足利義持(あしかが よしもち)とは、室町幕府第4代征夷大将軍である。歴代の室町幕府将軍の中で最長の在位期間(28年)の持ち主。
概要
生年・元中3年(北朝)/至徳3年(南朝)2月12日(西暦1386年3月12日)、没年応永35年1月18日(西暦1428年2月3日)。父・足利義満、母・藤原慶子。同母弟として後に第6代将軍となる足利義教と早世した男子が、異母兄弟に尊満(そんまん)・足利義嗣・義昭(ぎしょう)・法尊(ほうそん)がいる。産まれた年月は尊満の方が早かったが、義持は嫡子として見なされた。
応永元年(1394年)には父・義満に将軍位を譲られ征夷大将軍に任命。以降朝廷における官職位もどんどん上がっていくが、足利家の家督など実権は義満に握られており、義持はお飾り将軍に過ぎなかった。父・義満との仲は悪かったらしく、義満の方もやがて義持の弟にあたる義嗣の方を溺愛し始めたのか、義嗣の官職位も異例の速さで昇進していった。そのため、一時は現将軍である義持を差し置いて義嗣が家督を継ぐのではとも思われたが、義満は病に倒れて遺言を残す暇なく危篤状態に陥ってしまった事もあり、結局は義持が家督も継承した。
事実上の幕府トップへと躍り出た義持は保守的な政策を実施。義満が行ってきた幕府と朝廷の同時掌握政策を否定し、義満が行っていた明との勘合貿易も中止した。守護大名に対しては有力者を排除するなどで力の削減を狙っている。
持氏治世中には鎌倉公方・足利持氏が元関東管領の上杉禅秀の軍勢に襲われ危うく殺されかかるという戦乱・上杉禅秀の乱が勃発する。持氏ら室町幕府は持氏方に立ち戦乱に介入。号令を受けた東海地方の守護大名が関東に攻め入り禅秀軍を撃破。禅秀は切腹に追い込まれ、戦いは鎌倉公方方の勝利に終わった。しかし、室町幕府将軍と鎌倉公方は室町幕府の上下関係にありながら成立当初から対立する関係にあった。この戦乱で鎌倉公方を支援しながらも、裏では禅秀の子どもを助命したり持氏方の武士の切り崩しを行ったりしていた。対立は激しくなる一方で戦争に突入する気配まで感じさせたが、義持の代では持氏が謝って和解という形で収まっている。幕府と鎌倉公方の対立は足利義教の代で爆発する事になる。
上杉禅秀の乱途中では父親の後継者に成り損なった義嗣が急に家出するという事件が起こっている。最初は穏便に帰宅を即した義持だったが、義嗣が応じなかったため激怒した義持は軍勢を派遣し、義嗣の身柄を確保し監禁処分とした。更に「義嗣は禅秀と結託して謀反を起こすつもりだった」と判明し、幕府中枢の有力守護大名も何人か結託していたと義嗣の部下が自白。失脚者が続出する一大スキャンダルとなる。寺に閉じ込められていた義嗣だったが、やがて義持の命を受けた側近によって暗殺された。
応永30年(1423年)に義持は将軍職を息子の義量に譲り出家する。父・義満に倣って守護大名に縛られない更なる権力集中を図ったと言われている。しかし、病弱なうえにアル中だった義量は就任からたった2年目で死亡。弟の義教らは出家していて他に後継者もいなかったため、義持が再び政治を取り仕切るハメに。
将軍に復帰した義持だったが、この頃から義満によって縮小されていた守護大名の権力が再びデカくなり、将軍の命令も無視する事態も出始めた。さらに天皇家の皇位継承問題も続いており、幕府内の大名同士の権力争いも激しさを増す一方。武士で一番偉い将軍なのに何も満足に動けないという状況にストレスがどんどん溜まり、酒と芸能活動と神社参りで精神の安定を図る日々が続く。
ストレス満載な日々にとうとう爆発したのか、応永35年(1428年)1月7日に体を崩してしまう。いよいよ死が迫ってきた・誰が見ても衰弱しきった状態となったが、再三の要請に対しても義持は後継者を指名せず、重臣同士の会議で後継者を決めるよう指示を出した。義持が後継者を決めなかったのは、この頃の守護大名の思惑に振り回される状態を振り返り、後継者を決めても大名達が承認しなければ意味がない、と考えたと思われる。
幕府重臣達は協議の結果、神の意思にゆだねるとして「おみくじ」で次の将軍を決める事にし、義持もそれを了承する。
1月17日に危篤状態になり、翌18日に死亡。享年43歳。死後にくじの結果が明かされ、同母弟の足利義教が将軍に就任した。
関連項目
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