遺棄とは、置き去りにすることである。
概要
人や物などをある場所に放置することを指す。放棄ともいう。
刑法及び民法に規定されており、それぞれ意味合いや効果が異なる。
遺棄罪
刑法217条から219条にかけて規定されている犯罪で、状況によって適用される条文が異なる。なお、この罪はあくまで犯行時点において生者であることを想定した犯罪で、死体を遺棄した場合はまた別の罪(刑法190条 死体損壊・遺棄罪)が適用される。遺棄罪とは保護法益も主旨も違うのでここでは取り上げない。
遺棄罪の保護法益は、保護すべき弱者(高齢者や乳幼児、身体障害者・傷病人など)の生命と身体の安全とされており(大審院大正4年5月21日判決)、無責任に放置してその人たちの安全を脅かすことの防止を主旨としている。『楢山節考』などにみられる姥捨山のような例が典型例としてあげられるだろう。
遺棄罪の成立において重要なポイントは、ただ自宅や保護施設とは別の場所に放置することを指す移置と、さらに広い意味で、屋外など危険な場所に放置して危険を生じさせる置き去りの2つで、適用される条文によって移置のみを要件にしていたり、置き去りの場合も該当すると判断されることもある。
類型として、遺棄罪(単純遺棄罪)、保護責任者遺棄罪、遺棄致死傷罪が定められている。刑法制定時は親や祖父母などの尊属について加重刑を定めた、尊属遺棄罪が制定されていたが、尊属殺人罪の廃止と共に消滅した。
単純遺棄罪
第217条
老年、幼年、身体障害又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、1年以下の懲役に処する。
刑法より
条文に列挙されている弱者を危険な場所に遺棄した場合に成立する。例えば乳幼児を人気のない山奥や、無人島などに連れていく(移置)だけで成立する。尚、生活能力のない子どもを自宅に放置する[1]だけでも成立することがある。遺棄罪の総称との区別のため、単純遺棄罪ともよばれる。
また、移置が構成要件に含まれているので、道端で倒れている人や、放置子、迷子などで途方にくれている子どもを無視しても、それだけでは成立しない。
とはいえ、この217条は現代ではもはや講学上、便宜的に設置されているに過ぎず、現代で実際に訴追されうるものとしては、次に取り上げる保護責任者遺棄罪が主な罪状として取り上げられている。
保護責任者遺棄罪
第218条
老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、3月以上5年以下の懲役に処する。
刑法より
条文の通り、あげられた弱者を保護する立場にある人間が、その義務を放棄して、遺棄した場合に成立する。業務上横領罪や偽証罪などと同じく(不真正)身分犯に属すると考えられており、その分非難に値すると評価されて量刑が重くなっている。
218条は一見、反対解釈すると、そういう保護行為一般をすることを義務として定めているように見える。しかし、刑法上はあくまで保護すべき状況が発生した時に、刑法上期待されるような必要な保護行為をしなかったことを罰する条文のため、保護行為一般の義務を課したものではないというのが判例の考え方である。(最高裁平成30年3月19日判決)
保護者
この保護する責任のある人間とは、法的な義務のある人間だけでなく、慣習や条理などによって保護するのが妥当だろうと考えられる人全てに該当するというのが伝統的な刑法の見解である。
一番代表的な例として親権者がある。民法上で強い扶養義務(877条)が定められており、教育及び監護権(820条)も設けられているので、法律上、親権者には強い保護義務がある。
親権者以外には医師や介護士にも、診療契約や介護契約を結んでいた場合には、患者に対して保護する義務があると考えられている。
法律でなくても慣習や条理によって保護責任が生じる例としては、酔っぱらいの介抱があげられる。酩酊している人間について家まで送り届ける場合、一度その行為に着手したら、それを完遂するまで保護する義務が発生すると考えられている(最高裁昭和60年12月10日判決)。
この判断の下になった事件では酩酊は218条の病者に該当するかどうかが主に争点となっていたが、最高裁は酩酊により一時的に身体の自由を失っているという実質的な状態を重視して病者であると認め、このような判決を下した。このように、保護責任者遺棄罪の成立には、形式的に保護者や被保護者の関係にあるというだけでなく、事件の状況を見て実質的にその関係にあるかどうかという点が重視される。
また、現代ではあまりみられない事例だが、雇い主が雇用者が病気にかかっているときは、その面倒を見るという暗黙の了解があった時は、雇い主を保護者とみなされた場合もある。(大審院大正8年8月30日判決)
遺棄又は生存に必要な保護
遺棄については、先にあげた移置の場合だけでなく、その場所に置き去りにした場合もそれに該当すると考えられている。ただし、これは被保護者をただ移動させたというだけでなく、その場における実害危険の発生が想定された場合に限られると考えられている。凍死の危険性がある状況での屋外の放置や、逆に炎天下の中の車内放置などが典型例だろう。
生存に必要な保護とは、幼年者については同居しながら食事を与えないような、いわゆるネグレクト(児童虐待)がそれを怠った典型例といえる。そのような状態を「不保護」と呼び、この罪の重要な構成要件となっている。遺棄と異なり、場所が離れている必要はなく、同居でも成立し得るのが特徴である。
ネグレクト・虐待 の項目も参照。
兆候や痕跡・義務の放棄など、違和感があれば児童相談所などへ通報する事も重要である。
…とはいえ、多少その保護を怠ったからといってすぐにこの犯罪が成立するわけではない。育児や介護の場合は食事を与えるのを一度忘れたり、投薬を忘れた程度で成立することはない。誰でもうっかりはつきものだからである。
刑法上ではその被保護者の健康に「実害が発生する危険があると判断される」状態に至ってはじめて生存に必要な保護をしなかったと判断されるというのが通説である。判例としては、産婦人科医が妊婦の依頼によって堕胎行為を行い、出生した未成熟児を自己の医院内に放置した事例がある(最高裁昭和63年1月19日判決)
遺棄と不保護の相違点としては、犯行時の場所的な離隔の有無があげられ、被保護者と保護者が物理的に離れていれば遺棄、被保護者と保護者が同じ場所にいる場合は不保護とするのが通説の考え方である。
保護責任者遺棄致死・致傷罪
第219条
前二条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。
刑法より
遺棄の結果として、その人がケガを負ったり、死亡した場合にこの罪が成立する。傷害の罪と比較してとは、刑法204条及び205条に規定する傷害罪と傷害致死罪と比較するという意味で、この場合は量刑が15年以下の懲役又は3年以上の有期懲役に一気に跳ね上がることになる。
この場合問題となるのは、不作為の殺人罪を適用する余地があるかどうかであるが、保護責任者遺棄致死傷とみなされるには、前提として保護責任者遺棄罪が成立している必要がある。有り体にいえば、殺意があるかどうかが大きな争点となる。
簡単に言えば「めんどくさくなったから放っておこう」「うっかり置き去りにしてしまった」という動機や経緯とみなされた場合は保護責任者遺棄致死、「死んでしまっても構わない」「このまま放っておくと死ぬかもしれないが、まあいいだろう」と、死ぬ可能性を認識していているとみなされれば殺人罪が適用されるという感覚である。
死んでしまった、ケガをしてしまったという結果は大差ないが、このような犯行時に生じうる結果の認識と、動機というのは罪を考える上では非常に重要なポイントである。
具体的な判例としては、少女に薬物を注射して、少女が錯乱状態に陥ったのにも関わらず、救急車もよばずに少女が急性心不全で死亡した(最高裁平成元年12月15日判決)事例があげられる。
民法における遺棄
第770条
夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
- 一 配偶者に不貞な行為があったとき。
- 二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
- 三 配偶者の生死が3年以上明らかでないとき。
- 四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
- 五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
民法より
民法における遺棄は、このように離婚成立の重大な事由としてあげられている。
悪意の遺棄とは、離婚の可能性を認識しながら、遺棄にあたる行為をしたことを意味する。ここでいう遺棄とは、物理的に配偶者を遺棄するというだけでなく、生活費を渡さずに困窮するに任せていたり、重大な病気に罹患しているのにも関わらず、看病を怠たったり、医療費を一切渡さなかったりなど、夫婦間の協力義務に違反する行為全般を指している。放棄という言葉のニュアンスに近いだろう。
どれも倫理的に避難されるに値する行動で、裁判所で認められれば離婚成立が認められる可能性が高く、場合によっては慰謝料も請求することができる
関連項目
脚注
- 1
- 0pt