より入部 |
11代 | 9代 | 金森頼錦 (かなもりよりかね) |
1736年(元文1年) 1758年(宝暦8年) |
22年 | 3万9千石 | 宝暦騒動(郡上一揆)により改易 |
12代 | 10代 | 青山幸道 (あおやまよしみち) |
1758年(宝暦8年) 1775年(安永4年) |
17年 | 4万8千石 | 丹波国宮津より入部 |
13代 | 11代 | 青山幸完 (あおやまよしさだ) |
1775年(安永4年) 1791年(寛政3年) |
16年 | 4万8千石 | |
14代 | 12代 | 青山幸孝 (あおやまゆきたか) |
1791年(寛政3年) 1815年(文化12年) |
24年 | 4万8千石 | |
15代 | 13代 | 青山幸寛 (あおやまゆきひろ) |
1816年(文化12年) 1832年(天保3年) |
16年 | 4万8千石 | |
16代 | 14代 | 青山幸礼 (あおやまゆきのり) |
1832年(天保3年) 1838年(天保9年) |
6年 | 4万8千石 | |
17代 | 15代 | 青山幸哉 (あおやまゆきしげ) |
1838年(天保9年) 1863年(文久3年) |
25年 | 4万8千石 | |
18代 | 16代 | 青山幸宜 (あおやまゆきよし) |
1863年(文久3年) 1869年(明治2年) |
6年 | 4万8千石 | 版籍奉還後、郡上藩知事に就任 廃藩置県後は東京へ出立 |
歴史[8]
室町・戦国時代①~郡上東氏の支配
郡上八幡城の創建は室町時代末期、および戦国時代にまで遡る。当時、郡上一帯を支配していたのは鎌倉時代に地頭を請け負っていた東胤行(とうのたねゆき)から流れをくむ郡上東氏。1541年(天文10年)、当時の篠脇城(現在の旧大和町にあった城)当主だった東常慶(とうのつねよし)は、福井越前一帯を支配していた朝倉氏の郡上攻めを撃退。これを機に、郡上八幡城の真向かいにある赤谷山の山頂に東殿山城(別名:赤谷山城)を築き、本拠地の篠脇城から移転した。その後、詳しい時期は不明だが、東氏一族の流れをくむ遠藤盛数(えんどうもりかず)と自身の娘を政略結婚させた。
室町・戦国時代②~東氏と遠藤氏が対立、暗殺事件から赤谷山城の戦いへ
1550年(天文19年)、盛数の子、遠藤慶隆(えんどうよしたか)が生まれる。1557年(弘治3年)、のちに山内一豊の妻となる娘、千代が生まれる。
1559年(永禄2年)、東氏にとって大きなターニングポイントとなる事件が起こる。常慶は、盛数の兄であった遠藤胤縁(えんどうたねより)の娘と息子の東常堯(とうのつねたか)とも政略結婚させることを目論むが、素行が悪く荒くれものであったことを理由に拒否。代わりに畑佐六郎右衛門という別の男性と結婚させた。それを恨んだ常堯は、東殿山城で開催された八朔の祝いの席の時に、家臣に命じて胤縁を暗殺。これを聞いた盛数は、兄の弔い合戦を大義名分に郡上国内で味方してくれる諸将を募り、挙兵。兄の息子である遠藤胤俊(えんどうたねとし)も加わり、東殿山城の真向かいに位置する八幡山山頂に布陣。常慶と常尭を相手に「赤谷山城の戦い」を起こす。これにより、事実上の内乱騒動へと発展した。
戦は、盛数側が勝利し、東殿山城は落城。常慶も戦死した。息子の常尭は落ち延びることに成功したが、潜伏先の帰雲城で天正大地震に遭い、城の崩壊に巻き込まれた。これによって約340年続いた東氏は滅亡することとなった。
一方、勝利した盛数は、郡上国領土を胤俊と折半して領有。のちに「郡上の両遠藤」と呼ばれるようになった。
安土桃山時代①~盛数から慶隆へ、胤俊との一時対立から郡上八幡城創建へ
1562年(永禄5年)、盛数死去により、当時13歳であった息子の慶隆が当主となる。しかしこれを良しとしなかった胤俊が、慶隆へ反旗を翻す。これを聞いた慶隆は対応すべく、後見人であった長井道利の協力を得て退けた。敗戦した胤俊は、居城であった木越城を弟の遠藤胤基(えんどうたねもと)に譲ると、宗祇水のそばで隠居した。(同時に慶隆に恭順の意を示した。)
1566年(永禄9年)、郡上統一を成し遂げた慶隆は、八幡山頂上に山城、ふもとに城下町を建設することに着手した。これがのちの郡上八幡城の創建である。その傍らで、織田信長の配下につき、姉川の戦いなどで戦功をあげた。
しかし、1566年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒され、豊臣秀吉が天下を取ると、織田信孝配下だったことから疎まれ、賀茂郡小原(現在の岐阜県白川町)に転封されてしまう。そして、郡上八幡城には稲葉一鉄(いなばいってつ)の子である稲葉貞通(いなばさだみち)が4万石で入部した。貞通は、城の改修を大々的に行い、石垣を高くしたり、天守台の設置をし、本格的な山城として大改造を施した。
安土桃山時代②~郡上奪回へ・・・郡上八幡城の戦いと関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)9月1日、遠藤慶隆は徳川家康に願い出て、飛騨の金森可重(かなもりありしげ)の援軍を受け、稲葉氏相手に「郡上八幡城の戦い」を起こした。慶隆は大宮山王(現在の郡上市日吉神社)に陣を敷いた。援軍の可重は小野滝山に陣を敷き、慶隆と協力して郡上八幡城を挟み込みながら両面から攻撃を展開した。戦は熾烈を増し、2日たっても勝敗は決まらなかった。同日、稲葉氏側を指揮していた稲葉道孝(いなばみちたか)は、慶隆に和睦を申し出た。これを受け、慶隆は赤谷(現在の愛宕公園)に陣を移した。一方、稲葉氏当主の貞通は犬山城に滞在していたが、郡上八幡城の戦いの一報を聞きつけると急遽兵をまとめて出陣。3日、赤谷にいた慶隆本陣を奇襲。慶隆は小野滝山の可重本陣まで敗走し、難を逃れた。4日、貞通は可重の陣に使者を派遣し、和睦を申し出た。慶隆・可重両軍は受諾し、和議が成立。4日間にわたる郡上八幡城の戦いは終了した。
同年10月21日、天下分け目の戦いで知られる関ヶ原の戦いが開戦。慶隆は東軍(徳川方)として参戦。勝利し、恩賞として郡上八幡城主として2万7000石で復帰。稲葉氏からの奪回を果たした。一方、西軍(石田方)として参戦した稲葉貞通は、豊後国(現在の大分県)臼杵へ5万石で転封となった。
1601年(慶長6年)、郡上八幡城の戦いで荒廃した城を、慶隆は約3年の月日をかけて大改修を施した。その際、本丸を「桜の丸」、「松の丸」の2つの曲輪に分けた。なお、このころに「およし伝説」と「力石伝説」が生まれたとされる。
江戸時代~慶隆初代郡上藩主任命へ、そして受け継がれる4氏16代の藩主
1603年(慶長8年)、江戸幕府が成立すると慶隆は初代郡上藩主に任命された。慶隆は、まず城下町の整備に力を入れ、神社の建立や寺院の開基に尽力した。[9]一方で士農工商それぞれの領民の融和を図るため、バラバラに開催されていた踊り祭りを盆祭りの夜に城下に集めて一緒に踊ることを奨励した。これがのちの日本三大盆踊りの一角である「郡上おどり」の原型となった。[10]この郡上踊りは現在でも行われ、深夜未明まで踊り明かす郡上の一大祭りとなっている。
1652年(承応1年)、承応の大火が発生。城は焼失を免れるものの、城下町のほぼ全てが火の海となり、焼失してしまう。[11]
1667年(寛文7年)、慶隆の孫である三代目藩主、遠藤常友(えんどうつねとも)は幕府の許可を受けて城を再改修。並びに城下町の整備も行った。この時に寺院を城下に集め、1652年に発生した承応の大火を教訓に火災に強い城下町整備を推進し、用水路網の整備など現在の郡上八幡の街並みに直結する「水の城下町」を建設した。これらの業績が評価され、「城主格」から「城主」の称を許された。また、この街並みがのちに美濃の「小京都」と呼ばれるようになった。
1692年(元禄5年)、五代目藩主の遠藤常久(えんどうつねひさ)がわずか7歳の若さで亡くなり、遠藤氏宗家が途絶える。これにより、幕府は遠藤氏の所領を没収。その後、近江三上(現在の滋賀県)へ転封された。代わって同年11月に常陸国(現在の茨城県)笠間藩主の井上正任(いのうえまさとう)が、郡上郡・越前大野郡5万石で入部した。しかし、次代である井上正岑(いのうえまさみね)が1697年(元禄10年)6月に丹波国(現在の京都府)亀山藩へ転封。代わって出羽国上山藩主の金森頼峕(かなもりよりとき)が3万9000石で入部した。
1736年(元文元年)、頼峕が死去し、孫の金森頼錦(かなもりよりかね)が九代目藩主となる。頼錦は、学識や文芸に長けていた人物で、天文学にも精通していた。当時の将軍であった徳川吉宗の命により、天文観測も行っていた。晩年には幕府の奏者役を務めた。しかし、これによる出費が重なり、年貢増徴策を打ち出すが、1754年(宝暦4年)に「宝暦騒動」(別名:郡上一揆)を起こしてしまう。結果、頼錦は責任を問われ、改易されてしまうこととなった。
1758年(宝暦8年)、丹波国宮津藩主 青山幸道(あおやまよしみち)が郡上藩4万8000石に封ぜられ、以後、明治維新までは、青山氏が7代111年間統治することとなる。
ちなみにこの青山氏は、江戸幕府成立時から代々幕府の要職を務め、当主7代目青山忠朝(あおやまただとも)から丹波篠山藩に入部していた青山氏宗家から流れを組む支族である。また、東京(当時は江戸)には青山氏の下屋敷があり、これがあったことから町名や通り名がそのまま東京の青山(青山通り)になったという逸話で有名な氏族でもある。[12][13][14]
江戸時代末期・明治時代~凌霜隊の活躍、明治維新へ
1868年(慶応4年)年、旧幕府軍と明治新政府軍が対立した戊辰戦争が勃発。郡上八幡では郡上脱藩士を中心とした「凌霜隊」を結成。他藩からの部隊と合流し、小山宿(現在の栃木県小山市)や宇都宮城で、新政府軍と対峙した。その後、会津藩に入り新政府軍と戦い続けるも、会津藩が降伏したことに伴い敗北した。
戊辰戦争後、明治維新を迎えると、版籍奉還政策により十六代藩主青山幸宜(あおやまゆきよし)は版籍を朝廷に返還。その後、郡上藩知事となった。これで藩主としては16代、城主としては18代続いた郡上八幡城の当主はここでついえることとなる。
1870年(明治3年)5月、「郡上城撤去伺」が出され、7月より一ノ門から取り壊しが始まる。
1871年(明治4年)、廃藩置県政策より郡上藩は廃藩となり、郡上県が置かれる。9月には青山幸宜が東京へ出立し、城は廃城となった。
昭和・平成時代~一念発起の郡上八幡城再建、そして現在へ・・・
1933年(昭和8年)10月、当時の八幡町長である仲上忠平の決断のもと、郡上八幡城の再建に着手。同じ岐阜県にあり国宝に指定されている大垣城を参考に、天守閣、隅櫓、高塀を再建した。並びに再建中に力石伝説の力石が発見される。
1969年(昭和44年)9月9日、岐阜県中部地震(美濃中部地震)発生。一部石垣崩落、城壁にヒビが入るなどの被害が出る。[15]
1987年(昭和62年)2月、郡上八幡史跡保存会が発足する。6月には城郭の改修に着手し、翌年7月に竣工する。9月には天守の部分が八幡町重要有形文化財に指定される。
1990年(平成2年)6月、高塀、隅櫓の改修に着手。翌年5月に竣工する。
1991年(平成3年)4月、郡上八幡城の門扉の取付工事が着工。翌月完成する。
2004年(平成4年)3月1日、八幡町が郡上郡6町村(白鳥町・高鷲村・美並村・明宝村・大和町・和良村)と合併し、郡上市となる。これに伴い、郡上八幡城天守は郡上市重要有形文化財として再指定される。
2009年(平成18年)、郡上八幡城が築城450年を迎える。
2017年(平成29年)4月、続日本100名城に選定される。
郡上八幡城にまつわる伝説
郡上八幡城で言い伝えられている伝説がいくつかあり、上述のように遺構も残っている。
およし伝説(人柱およしの物語)
およし伝説の逸話には、いくつか諸説あるが、郡上八幡城公式サイト掲載の説明ではこう書かれている。
青山藩士羽生某の三女として生まれた羽生(後に山川) 某女の伝えとして次のような話がある。
「私の母は郡上藩士青山家の分家青山某の二女で羽生家へ嫁いだものである。この母から子供時代の話に大和村牧(妙見)の羽生家に、当時一等の美人といわれたおよしという娘がおった。この娘が選ばれて八幡城を築く際に人柱として生き埋めにされたという話が残っている。八幡城本丸跡の石段の下でオヨシオヨシと言って手を叩くと泣くような声がするといわれ、私たちも子供の時、手を叩いたことがある。」
力石伝説(赤髭作兵衛の力石)
こちらでも諸説存在するが、郡上八幡城発行の観光パンフレットによると、
城の改修の際、郡上各地から人夫が駆り出された。その中で、ひときわ剛腕で知られ、通称赤髭と呼ばれていた釼村(現在の郡上市大和町剣)の作兵衛がいた。作兵衛は、約350kgもの大石を背負いあげて運んでいると、それを見た普請奉行(土木や水道などを司る役人)が、その力量を褒め讃えた。すると、作兵衛は感激のあまり卒倒してその場で息絶えてしまった。憐れんだ奉行はこの石の使用を禁じた。
と掲載されている。なお、この力石は現実に存在しており、昭和8年の城再建の際、放置されていた状態で発見された。その後、城内に安置されている。
首洗いの井戸(血の井戸)
松の丸北側、現在のお城の駐車場がある場所にあった井戸。駐車場ができる以前は杉や雑木の生い茂った湿地帯で、北方尾根を切断する巨大な掘り切りの跡であった。この場所に一基の浅井戸があり、現在も遺構として存在している。この井戸では、上述の郡上八幡城の戦いで戦死した武士の首を洗い清め、首実検にしたとされる。この説の真偽は不明であるが、言い伝えとして残っている。[16]
入城案内
休館日・開城時間
【城内受付】
- 開場時間:通常期・・・9:00~17:00、夏期(6月~8月)・・・8:00~18:00、冬期(11月~2月)・・・9:00~16:30
※最終入場:閉館時間より15分前 - 休館日:12月20日~1月10日
【受付横売店】
入場料
【通常入場】
【共通セット券】 ※個人・団体共通価格
アクセス
- 車:東海北陸自動車道郡上八幡ICから7分・・・山頂に無料駐車場あり。ただし、頂上までの道は一方通行ならびにつづら折りの通行困難な狭小路、10%以上の坂道が続くため、通行には要注意。
- 鉄道:長良川鉄道郡上八幡駅下車、タクシーで15分
郡上八幡城で開催される祭り・イベント
郡上八幡城新緑まつり
毎年5月頃[17]に開催。ほぼ1ヶ月に及ぶイベントで、週末を中心に天守閣を背景に和太鼓演奏が行われる。
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郡上八幡城下町花火大会
毎年8月初旬頃[18]に開催。夜空に浮かぶ大輪と郡上八幡城との見事な競演が鑑賞できる。全国的にも珍しく、山城に打ち上がる花火大会となっており、郡上ならではの夏の風物詩である。(※「郡上八幡城下町花火大会」の記事もあわせて参照のこと)
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郡上八幡城下町もみじまつり
毎年11月頃[19]に開催。新緑まつりと同じく、こちらもほぼ一ヶ月に及ぶイベントで、週末を中心に和太鼓演奏や火縄銃の演武の催しが行われる。紅葉最盛期の11月中旬には、夜間ライトアップが開催され、夜空に映る炎上天守の姿が鑑賞できる。
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郡上八幡城にゆかりのあるキャラクター
- およしちゃん - Twitter(@oyoshi_gujo) / CV: 若井友希(ラジオ番組)
郡上八幡城およしちゃんプロジェクトがプロデュースする萌えキャラで、およし伝説に登場する「およし」をモチーフとしたキャラクターである。青々とした緑髪ともみじの髪留めにピンクの帯締めがアクセントの白い着物が特徴的な少女で、人柱として郡上八幡城を護って400年の17歳。(400年なのに17さ…うわなにをやめふgk)
2016年3月からTwitterアカウントを開設し、郡上八幡城や郡上八幡についての情報を世界中に発信している。なお、郡上八幡城の公式キャラクターではなく、公認も貰っていない模様。
お城の人柱を担っているため、お城を中心として900m以内までしか市内を移動することができない。[20]
お城の護り神的存在であるが、神様的な能力は意外にも持ち合わせていない模様。ただ、毎年紅葉シーズンになると、およしちゃんの身に何かが起こるようだ。
2018年8月6日~2018年12月31日には、FM GIFUで自身初の冠ラジオ番組である「およしちゃんのバンめしおくれんかな?」を放送。バンめし♪で登場するBlancBunnyBanditのメンバーたちと、八萬町(郡上八幡)ゆかりのごちそうを紹介した。
郡上八幡城では、頂上のお城入口受付のすぐ横にある売店で、およしちゃんの関連グッズが現地販売限定で売られている。缶バッジやクリアファイル、キーホルダー、マグネット、Tシャツなどがあるので気になる人は現地まで足を運んでみよう。(なお、荒天時は売店が臨時休業するため要注意である。)
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また、LINEではLINE STOREのクリエイターズスタンプコーナーにて、オリジナルのLINEスタンプも販売されている。(詳細は下記ツイートから)
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郡上八幡一帯を舞台とした地方漫画、「GJ8マン」に登場する主人公。キャラクターデザインはさくらももこが手掛けた。
さくらももこといえば、漫画・アニメ「ちびまる子ちゃん」の作者及び主人公のモデルとして全国的に知られている漫画作家であるが、実はこの郡上八幡の街が大好きであることを語っており、たびたび訪れたりしている。GJ8マン公式サイトによると、郡上八幡についてさくらももこ氏は次のように語っている。
岐阜県に郡上八幡という小さな町がある。
私はこの町が大好きだ。観光地としては地味なほうかもしれない。何か歴史的な建造物や景色などがたくさんあるわけではない。 町の脇をきれいな川が流れ、町中をきれいな水が走り、町のいたる所できれいな水が飲めるように水飲み場がある。郡上八幡は水自慢なのだ。オオサンショウウオも住んでいるほどその水はキレイだ。
当然アユもいる。ウナギもおいしい。山の上には郡上八幡城が見え、このしみじみとした町並みは城下町のせいなんだなと改めて思う。 郡上八幡は、ちょっと観光地だけどみんな別に観光客を期待せずに日常生活を送っている。そこに美しい自然や町並みがあってもそれが普通なのだ。そんな感じが好きな人にはたまらなく良いと思わせる町だ。もちろん、私もたまらなく良いと思っている。
春には『郡上八幡春まつり』というかなりストレートな名称の祭りがあり、桜の頃の町がざわめく。夏には『郡上おどり』という祭りが何日間も行われ、町はひとつのウェーブとなり力強い盛り上がりを見せる。秋は吸い込まれそうな青空と紅葉の中に身を置き幸せを感じ、冬は真白い雪を見ながらしし鍋を食べる。この町を嫌いだと言う方が難しい。謙遜しても『日本によくある普通の城下町だけど私は好き』と言うのが精一杯だ。
このように一方的に郡上八幡を愛し、頼まれてもいないのに勝手にキャラまで考えてみた。
このようにして、「GJ8マン」は誕生したのであった。
GJ8マンは、もともとは城ゴローという郡上八幡に住むごく普通の男子学生であり、助けを求める声が彼に届いた時、変身してGJ8マンになる。武器は、水筒に入っている郡上八幡の水であり、これをかけて攻撃する。[21]
ニコニコでは、2016年10月8日からニコニコチャンネル上にアニメが無料で公開されている。この郡上八幡城も、たびたび背景などに登場している。気になった人は、下記関連動画や関連チャンネルからチェックしてみてほしい。
郡上八幡城が舞台・または登場する作品
2018年4月から始動したWeb連動企画コンテンツ。TOMOSUKEが監修し、CUTEGが作画を務める。この2人は鳥取県倉吉市を舞台にしたWeb連動コンテンツ「ひなビタ♪」、「ここなつ」の作者としても知られ、現在でも根強い人気を集めている。
そして、このバンめし♪では2人が2018年4月から新しくスタートしたコンテンツであり、アメブロの公式アカウントにて物語が進行している。
舞台は中部地方の山間部に位置する八萬町。町の老舗料亭「つゆり」の娘である栗花落夜風は、今日も溜息をついていた。
この町はまるで地獄だ。町が意思を持っているかのように伝統という名のもと人々を町の中に縛りつけている。
この停滞した空気をいつか切り裂いて輝いた景色が見たい。
そう思いギターの弦を掻き鳴らす―ーー。
「このギターを弾いている時だけ空気の変化を感じられる、鼓動を、生を感じられる」町の老舗旅館「八萬館」の娘、吉廻千代はいつも疑問に思っていた。
突如として現れた白兎先生と名乗る女性。
旅館の貴賓室に逗留しはじめたあの女性はいったい何者なのか。
なぜ、私に記録をつけろと言ったのだろうか。
私は皆の期待に応え、立派な女将にならなければならない。
その言葉を胸の内に繰り返すーーー。
さくらももこが手掛ける地方漫画、およびアニメ作品。郡上八幡を舞台に、男子学生の城ゴローがGJ8マンに変身して悪を成敗していくズッコケヒーローアニメ。キャラクターについては上述参照。毎月8日に公式サイトにて、アニメ最新回が公開されている。
郡上八幡城を特集、紹介したテレビ番組
- お城好き1万人がガチで投票!お城総選挙 (2019年3月23日放送)
「総選挙シリーズ」でおなじみのテレビ朝日系列の特別番組。上記の通り、全国の城郭約4000件中18位を獲得している。 - 出川哲朗の充電させてもらえませんか? (2019年11月23日(一部地域除く)放送)
毎週土曜日19時54分から放送しているバラエティ旅番組。出川哲朗がゲストとともに充電バイクで全国をアポなし旅で廻る番組で、今回はゲストに熊田曜子を迎えて岐阜を旅した。郡上八幡城は旅のゴール地点として登場した。
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関連動画
関連チャンネル
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関連項目
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外部リンク
脚注
- *岐阜県:八幡城跡 (岐阜県公式ホームページ)
- *堀越峠からの郡上八幡城歴訪 (郡上八幡観光協会サイト)
- *郡上八幡城 (郡上市観光連盟公式サイト)
- *堀越峠からの郡上八幡城撮影に関する重要なお願い (郡上八幡城公式サイト)
- *2と同上
- *郡上八幡城公式パンフレットより出典
- *郡上八幡城公式パンフレットより出典
- *7と同上
- *2と同上
- *郡上おどり大百科2ページ目 (郡上おどり保存会)
- *2と同上
- *青山氏 (郡上八幡城公式サイト)
- *北青山 (東京都港区公式サイト)
- *南青山 (東京都港区公式サイト)
- *岐阜県:美濃中部地震 (岐阜県公式サイト)
- *2と同上
- *郡上八幡城イベントカレンダーより出典
- *17と同上
- *17と同上
- *およしちゃんのツイートより
- *キャラクター紹介 (GJ8マン公式サイト)
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